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静岡県

浜松市天竜区

(旧)水窪町 磐田郡 遠江国
足神神社 -
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日本最大級の難所、青崩峠の峠下に佇む奇社。脚の病の治癒に霊験があるという。

足神霊神

長野県と静岡県のあいだにある青崩峠は、戦国時代に武田信玄が上洛する際に通ったと伝えられる。だが峠道は中央構造線の大破砕帯を通っているため、青崩峠は地盤が極めて脆く、2015年になってもなお、日本のトンネル技術の粋を集めても未だにトンネルを掘ることができない。足神神社はそんな青崩峠の麓、標高840メートルほどの位置に鎮座する。

所在

静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家

創建

祭神

足神霊神(五代目守屋辰次郎)
足の病気を治癒する神様。

水窪町(みさくぼ-)は、静岡県の北西部、静岡、長野、愛知の3県の県境に近い山間の村である。
町の北に聳える南アルプスの山嶺は最高部では2300メートルに達し、これによって信濃の国と隔てられている。そればかりか、町の東西南北すべてが険しい山に囲まれており、周囲とは隔絶されている。

町の流れる水窪川は深く狭い谷を刻んでおり、その谷底に村がある。谷の落差は700メートル以上。平地はほとんど無い。日照時間も短く、まったくもって農耕には向かない土地なのである。住民は険しい山肌に茶畑を築いたり、山林で椎茸を栽培して生計を立てている。
そんな水窪町だが、実は政令指定都市なのだ。

静岡市が大合併によって政令指定都市になると、浜松市も負けじと大合併を敢行、人口80万人の政令指定都市となった。数の上では東海地方で名古屋市の次に大きな都市、ということになっている。

その大合併によって生まれた広大な面積はなんと1560平方km。東京23区の2.5倍に達し、日本で2番めに広い市町村である。

(だから人口密度順位のことは内緒にしておいてください)
さて、足神神社はこのように道端にある小さなオヤシロだ。

 
「足の病にご利益がある」、ということになっていて、 足を模したお供え物がずらりと並んでいるのだが・・・

正直、「足狩り」でもやってるのかと思うぐらいびっくりする

 
「その昔、足が悪いヤマンバがいて 峠を通る旅人を泊めては、脚を次々と切り落としていた」
みたいな怖い話があってもおかしくない雰囲気

足神ゝ社 由来

祭神 足神霊神

北は嶮山 青崩 足神様の名も高し(当地 西浦応援歌当頂部)

昔、諸国行脚の途時にこの秋葉街道で不幸にして脚を患い 辛うじて池島に辿り着いた鎌倉の北条時頼の脚を 数日にわたって治療し前回せしめた池島庄屋地の(現在大屋)五代目守屋辰次郎を 彼亡き後時頼の命により村民が霊神として祠を建て祀ったのが この足神神社である。 これは遠く1250年代のことである。 当神社は全国にも希な神社であり遠近各地の参詣者は多数である。

奉祈願主旨 健脚祈願の人々皆是無病息災の神恩功徳あり


と、いうことで、案内に従うと、祀られているのは「五代目守屋辰次郎」なる個人である。

「守屋辰次郎」というのは、あの(死人が出ることで有名な祭りをやる)有名な信濃国の諏訪大社の神職が襲名する名跡だそうだ。ちなみに、諏訪大社の本宮があるのは「守屋山」という。

その守屋辰次郎が、応徳元年(1084年)に、何を思ったのか知らないが、僅かな伴を引き連れて当地へ移り住んできたのだという。守屋辰次郎は諏訪大明神の御幣を運んできており、ここに土着して山を切り開き、集落の開祖となった。三代目守屋辰次郎のときに「池島」の地に宅を移し、それがここだともいう。

1084年というのはいわゆる源平合戦よりも100年前の時代で、ちょうど奥州では後三年の役をやって藤原清衡が秋田の清原氏を討ち果たしていた頃である。いったい諏訪ではどんな事情があったのだろう。

さて北条時頼(1227 - 1263)である。
時頼は、元寇の時の執権で大河ドラマにもなった北条時宗の父だ。北条氏は鎌倉幕府の執権としての地位を誇るが、その地位を盤石なものにしていく下ごしらえをしたのが北条時頼だった。
北条氏は平家であり、血筋自体が権力の源泉である源氏と違って「頼朝の奥さんの実家」というところにしか権力の根拠が無かった。
だから時頼は、幕府の有力者であり北条氏の対抗者であった三浦一族や千葉一族を攻め滅ぼす一方で、民衆に対しては善政を施し、その支持を得ることで権力の基盤を形成したのだった。
 
