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群馬県 長野原町 長野原 (吾妻郡) 上野国
諏訪神社(長野原) -
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村社
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真田幸隆が敗れた戦地となった神社
吾妻川
草津温泉に湧く強酸性の湯が須川(白砂川)から流れ込むために、戦前までは死の川だった吾妻川。

「諏訪神社」は長野県の諏訪湖畔にある諏訪大社を総本社とする神社だ。長野県はもちろん、信州にほど近い吾妻地方には諏訪神社がとても多い。

基本的に諏訪神社は建御名方神とその妻の八坂刀売神を祀るのだが、吾妻地方の諏訪神社は数多くの小社を合祀して成立しており、たくさんの副祭神を持っている。


所在 群馬県 吾妻郡 長野原町 長野原 241
(長野原町 大字 長野原 字 町 241)
吾妻川は群馬県の北西部を東西に流れている。川はいわゆる大地溝帯(フォッサマグナ)の東端の大断層を横切って流れている。この地勢のため、周囲には活発な火山が多く、溶岩が造り出した岩盤に狭くて深い断崖を刻んで流れている。こうした峡谷の代表例が吾妻峡だ。

これらの断崖絶壁に阻まれて、吾妻川流域には長い間、東西の連絡路が発達してこなかった。
「長野原」という地名の由来にはいくつかの説がある。単純に、河岸段丘が横長だったので「長野原」になったという説や、戦国時代に上野国箕輪城を支配した長野業盛が、武田信玄に攻められて落城したのち、その一族が落ち延びてこの地に隠棲したのでこの地名になったのだという伝承もある。その逆の説もあって、平安時代、長野氏一族の先祖である在原業重(在原業平の子)が上野国国司に任じられて赴任する際に、長野原に住んだことから長野氏を名乗るようになったという。

長野原は吾妻川と白砂川の合流部にできた谷口集落である。白砂川の上流には有名な草津温泉がある。草津温泉はきわめて強烈な硫黄泉で、pHは2と強酸性だ(pHは0から14で、7が中性)。その温泉水が流れ込むため川は生き物が棲息することは不可能で、古来から昭和40年代まで、下流の川は吾妻川まで死の川だった。酸性が強すぎるため、吾妻川には鉄橋やコンクリート橋も架けることができなかった。昭和40年に草津温泉の下流にダムが作られ、そこに貯めた酸性水に石灰を投入して中和するようになった。これによりようやく、吾妻川は魚が住めるようになった。

「白砂川」という名前はこのダムができたあとの昭和42年につけられた名前で、それ以前は「須川」(酸川)といった。

両岸が険しい断崖になっている吾妻川や支流の白砂川沿いには、大きな街道は発達しなかった。そのかわり、高崎からは烏川・温川に沿って街道がひらけており、その須賀尾宿から北へ須賀尾峠を越えて長野原に出る抜け道(須賀尾道)があった。この道は草津温泉への最短路でもあったので、「草津みち」とも呼ばれていた。

吾妻川沿いには吾妻峡を避けて東の雁ヶ沢に通じる険しい巻き道(雁ヶ沢道)があり、西方では遠く鳥居峠を越えて信濃国の上田や須坂へ続いていることから「信州みち」などとも呼ばれていた。

長野原は吾妻川と白砂川の合流地点であり、そこに谷口集落が形成されている。草津みちと信州みちはここで交差している。須賀尾峠を下ってきた草津みちは、吾妻川に架かる「琴橋」を渡って長野原に入る。一方、信州みちは白砂川に架かる「須川橋」を渡る。中世の長野原は、2つの道の交点であり、しかも断崖を渡る2つの橋があることから「両橋里」と呼ばれ、西吾妻地方の交通の要衝となっていた。
▲実は現地に行った時点では橋の存在に気づいていなかったので、あと100メートルほどの距離まで行っていながら琴橋を見ることがなかった。実際このあたりに琴橋がある。
そんな交通の要衝である長野原には、戦国時代に城が築かれている。城は長野原町役場の裏山の上にあった。このあたりはもともと雲林寺の敷地で、明治中頃まで役場の業務は雲林寺の本堂の一角を借りて業務を行っていた。その後、明治30年頃に敷地を借りて旧庁舎を新築したのだが、その旧庁舎の建築年代は不明だという。
 ▼長野原町役場庁舎。
それからおよそ30年後の1929年(昭和4年)に役場庁舎を新築したのがこれ↑。いい感じだ。が、いまやもう築90年を迎え、2018年現在は新庁舎を建築中だ。
 ▲これが現在建築中の新庁舎。
この役場の前を国道145号線が走っている。これがかつての「雁ヶ沢道」だ。
この国道は、例の八ッ場ダムの建設によってダムの底に沈むことになっているため、付け替えが行われている。新道は既に開通しているけれど、いちおう、今はまだ旧道が国道の扱いになっている。この旧道は長野原町役場、長野原駅、川原湯温泉、旧川原湯温泉駅、吾妻峡を経て東吾妻へ続いている。まもなく沈むので、吾妻峡の姿を見るなら今が最後だ。


