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群馬県 高崎市 旧榛名町 (群馬郡) 上野国
済度山茂林寺無量院 -
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真言宗
豊山派
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大戸街道・榛名街道の分岐地にある寺院
上室田
高崎から長野へ向かう大戸街道と、榛名神社を目指す榛名街道の分岐となる宿場。

ここは小字「済度」という。

「済度」というのは仏教用語で、御仏が迷い苦しむ衆生を救済してあの世に導くことを指す。

地名の漢字は、少なくとも昭和の文献では「済度」と書かれている。だが今は「氵」が移動して「斉渡」に改名されているようだ。仏教丸出しぽいのを避けたのだろうか。


所在 群馬県 高崎市 上室田町 4183
(旧 群馬郡 榛名町 大字 上室田 小字 済度 4183)
明治の終わり頃まで、日本の東西を繋ぐ最大の幹線道路は中山道だった。

高崎は、中山道と新潟へ向かう三国街道との分岐点で、中山道の要衝である。その高崎から長野・善光寺方面へのショートカットになる脇道が大戸街道だ。
江戸時代、高崎から安中経由で碓氷峠を越え、信濃国へ通じる中山道が整備された。高崎から分岐して、越後へは三国街道が通じている。高崎は、江戸と関西・北陸を結ぶ幹線交通路の要衝として栄えた。

その高崎から、信濃国の北部の善光寺や松代方面への短絡路となったのが大戸街道(大笹街道)だ。群馬県(上野国)からみると信濃国へ行く街道なので「信州街道」と呼ばれ、逆に長野県(信濃国)からみると上野国へ行く街道なので「上州街道」と呼ばれていた。草津温泉への近道なので湯治客は「草津街道」と呼んだ。また、北信濃の特産品で江戸の生活に不可欠な菜種油を輸送する街道だったので「油街道」とも呼ばれている。大戸街道の宿場はこの油の輸送を請け負って大繁盛した。大戸の庄屋は上野国で一番の金持ちになったほどだ。

大戸街道のメインルート烏川の北岸を通っている。のちに南岸を通る脇道も開発された。北岸にある室田宿と、南岸にある神山宿とは、荷物輸送の利権を巡って争いが絶えなかったという。

室田宿は、榛名神社への参詣客のための榛名道の分岐地点でもあった。江戸時代、榛名神社の湧き水を畑にまくと日照りがおさまる、という信仰が関東一円に広まり、関東中の農村では毎年村の代表を榛名神社へ送り出した。これを榛名講という。
室田には、宿場町があった下室田、榛名神社との分岐点である上室田と、中間の中室田という村があった。北には榛名神社がある。その榛名神社と榛名山周辺の101の村々は、山林の利用権(入会権)をめぐって長い間争った。

多くの場合には、榛名神社vs村々という図式だったが、元禄時代には室田3村vs92ヶ村という裁判が行われ、3年もの月日を費やして争った。3村の名主はこの裁判を戦い抜くため、江戸にでて武家屋敷や商人の店の下僕として働きながら訴え続けたといい、「元禄の三奇士」と呼ばれたそうだ。

最終的に3村は勝訴したのだが、裁判費用として979両を費やしたそうだ。

▲現在の上室田済度。このみちを真っ直ぐ往くと三ノ倉宿、大戸関所、大笹関所、鳥居峠を経て信濃国に出る。現在の県道211号は右へ折れて榛名神社・榛名湖へ続いている。

当地の諏訪神社は、旧関所跡(現在は小学校)の南隣にある。参道は旧国道146号に面している。

実を言うと、街道は狩宿から鎌原を経て大笹宿へ向かうのだが、その途中の経路はよくわからない。江戸時代の1783年に浅間山が大爆発して(天明の大噴火)、このあたりはとんでもない被害を受けている。火砕流と土石流で地形が大きく変わってしまい、あちこちの集落地が消失した。なかでも鎌原では村ひとつがすっぽり土石流で埋まって全滅、483名がしている。
 


 
寺の伝えでは、戦国時代真っ最中に、斎藤三左衛門なる人物がこの榛名山の裾野を開墾し、住み着いたという。活火山である榛名山の裾野は分厚い火山灰地で、水はけが良すぎて表土に水が乏しく、農耕に向かない。だから遠くの川から榛名山の斜面を横断して水路を引いてきて、水を確保しなければいけない。大変なのだ。だから林業の村だった。

そして1572年(元亀3年)に斉藤三左衛門がこの寺を建立した。1571年(元亀2年)には武田信玄が岩櫃城に入城し、年末から1572年(元亀3年)春にかけて、利根川と吾妻川の合流地点にある白井城をめぐって上杉謙信と対峙していた時期。

このあたりで「斎藤」というと、真田幸隆に滅ぼされた岩櫃城の斎藤氏かなと思うがどうだろう。斎藤氏は1565年(永禄6年)に岩櫃城の隣、嵩山城を攻め落とされ、一族は自害して滅亡したことになっているのだが・・・。本当に一族かどうかは確認しようもないが、斎藤家の敗残兵が落ち延びてきて「斎藤」を名乗ったということはあるのかも。いずれにせよ、この済度では斉藤家が代々上室田村の名主を務めたそうだ。
 
無量院は「済度山茂林寺」といい、寺を建立した斉藤三左衛門は、没後「茂林居士」という戒名をもらっている。上野国で「茂林寺」というと、館林にある茂林寺が有名。「ぶんぶく茶釜」ゆかりの寺なんだそうだ。

開山は行蔵という僧である。
 


境内にはとてもたくさんの石碑、地蔵、小祠が並んでいる。
きっと村内のあちこちにあったものをここ一箇所に集約したのではないだろうか。そういう意味では村社ぽい寺だ。


これは入り口にある「紀元二千六百年記念」の石碑。
こういうものがあるというのも、神社ぽい。


その向かいにはお地蔵さんが並んでいるので、神社ではなく仏寺なんだということになる。

ただ、ほとんどの石碑は、字が読めないのでよくわからない。
今回はあまり詳しい調べ物もできていないので・・・



この右の大きな石碑は「高橋寅吉翁之碑」とある。
本文は読めない(読む気もない)のでよくわからないが、いわゆる領徳碑なんだろう。

左のひとまわり低い、ぐにゃっとした碑は「本堂屋根改築記念」の碑。



これは日清戦争の忠魂碑


これは「聖徳太子」と彫られているような気がする。




かつて村のどこかで祀られていたのであろうちいさな祠や石仏が並んでいる。



これは庚申碑。

名称 済度山 茂林寺 無量院 神紋画像
所在 群馬県 高崎市 上室田町 4183
(群馬郡 榛名町 大字 上室田 小字 済度 4183番地)
宗派 真言宗 豊山派-
神紋
祭神 -  
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開基 1572年(元亀3年)  
境内 -  
社殿 -  
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祭礼 -  
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摂末社  -  
氏子
崇敬者
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宝物等 -  
文化財 -  
交通 JR東日本・北陸新幹線「安中榛名」駅より約3.9km  
TEL    
FAX    
HP    

西暦 元号 和暦 事項 備考
             
1572 元亀 3     済度地区を開拓した斎藤三左衛門(茂林居士)による開基  
             
             
1909 明治 42     下室田の松仙寺を合併する。  
   
     
             

参考資料
『日本歴史地名大系 群馬県の地名』(1987)、平凡社
『角川日本地名大辞典 10 群馬県』(1988)、角川書店

【リンク】


 

参拝日:2019年06月30日
追加日:2019年07月06日

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