狩宿 |
狩宿は、江戸時代に北信州と江戸の物流を担って大いに栄えた街道上に位置する宿場町。 |
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当地の諏訪神社は、旧関所跡(現在は小学校)の南隣にある。参道は旧国道146号に面している。
実を言うと、街道は狩宿から鎌原を経て大笹宿へ向かうのだが、その途中の経路はよくわからない。江戸時代の1783年に浅間山が大爆発して(天明の大噴火)、このあたりはとんでもない被害を受けている。火砕流と土石流で地形が大きく変わってしまい、あちこちの集落地が消失した。なかでも鎌原では村ひとつがすっぽり土石流で埋まって全滅、483名がしている。
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それにしても、吾妻地方の神社は諏訪神社だらけだ。
要するにかつては小さな神社が散在していて、明治時代にそれらを一箇所にまとめたんだろうけど、どこもかしこも諏訪神社を中心に据えたのだ。諏訪神社=長野県というイメージがあるけれど、西吾妻地方はほぼ長野県みたいなもの、ということなのかもしれない。
実際のところ、西吾妻地方は歴史的にはほぼ長野県といって差し支えない。鎌倉時代の史料(『吾妻鑑』)とかでも西吾妻地方を「信濃国」に入れているものがあるし、江戸時代に入っても草津温泉を「信濃国」としているものが多数ある。鎌倉時代から室町時代までは、北信濃の海野氏の縄張りだったし、戦国時代以降は海野氏の後裔である真田氏が支配したのだから、実質的に信濃国なのだ。
 諏訪神社に話を戻すけれど、どこもかしこも諏訪神社なので区別が難しい。この神社の場合には、「応桑諏訪神社」と表現しているサイトが多いようだ。しかしちょっと情報が乏しい。『長野原町誌』を眺めても、詳しい歴史は不詳となっている。
社号標をよーくみると、「諏訪神社」の上に2文字を埋め潰した跡がある。2文字目は「社」だ。ふつう「村社」とか「郷社」の文字が来るので、そのどちらかを潰したということだが・・・1文字目が「村」なのか「郷」なのかちょっとわからない。
あとに出てくるが、この神社はずいぶん多くの周辺小社を合祀しており、たしかに村社・郷社クラスの規模がある。
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鳥居脇の道祖神。男女の睦まじい様子を表した双体道祖神だ。
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ちょっと写真では読み取りにくいと思うが、この石製鳥居には「昭和29年9月25日」と刻んである。
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こちらは社務所。
この建物は、上野国の南西端にある館林藩(群馬県館林市、鶴舞う形の鶴の頭のあたり)の藩主、秋元氏の別荘を移築したものだという。なぜ館林藩主の館を持ってきたのかというと、明治時代になって職を失った士族の授産のため、旧館林藩士が開拓農家として当地一帯に入植したからだ。
彼らは浅間山北麓の高原地帯(六里ヶ原、いまの北軽井沢)の開拓を行い、御所平地区を築いた。しかし開拓は厳しく、入植した12戸のうち10戸までが脱落した。だが残った2戸が開拓を諦めず、やがてその子孫が分家して10戸にまで増えたという。
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参道と社殿。
ちょーっとわかりにくいけれど、拝殿の右側、写真でいうと右から二本めあたりに見えている木が、下は2本だけど上の方で1本になっているのがわかるでしょうか。これは杉と欅の合体木だそうで、これが「縁結びの木」と呼ばれているそう。
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本殿を見物しようと回り込んでみたけど、ガッチリガードされてて見えなかった。
周辺の神社もこんな感じだったので、吾妻地方ではこれが標準スタイルなんだろう。冬の雪対策なのか、浅間山噴火対策なのか?
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境内の雰囲気は、正直な話、普通によくある小集落の小神社なんだけど、看板は妙にポップだった。♥縁結びの木 とかあるし。
ずらりと並んだ境内末社の案内をみると、この神社がなかなかどうしてこの地域の総社になっていることがわかる。
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で、こちらが天満宮&多くの末社。
看板を見ると、天満宮と10の末社があるように書かれている。
でもこれを見ると、中央の祠と、左の祠のほか、後列に4つの祠があり、さらに右側で野ざらしの祠が
7あるように見える。ちょっとどれが何だかわからなかった。
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こちらは八幡宮。
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境内とその向かい側に見える住宅地。
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