 というわけでこれが長野原の諏訪神社。
一の鳥居、赤い二の鳥居、白い三の鳥居が見えている。
金属製の台輪鳥居は平成25年に整備されたばかりのもの。これも八ッ場ダム絡みだろうかねえ。

こちらのブログ(2013年)では以前の木製鳥居が見られます。
三の鳥居は石製。こちらも平成25年製。
 
 
境内には様々な石碑がズラリ。
こちらは1959年(昭和34年)12月の記念碑。亥の年12月なので、来年で還暦だ。
此の神域の石造り玉垣は皇太子殿下の御成婚奉祝記念事業として氏子一般の崇高なる敬神魂の発露によって建立されたものである

昭和34巳亥歳12月
道祖神やらなにやらいろいろ見えるが、この諏訪神社は長野原の小祠10数社を合祀しているので、いろいろなところからかき集まったものだろう。

合祀されたのは・・・
 ・諏訪神社の境内末社5社
 ・飯綱神社(長野原町字町裏)と、その境内末社2社
 ・八坂神社(長野原町字町)
 ・大山祗神社(長野原町字坪井)と、その境内末社2社
 ・大山祗神社(長野原町字貝瀬)
 ・稲荷神社(長野原町字貝瀬)と、その境内末社4社

長野原に限らず、西吾妻は歴史史料に著しく乏しい。そのため元禄時代以前については、確かなことは全く判っていないのだ。西吾妻地方についての最も古い史料は、元禄時代の沼田藩士、加沢平次左衛門という人物が残した覚書、通称『加沢記』である。真田氏が治めた頃の沼田藩に生まれた加沢は、西吾妻地方の西の要衝である大笹関所に務めるなどして、のちに藩主真田信利の右筆となった。その加沢が西吾妻で聞き知ったことをまとめたのが『加沢記』である。その記述は中世に遡るものの、どこまでが史実なのかはわからない。

諏訪神社は、この『加沢記』に両橋里(長野原)の諏訪大明神として登場する。神社の境内が「長野原の合戦」の舞台となったからだ。諏訪神社の創建などの由緒はまったく不明だが、少なくとも長野原の合戦があった永禄6年(1563年)の時点ではここに鎮座していたことが伺える。
 
参道の左右に配置された石灯籠。よくみると一つづつ違ったナリをしている。
これは大正5年(1916年)9月。

この年、長野原では大字の改名が行われた。明治の中頃まで長野原は10ヶ村に分かれていて、明治22年(1889年)にいわゆる明治の大合併があり、10村が集まって長野原町となった。そのときには、旧村はそのまま大字になった。たとえば、旧応桑村は「長野原町大字応桑村」、旧羽根尾村は「長野原町大字羽根尾村」といった感じだ。

この「村」を除去するということになり、大正5年秋に知事の許可を得て、大正6年1月1日から「大字応桑」「大字羽根尾」に改称になった。
これは天保3年(1832年)。「壬辰 みずのえたつ 」とある。「壬」は十干(10で一周)、「辰」は十二支(12で一周)。
こちらは文化10年(1813年)7月。「7月」というが、たぶん旧暦だから、大雑把にはいまの8月頃ということになる。「癸酉 みずのととり 」。
これは明治20年。大合併前のものだ。合併前は「村」といっても、今のように村ごとに役場があったわけではない。近隣の村々がいくつか集まって、一箇所に「戸長役場」を置いていた。長野原の場合には5ヶ村の戸長役場が長野原に置かれていた。
こちらの灯籠は見るからに新しい。
鳥居と同じ、平成25年製。
最後の一組も、傘に苔が生えているとはいえ、江戸時代や明治のものよりは新しく見える。
昭和3年(1928年)だ。「御大典」というのは、昭和天皇の即位の礼。