その善政の結果、「時頼は執権を退いて隠居した後、僧となって全国をめぐり、善を行って歩いた」という廻国伝説が生まれたのだという。

実際のところは、名目上は執権の座を譲ったとはいえ、事実上の権力者として引き続き政治を司ったとされていて、病で死ぬまで鎌倉にいたようだ。これは時頼の直系が執権職を継ぐことを固定する意図があったもので、いわゆる院制と同じような性格のものだったという。(時頼はもともと病弱だった兄から執権職を譲られており、傍系だった。)鎌倉の建長寺や長谷寺の大仏は時頼によって築かれたものである。
というわけで、1250年頃(時頼は1256年に執権職を引退しているので、年代は一応合致する)に、元執権の北条時頼がフラフラとこの山奥へやって来たのだそうだ。

山奥というが、実はここ、秋葉街道(信濃街道)といって、かつては中部日本の太平洋側と日本海側を繋ぐ幹線ルートだった。
「秋葉街道」という名前は、この街道の終いのあたりに「秋葉山」があり、秋葉神社があることに由来する。信州の高遠あたりまでいくと「杖突街道」などとも呼ばれていて、北の端で杖突峠を越えると諏訪湖の畔に出る。
この道は「塩の道」とも呼ばれる。海のない信州へ交易品としての塩を運ぶ街道だったのだ。

元亀3年(1572)、甲斐の武田信玄が2万5000の大軍を率いて青崩峠を越え、上洛のために浜松を通過しようとした。これに歯向かった徳川家康が三方原の合戦で一蹴されたのはあまりにも有名だ。
今はこの足神神社、まるっきり人里離れた山奥に孤立しているが、かつては街道沿いに宿や店があったそうだ。

もうちょっと山奥に行くと「ここに店があったけど山賊に襲われて女は犯され男は皆殺しにされた」とかいうような嫌な感じの看板が立っている。
ほかにも、限界集落が限界を越えて無人になった集落跡地とか(砕け散った家屋の残骸が散乱して草ボーボーになっているが、見えないところに井戸や基礎の穴とかが空いているかもしれないので落ちると死ぬ)もあるのだ。
ところで、地図が見にくいかもしれないが、この街道、ずっと谷に沿ってほとんど一直線につながっているのがわかるだろうか。

日本列島の西部は、中央構造線と呼ばれる断層帯によって両断されている。

この断層帯を境にして、北側と南側には異なる方向からの圧力がかかっていて、地質としての成因も異なっている。秋葉街道は、この中央構造線本体の真上、つまり中央構造線の断層運動で作られた構造谷に沿って通じているのだ。
この中央構造線を挟んで両側の岩盤は性質が大きく異なっている。東側が「秩父帯」、西側が「領家帯」と呼ばれる岩盤である。
中央構造線の断層では、この異なる2つの岩盤が絶えず強い圧力で押されており、両者が衝突しこすれ合っている断層面には破砕帯が形成されている。
破砕帯というのは要するに、強力な圧力で木っ端微塵に粉砕された岩屑が詰まっている場所だ。両側からむりやり圧縮されてカタチを保っているだけなので、その力がなくなると崩れ落ちる。
 
そしてこの中央構造線による破砕帯と、南アルプスの稜線がクロスする地点が青崩峠なのである。
そんなわけでここの山は、恐ろしく崩れやすい。

道路脇もこんな有様である。破砕された岩屑がポロポロ崩れてくるのだ。


この岩盤層の「秩父帯」と「領家帯」という名前だけれども、「秩父」のほうは埼玉の秩父に由来する、というのは大方予想がつくと思う。

領家」というのは、実はこのあたりの地名なのだ。

建武の新政というのを覚えているだろうか。後醍醐天皇が挙兵し、これに足利尊氏や新田義貞が呼応して鎌倉幕府を滅ぼしたやつだ。このとき、後醍醐天皇自身は隠岐島に流されていたので、その息子である皇子たちが軍を率いた。のちに天皇方と足利尊氏とが袂を分かって争うようになると、皇子たちは全国に散って戦った。

その中の一人が宗良親王である。宗良親王は初め、大河ドラマで有名になった井伊谷に滞在して地場の武士を味方につけた。しかし足利軍に攻撃されて井伊谷が滅ぼされると、秋葉街道を伝って山中に逃れた。そして山奥に拠点をつくり、東海地方から信濃、甲斐の武将をしたがえて足利軍と戦った。

このときの宗良親王の直轄地を「領家」と言った。やがて天皇方が衰えると、この領地は在郷の武士と天皇方とのあいだで分割され(下地中分)、それ以降は山奥側の天皇方の領地を「奥領家」とも称した。これは地名として固定化され、天皇方がいなくなったあともそのままその地域は「領家」とか「奥領家」と呼ばれた。

いまの水窪の中心地には「大里」や「小畑」という地名があるが、これはもともと「内裏だいり」「御旗おはた」という地名だった。親王がいなくなったあと、畏れ多いということで「内裏」を「大里」、「御旗」を「小畑」と字を変えて書き表すようになったのだという。

