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青森県 六戸町 上北郡 - 陸奥国
三十六天神社 -
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かつての馬産地の歴史を伝える神社。

東北地方はかつて日本を代表する馬産地だった。南部藩は「南部駒」と呼ばれる名馬の産地として古くから知れ渡っていたが、特にこの六戸のあたりには、南部藩最大の木崎野の牧場があった。これらの馬産地は昭和の中頃まで大いに振るったが、高度成長期に自動車が普及し、馬が生活必需品でなくなると、各地の牧場は衰えていった。

所在

上北郡六戸町大字犬落瀬字金矢

創建

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祭神

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 米軍基地のまち、三沢市から県道22号でまっすぐ西へ向かうとまもなく六戸町に入る。このあたりは三沢市と六戸町にまたがって、「犬落瀬(いぬおとせ)」という大字がある。(かつては「いぬとせ」と読んでいたらしい。) 
 犬落瀬のあたりは非常に平らかな八甲田山由来の火山灰地で七百台地という。ここはかつて、木崎野と呼ばれ、盛岡藩に9つあった牧場のうち、最大の牧があった。犬落瀬はその中心地区にあたる。

 一部の史料に拠れば、室町時代から8000頭の馬がいた。これは八戸の妙野牧に次ぐ規模だったことになる。かつては牧ごとに馬を区別するための印があったが、木崎野では馬の両耳の先を切り裂いてその印としていたという。
 『南部馬史』によると、木崎野牧は大雪のせいで一度廃れたらしい。江戸時代にはいると南部重直が再興し、江戸中期の寛政期(1789-1801)の記録では、犬落瀬村では250頭ほどの馬が養われるまでになった。明治に入る頃までには、800頭規模の牧場にまで発展した。



 この神社は犬落瀬の北の端のほうにあたる。「三十六天神社」というが、「三十六天」というのは道教の神々36神のことだそうだ。

 と、思ったら、こちらのブログ(「くぐる鳥居は鬼ばかり」)によれば違うらしい。『六戸町史』には、例大祭が3月16日に行われるので「三十六天神」と呼ぶようになったとのことで、つまり「三十六天」神社ではなく、「三十六天神」社なんだそうだ。



ブルーの入母屋の屋根に朱色の唐破風、白壁と、色彩ゆたかな社殿だ。

彫りが深いがもっさりとした感じの狛犬。昭和16年の銘がある。
   



社殿正面には立派な彫刻がある。

  (たぶん「木鼻」というパーツに当たるはずだが)先端がゾウさん。
   



青森の神社では、屋根がこういうようなトタンの菱型の魚鱗状になっている。


 すぐとなりには「馬頭観音」の鳥居とお堂がある。
 神仏分離の理屈から行けば、観音は仏教だから「三十六天神社」とは別にする必要があったのだろう。写真でわかるように、実際には「一体」といっていい状況だ。もちろん明治の神仏分離以前には区別などなかったのだろう。

  馬頭観音の参道脇には、このような石碑がある。
 石版の上にはこのように2頭の馬の姿が浮彫されている。

 その下の文の大意は下記の通り。

  「昭和9年に、当地産のウマ2頭が高く売れたので、それを記念して奉納した。」
  「1頭はアングロノルマンの内国産洋種馬の白雲号で、1200円で農林省が買い上げた。」
  「もう1頭はアングロアラブの内国産洋種馬の白波号で、1800円で県庁が買い上げた。」
 いまでは「ウマ」というと競馬で使うサラブレッドぐらいしか用途が思い浮かばないが、自動車が普及した昭和中期より以前には、ウマは、交通や農耕など、経済と生活のありとあらゆるものを支える基礎的なインフラだった。いまの時代、日本にはウマは1万頭ほどしかいないが、昭和初期には150万頭のウマがいたのである。

 古い時代の牧場(まきば)というのは、天然の山野にウマが自由に生きていて、そこへ行って立派なウマを捕まえて調教する。最も優れたウマは位の高い武士に献上され、戦場に連れて行かれた。ということは、優れていないウマほど牧場に残って子孫を残すということになり、長い年月を経て日本のウマは劣化していった。『平家物語』に登場するさまざまなウマの記録と、江戸時代のウマの記録を比較すると、江戸時代のウマは著しく小型化しているのだ。別に狙って小型化させたわけではなく、数々の史料が「馬は大きいのが良い」と言っている。

 西洋のウマの生産の発想は違っていて、優れたウマを残して繁殖させ、改良していくという手法だった。西洋人はアラブ人からこういう手法を学んだのだ。

 明治時代になって、日清戦争や日露戦争で日本のウマと西洋のウマが大陸の戦地で較べられるようになると、日本のウマはひどく劣っている事が発覚した。小さく、馬力がなく、性格が劣っているのだ。これは明治天皇をも悩ませることになり、政府は西洋から大々的に優秀な種馬(この場合の種馬には、牡馬と牝馬の両方を含む。)を輸入し、日本全国へ配置した。そして、今後はこれらの優秀種の子孫を優先的に繁殖させることにして、日本在来馬を駆逐していくことにした。