大正天皇は大正15年(1926年)12月25日に崩御したため、「昭和元年」は1週間しか無かった。翌昭和2年(1927年)はまるまる一年を服喪の年とし、昭和3年に即位の礼が行われたのだ。
狛犬一組。

皇軍全勝・武運長久の文字が。
昭和12年(1937年)12月とある。この年7月に盧溝橋事件があり、北支事変(支那事変)から日中戦争へと拡大していった時期だ。
まとめるとこんな感じ。

こちらがおやしろです。

拝殿は間口4間、奥行4間余の権現造です。上の写真だと近づきすぎて何が何だかわからないですが

横から見ると、左側が拝殿、右側が本殿、両者を繋ぐ渡り廊下みたいな部分が幣殿に相当する「石の間」です。
彫刻など、華美なものはみられないです。この建物は明治43年(1910年)11月に建てられたもの。さすがにその時期では彫刻はもう無理ですね。

その前年の明治42年(1909年)5月に町内の10数社を合祀したのだけど、明治43年3月21日に火災があり、堂宇や樹木など境内のほとんどを焼失してしまったそう。その後に再建されたのがこの建物だ。
これは隣接する建物。昭和51年(1976年)の『長野原町史』によると、これは社務所ということになっているのだけれど、今は「長野原区住民センター」「長野原町長野原区事務所」などの看板が出ており、公民館のようになっている。

境内には「長野原合戦之地」の石碑がある。

長野原合戦之地

永禄六年九月下旬幸隆公の舎弟長野原城の大将常田新六郎隆永の城兵は農繁期のため小勢だった琴橋須川の橋を落し寄手を防ぐ城兵を岩櫃城主斎藤越前守は白井長尾の援兵を請羽尾入道海野能登守を大将に王城山から五百余騎鉄砲を打掛材木を伐り須川を埋めて押し渡り斎藤弥三郎は三百余騎で湯窪口から攻め寄せて諏訪明神の社前で西吾妻最大の凄絶な合戦が展開したが多勢に無勢闇に紛れて敗退した、しかし斎藤越前守没落の端緒となった長野原合戦の地である

昭和六三年十月吉日

正直、ちょっと何言ってるかわかんない
永禄4年(1561年)秋、武田信玄と上杉謙信はいわゆる川中島の戦い(第4次)で激突、武田信玄は夥しい犠牲を出しながら、北信濃をおおむね掌中に収めた。これにより信玄は、上野国方面へ狙いを移すことになる。

その頃の西吾妻は、岩櫃城の斉藤氏が周辺の土豪を従えていた。斎藤氏はもともと吾妻氏の家臣だったが、下剋上により支配者となったものである。羽尾城(羽根尾城)の羽尾氏や、鎌原城の鎌原氏などは、先祖を遡ればどちらも北信濃の滋野氏の末裔で同族であるのに、領地境を巡って対立していて、斎藤氏にそれを利用されていた。

鎌原氏は、同じ海野氏系で武田信玄に臣従する真田氏が北信濃で重用されていることを知ると、真田氏の伝手で武田信玄に内通し、真田氏を後ろ盾にして西吾妻を奪おうとした。しかし、すぐに斎藤氏・羽尾氏などの反撃に遭い、鎌原氏は城を捨てて北信濃へ逃れ、武田信玄の下に身を寄せた。鎌原城は羽尾氏の手に渡った。

永禄5年(1562年)6月、羽尾氏は万座温泉へ湯治に出かけた。これを知った鎌原氏は、真田の兵を借りて鎌原城へ急行、ほとんど空だった城を難なく取り戻した。周辺の小地侍は次々と真田に下った。これにより退路を断たれて羽尾に戻れなくなった羽尾氏は、鳥居峠を越えて北信濃の高井へ逃れた。真田幸隆は長野原の城を実弟の常田隆永(新六郎)に預けた。