さて、この領家帯と秩父帯の境の破砕帯に通じる秋葉街道は、いまは国道152号線として整備されている。太平洋側の浜松と諏訪を結ぶ重要な幹線道路だ。

だがしかし全通していない。


青崩峠を抜けるための隧道が、2017年現在の日本の最新鋭のトンネル技術を持ってしてもなお、建設できないのである。

青崩峠は、日本の科学技術が敗れた地なのだ。

(※現在の国道152号線は青崩峠越えを諦め、隣の兵越峠をトンネルではなく峠を乗り越えるルートに変更になっているが、それでもやっぱり開通していない。)


中日新聞の大晦日の一面トップを飾る記事が青崩峠トンネル着工だ、ということからも、青崩峠の中部地方におけるラスボスっぷりが象徴されているだろう。

そう言われると行ってみたくなるというものだ。

これが国道152号線の青崩峠手前である。ここから先へはどうしたって行くことができない。

(車止めを乗り越えて徒歩でならいけないこともない。危ないけど。)

その代わりと言ってはなんだが、武田信玄公も通った徒歩による青崩峠越えの道は拓かれている。

登ってみよう。とんでもない急勾配だが。

伝承では、宝永地震(1707年)によって、青崩峠はより険しくなったそうだ。

なにしろ宝永地震というのはM9クラスの(つまり東日本大震災と同等以上の)巨大地震だったそうで、しかもこの辺りは震源に近く、それじゃあしょうがないよねという気にもなる。ていうかその時富士山も噴火してるので、この世の終りと思っただろうね。
こうして、その山道には石が敷き詰められており、それなりに歩くことができる。すごく急勾配だが。

急勾配なので、あの武田信玄でさえ、途中で石に腰掛けて休憩したという。そのときの石(大岩だけど)も道端に残されているので、信玄気分で休憩することもできる。
   

というわけでここが青崩峠だ。標高1082.5メートル地点。

登り始めからの標高差は150メートルほど。水平距離は400メートルほどだ。

こう数字で書いちゃうと、なんだかなんでもない距離のように思えますよね。

だけど、水平距離400メートル、標高差150メートルというのは、40階建てのビルの目の前に立って、400メートル下がり、そこからビルの屋上まで直線で登っていくのを想像してもらえれば、どれだけしんどいかわかる。


この鞍部こそ、青崩峠である。この斜面の向こうに駆け下りれば、そこは信州なのだ。駆け下りた後まだ登ってこないといけないので、駆け下りないけどね。

というわけで、足神神社を訪れるならばぜひ、青崩峠を登ってみるべきだ。そうすれば、そりゃあ脚ぐらい痛くなるべさ、って実感できるだろう。この峠下で足を治癒してくれる人がいたら神様だと思っちゃうだろう。

明治時代までは、青崩峠は静岡県と長野県を短絡する重要な交通路であり、そのために青崩峠の坂下には集落が形成されていたそうだ。

その集落は「辰之戸」(たつんど)集落という。「辰」というのはきっと守屋辰次郎の名前から来ているのだろう。今はもう無人となっている。

このように、集落跡地にスギが伸びているから、集落が消滅してから結構な歳月が過ぎているはずだ、すぎだけに。

というわけでこの足神神社、いわゆる伝統的な神道の神様を祀った正統的な神社ではない。

にも関わらず、「足の病にご利益がある」ということで全国的な知名度があるそうで、オリンピック選手のマラソン選手みたいな人たちも参拝するのだという。いや、そのクラスになると、もうそれ、「足の病」じゃなくね?普通に故障でしょ、って思うけどね。

浜松市役所のHPによると、いまでも「守屋さん」の現当主がいて、神主をやっているそうだ。となると、移り住んできてからざっと1000年ということになるね。すごい。41代続いているとか。


【静岡県神社庁データ】
名称 足神神社 No

 

所在 静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家 TEL
FAX
例祭日
社格
祭神 足神霊神(五代目守屋辰次郎)
交通
社殿
境内     
氏子世帯 崇敬者数 
摂末社
備考 

西暦 元号 和暦 事項 備考
             
1084 応徳     諏訪大社の神職、守屋辰次郎(畑義入道)が当地周辺へ入植。   
          3代目守屋辰次郎が当地(池島)へ居を移す。  
             
125?         元執権の北条時頼が当地にて、5代目守屋辰次郎に足の治療をうける。  
          時よりの命により、神社を創建。  
             
1572 元亀 3     武田信玄が上洛のため、25,000の甲州軍を率いて峠を越える。  
             
     

【参考資料】
『静岡大百科事典』(静岡新聞社出版局、1978)
『静岡県地名辞典』(角川書店、1984)
『日本歴史地名大系 静岡県の地名』(平凡社、1995)

【リンク】
*足神神社(浜名湖国際頭脳センター・浜松情報BOOK)
*足神神社の湧き水(浜松市役所HP)


参拝日:2013年06月03日
追加日:2015年01月14日
update:2017年07月17日

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