吾妻川 |
草津温泉に湧く強酸性の湯が須川(白砂川)から流れ込むために、戦前までは死の川だった吾妻川。 |
両岸が険しい断崖になっている吾妻川や支流の白砂川沿いには、大きな街道は発達しなかった。そのかわり、高崎からは烏川・温川に沿って街道がひらけており、その須賀尾宿から北へ須賀尾峠を越えて長野原に出る抜け道(須賀尾道)があった。この道は草津温泉への最短路でもあったので、「草津みち」とも呼ばれていた。
吾妻川沿いには吾妻峡を避けて東の雁ヶ沢に通じる険しい巻き道(雁ヶ沢道)があり、西方では遠く鳥居峠を越えて信濃国の上田や須坂へ続いていることから「信州みち」などとも呼ばれていた。

長野原は吾妻川と白砂川の合流地点であり、そこに谷口集落が形成されている。草津みちと信州みちはここで交差している。須賀尾峠を下ってきた草津みちは、吾妻川に架かる「琴橋」を渡って長野原に入る。一方、信州みちは白砂川に架かる「須川橋」を渡る。中世の長野原は、2つの道の交点であり、しかも断崖を渡る2つの橋があることから「両橋里」と呼ばれ、西吾妻地方の交通の要衝となっていた。
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▲実は現地に行った時点では橋の存在に気づいていなかったので、あと100メートルほどの距離まで行っていながら琴橋を見ることがなかった。実際このあたりに琴橋がある。
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そんな交通の要衝である長野原には、戦国時代に城が築かれている。城は長野原町役場の裏山の上にあった。このあたりはもともと雲林寺の敷地で、明治中頃まで役場の業務は雲林寺の本堂の一角を借りて業務を行っていた。その後、明治30年頃に敷地を借りて旧庁舎を新築したのだが、その旧庁舎の建築年代は不明だという。
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▼長野原町役場庁舎。
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それからおよそ30年後の1929年(昭和4年)に役場庁舎を新築したのがこれ↑。いい感じだ。が、いまやもう築90年を迎え、2018年現在は新庁舎を建築中だ。 |
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▲これが現在建築中の新庁舎。
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この役場の前を国道145号線が走っている。これがかつての「雁ヶ沢道」だ。 |
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この国道は、例の八ッ場ダムの建設によってダムの底に沈むことになっているため、付け替えが行われている。新道は既に開通しているけれど、いちおう、今はまだ旧道が国道の扱いになっている。この旧道は長野原町役場、長野原駅、川原湯温泉、旧川原湯温泉駅、吾妻峡を経て東吾妻へ続いている。まもなく沈むので、吾妻峡の姿を見るなら今が最後だ。
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というわけでこれが長野原の諏訪神社。
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一の鳥居、赤い二の鳥居、白い三の鳥居が見えている。
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金属製の台輪鳥居は平成25年に整備されたばかりのもの。これも八ッ場ダム絡みだろうかねえ。
こちらのブログ(2013年)では以前の木製鳥居が見られます。
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三の鳥居は石製。こちらも平成25年製。
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境内には様々な石碑がズラリ。
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こちらは1959年(昭和34年)12月の記念碑。亥の年12月なので、来年で還暦だ。
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此の神域の石造り玉垣は皇太子殿下の御成婚奉祝記念事業として氏子一般の崇高なる敬神魂の発露によって建立されたものである
昭和34巳亥歳12月
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道祖神やらなにやらいろいろ見えるが、この諏訪神社は長野原の小祠10数社を合祀しているので、いろいろなところからかき集まったものだろう。
合祀されたのは・・・
・諏訪神社の境内末社5社
・飯綱神社(長野原町字町裏)と、その境内末社2社
・八坂神社(長野原町字町)
・大山祗神社(長野原町字坪井)と、その境内末社2社
・大山祗神社(長野原町字貝瀬)
・稲荷神社(長野原町字貝瀬)と、その境内末社4社
長野原に限らず、西吾妻は歴史史料に著しく乏しい。そのため元禄時代以前については、確かなことは全く判っていないのだ。西吾妻地方についての最も古い史料は、元禄時代の沼田藩士、加沢平次左衛門という人物が残した覚書、通称『加沢記』である。真田氏が治めた頃の沼田藩に生まれた加沢は、西吾妻地方の西の要衝である大笹関所に務めるなどして、のちに藩主真田信利の右筆となった。その加沢が西吾妻で聞き知ったことをまとめたのが『加沢記』である。その記述は中世に遡るものの、どこまでが史実なのかはわからない。
諏訪神社は、この『加沢記』に両橋里(長野原)の諏訪大明神として登場する。神社の境内が「長野原の合戦」の舞台となったからだ。諏訪神社の創建などの由緒はまったく不明だが、少なくとも長野原の合戦があった永禄6年(1563年)の時点ではここに鎮座していたことが伺える。
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参道の左右に配置された石灯籠。よくみると一つづつ違ったナリをしている。