このあと起きたのが「長野原の合戦」である。

高井へ逃げていた羽尾氏はなんとか岩櫃城へたどりつき、斎藤氏に助けを求めた。斎藤氏は、東吾妻の白井城の長尾氏なども援軍として、南・東・北の三方から長野原城へ攻め寄せた。

守る常田隆永は、須川(白砂川)に架かる須川橋と吾妻川に架かる琴橋を切って落とし、なんとか凌ごうとした。しかし、斎藤軍は山の木を切って須川に投げ落とし、これを伝って川を渡ってきた。

大将の常田隆永みずから先頭に立って城を出て、諏訪大明神(諏訪神社)の境内で斎藤軍を迎え撃つが、多勢に無勢、常田隆永は討ち死にして真田・鎌原軍は敗走したのだった。

この後、真田幸隆は作戦変更を余儀なくされた。吾妻川の断崖を利用した天険の要害が連なる西吾妻方面へは、力押しは無理とみて、斎藤氏に従う地侍たちを調略で切り崩すことにしたのだ。これにより羽尾氏、草津温泉の湯本氏らが真田に寝返り、真田幸隆は岩櫃城攻略を成功させる。しかし、斎藤氏は越後へ逃れて上杉謙信を頼り、今度は上杉氏が岩櫃城攻略に乗り出す・・・



名称 諏訪神社 神紋画像
所在 群馬県 長野原町 長野原 241
(吾妻郡 長野原町 大字 長野原 字 町 241)
社格 村社
- 神紋
祭神 建御名方命  
八坂刀売命、大日孁命、天照大神、宇迦之御魂神  
火産霊命、軻遇突智命、速須佐之男命、三柱大神  
菅原道真公、金山彦命、宇気母智命、大山祇命  
創建 不詳  
境内 1反9畝16歩(≒1937.19u≒586坪)  
社殿 本殿(間口二間半、奥行二間、切妻造)、幣殿(間口一間半、奥行二間、切妻造)、拝殿(間口四間、奥行四間余、権現造、高欄・向拝付き)、廻廊(幅三尺)、いずれも明治43年(1910年)築。  
中宮四座(主神1、配祀神3)。  
社務所(間口七間、奥行四間四尺)  
祭礼 春祭(4月25日・諏訪大明神大祭)、例祭(7月24日・八坂大明神例祭)、秋祭(9月7日・諏訪大明神例祭)  
祈年祭(2月20日・稲荷大明神初午祭)、新嘗祭(11月27日)、大鿆祭(12月27日)  
摂末社  境内摂末社(三峯社、古峯社)  
氏子
崇敬者
氏子数285、世帯数404(昭和46年時点) 
370戸(昭和51年)
 
宝物等 -  
文化財 -  
交通 JR東日本・吾妻線「長野原草津口」駅より約700m  
TEL    
FAX    
HP    

西暦 元号 和暦 事項 備考
             
             
1563 永禄 6 9 下旬 長野原の合戦  
1686 貞享 3     検地帳に神社境内が免租地となっている旨掲載。  
1783 天明 3   浅間山大噴火により引き起こされた洪水で町が全滅。  
             
           
1909 明治 42 4 16 許可  
5   飯綱神社(字町裏)とその境内社2、八坂神社(字町)、大山祗神社(字坪井)とその境内社2、大山祗神社(字貝瀬)、稲荷神社(字貝瀬)とその境内社4を合祀  
1910 〃  43 3 21 火災により、中宮を残して、社殿や境内の樹林など全てを焼失する  
11   社殿を再建  
1915 大正 4 8 13 村社に指定、町幣供進社となる。  
             

参考資料
『長野原町誌』(1976)、長野原町
『角川日本地名大辞典 10 群馬県』(1988)、角川書店
『日本歴史地名大系 群馬県の地名』(1987)、平凡社
『群馬県百科事典』(1979)、上毛新聞社
『群馬新百科事典』(2008)、上毛新聞社
『群馬県の歴史散歩』(2005)、山川出版社

【リンク】
*諏訪神社 (わんこの目線で、神社巡りをする…)
*長野原古戦場 (城館探訪記)
 

参拝日:2018年12月07日
追加日:2018年12月07日

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