 このとき世界中から様々な品種のウマを輸入して試し、日本に合う品種を探し求めていった。そうやって行き着いた品種の一つが「アングロノルマン」である。「アングロ」は英国、「ノルマン」はフランスのノルマンディー地方を指し、ノルマンディー地方のウマにイギリスのサラブレッドを交配して創出された品種である。ウマは大型で大砲を牽引するような品種から、小型で人が乗り回すような品種までいろいろあるが、アングロノルマンは中間種といい、1頭で牽引・乗用の両用できるんじゃないか、ということで好まれた品種で、特に陸軍の軍馬としてポピュラーだった。(最終的には、どちらの面でも中途半端だということで廃れていく。)

 似たような名前なので紛らわしいが、「アングロアラブ」は独立した品種ではない。純血のアラブ種と、それ以外の品種の交配種を日本で勝手に「アングロアラブ」と呼んでいるだけだ。いわゆる純血品種ではないのだが、小型で、性質は扱いやすく、頑健なので乗馬として好まれている。

 そして、今ではそういうことはないのだが、輸入馬が珍しかった当時は、舶来物のウマと、国産のウマをはっきり区別していた。外国で生産されて輸入されたものを「純粋アングロノルマン」という一方で、純粋アングロノルマンと純粋アングロノルマンを日本国内で交配して誕生したものを「内国産洋種(アングロノルマン)」と言い表して、外国産の「純粋アングロノルマン」より一段低いものとみていた。純粋種と純粋種を交配したなら当然生まれてきた子も純粋種であり、どこで生まれたかは関係ない、というのは今の考え方であり、かつてはそうではなかったのだ。

 「内国産洋種馬」は、西洋種のアングロノルマンの種牡馬と、西洋種のアングロノルマンの種牝馬を、日本でかけあわせて生まれた仔、ということになる。そうやって生まれた仔を、体つきや、走らせた速度、持久力、馬力などをいろいろ検査して、優秀なものは公的機関が買い上げ、日本全国の種馬所に配置される。(売れ残りを一般庶民が買い求める。)その種馬が、日本各地津々浦々の百姓が飼っている馬に種付けされて、何世代もかけて日本中の在来種が改良されていくという計画である。

 この石碑に書かれている「白雲」号は、農林省が買い上げたと言うので、かなりの上級だったことがわかる。(最高クラスになると宮内省が買い上げていく。)「白波」は青森県庁が買ったので、それよりは一段落ちるということになるが、しかし購買価格は「白波」のほうが上なので、権威と実利は違うということなのだろう。昭和9年の日本ダービーの優勝賞金は1万円だった。今は賞金2億円なので、当時の1800円は今の3600万といったところか。

 昭和25年発行の『国有種牡馬名簿』には、青森県五戸村産のアングロアラブ「白波」号が種牡馬として掲載されている。これによると、「白波」号は昭和5年(1930年)生まれの栗毛の牡馬で、父は純粋アラブ種の「コハイランラシード一ノ四」号、母はアングロアラブの「荒波」号である。種牡馬として買い上げられた「白波」号は、昭和11年(1936年)まで育てられた後、秋に鹿児島県の国営の種馬所に配置され、南九州地方の土着馬の品種改良のために働いたのである。

 「コハイランラシード一ノ四」は、当時の世界最強国の一つ、ハンガリー帝国からの輸入種牡馬である。が、当時はまだ世界のほとんどの国で血統書が整備されていなかったので、「コハイランラシード一ノ四」がどのような血統だったのかは、今となってはわからない。(当時は「○○の何番」というような機械的な命名をよくやっていて、これは「コハイランラシード(Koheilan Raschid)」のこの中で1番目に種牡馬になった馬(Koheilan Raschid I)の、4番目の子(Koheilan Raschid I-4)=つまり、コハイランラシードの孫、ということになる。)

 「コハイランラシード一ノ四」は、当時の青森の名種牡馬であった。とくに牝馬「オーバーヤン五ノ七」号との交配で生まれた系統は優れた成績を残していて、日本競馬史上最高の成績を残したアングロアラブである「セイユウ」号はその子孫である。



神社の隣には、さらにこのような社がならんでいる。

三十六天神社と馬頭観音は、見かけ上は同じぐらいの格だったが、
これは明らかに風格が落ちる。
しかしきちんとお供え物もしてあった。

ところで、この地方の神社をいくつかまわると、ここのように社殿をさらに屋根と壁で覆う様式が目立った。雪対策なのだろう。




【青森県神社庁誌データ】

名称 三十六天神社 No

 

所在 青森県上北郡六戸町大字犬落瀬金矢 TEL
FAX
例祭日
社格
祭神
交通
社殿
境内     
氏子世帯 崇敬者数 
摂末社
備考 


西暦 元号 和暦 事項 備考
             
             
             
             
             
             
             
             
             
             
             


【参考資料】
 『日本競馬史』(日本中央競馬会、1969)
 『国有軽種種牡馬名簿』(農林省畜産局競馬部、1948、1950)
 




【リンク】
*くぐる鳥居は鬼ばかり(三十六天神社)

参拝日:2013年05月03日
追加日:2015年01月14日