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これは大正5年(1916年)9月。
この年、長野原では大字の改名が行われた。明治の中頃まで長野原は10ヶ村に分かれていて、明治22年(1889年)にいわゆる明治の大合併があり、10村が集まって長野原町となった。そのときには、旧村はそのまま大字になった。たとえば、旧応桑村は「長野原町大字応桑村」、旧羽根尾村は「長野原町大字羽根尾村」といった感じだ。
この「村」を除去するということになり、大正5年秋に知事の許可を得て、大正6年1月1日から「大字応桑」「大字羽根尾」に改称になった。
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これは天保3年(1832年)。「壬辰
」とある。「壬」は十干(10で一周)、「辰」は十二支(12で一周)。
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こちらは文化10年(1813年)7月。「7月」というが、たぶん旧暦だから、大雑把にはいまの8月頃ということになる。「癸酉
」。
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これは明治20年。大合併前のものだ。合併前は「村」といっても、今のように村ごとに役場があったわけではない。近隣の村々がいくつか集まって、一箇所に「戸長役場」を置いていた。長野原の場合には5ヶ村の戸長役場が長野原に置かれていた。
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こちらの灯籠は見るからに新しい。
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鳥居と同じ、平成25年製。
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最後の一組も、傘に苔が生えているとはいえ、江戸時代や明治のものよりは新しく見える。
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昭和3年(1928年)だ。「御大典」というのは、昭和天皇の即位の礼。
大正天皇は大正15年(1926年)12月25日に崩御したため、「昭和元年」は1週間しか無かった。翌昭和2年(1927年)はまるまる一年を服喪の年とし、昭和3年に即位の礼が行われたのだ。
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狛犬一組。
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皇軍全勝・武運長久の文字が。
昭和12年(1937年)12月とある。この年7月に盧溝橋事件があり、北支事変(支那事変)から日中戦争へと拡大していった時期だ。
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まとめるとこんな感じ。
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長野原合戦之地
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永禄六年九月下旬幸隆公の舎弟長野原城の大将常田新六郎隆永の城兵は農繁期のため小勢だった琴橋須川の橋を落し寄手を防ぐ城兵を岩櫃城主斎藤越前守は白井長尾の援兵を請羽尾入道海野能登守を大将に王城山から五百余騎鉄砲を打掛材木を伐り須川を埋めて押し渡り斎藤弥三郎は三百余騎で湯窪口から攻め寄せて諏訪明神の社前で西吾妻最大の凄絶な合戦が展開したが多勢に無勢闇に紛れて敗退した、しかし斎藤越前守没落の端緒となった長野原合戦の地である
昭和六三年十月吉日 |
西暦 |
元号 |
和暦 |
月 |
日 |
事項 |
備考 |
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1563 |
永禄 |
6 |
9 |
下旬 |
長野原の合戦 |
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1686 |
貞享 |
3 |
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検地帳に神社境内が免租地となっている旨掲載。 |
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1783 |
天明 |
3 |
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浅間山大噴火により引き起こされた洪水で町が全滅。 |
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1909 |
明治 |
42 |
4 |
16 |
許可 |
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〃 |
〃 |
〃 |
5 |
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飯綱神社(字町裏)とその境内社2、八坂神社(字町)、大山祗神社(字坪井)とその境内社2、大山祗神社(字貝瀬)、稲荷神社(字貝瀬)とその境内社4を合祀 |
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1910 |
〃 |
43 |
3 |
21 |
火災により、中宮を残して、社殿や境内の樹林など全てを焼失する |
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〃 |
〃 |
〃 |
11 |
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社殿を再建 |
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1915 |
大正 |
4 |
8 |
13 |
村社に指定、町幣供進社となる。 |
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