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富山県

高岡市

射水郡 越中国
関野神社 -
式内社
-
県社
-
高岡市の駅に近い一角にある神社。

高岡

 高岡市は、富山県の中では富山市の次に大きな都市で、特に鋳物で有名である。高岡市は高岡城の城下町として発展したものだが、その高岡城は加賀百万石を築いた前田利長公が隠居のために築いた城だった。

所在

富山県高岡市末広町9-56

創建

祭神

国常立尊
天照皇大神、伊弉冉尊、稲倉魂命、菅原道真、前田利長ほか
国常立尊(くにのとこたちのみこと)は、『日本書紀』や『古事記』のなかで、最も初めに現れた神とされている。前田利長はいわゆる「加賀百万石」の加賀藩の初代藩主。隠居後は初め富山に住み、のちに高岡に城を築いて移った。

 いわゆる「北陸」の福井県、石川県、富山県、新潟県を旧国名で言うと、越前国(福井県)、加賀国・能登国(石川県)、越中国(富山県)、越後国(新潟県)となる。そもそも「越」というのは、古代にこの一帯が「コシ国」というヤマト王権からは独立した存在だったことに由来する。古い時代にはコシに「高志」の字を充てていたが、のちにこれを「越」と書くようになったものだ。

 中世の越中国は目立たない存在だ。いわゆる有名な大名が育たつ、小勢力が乱立していた。室町時代には畠山氏が守護職を授かったが、畠山氏は実際には越中に赴かず、京都にとどまった。そして神保氏を守護代として越中に派遣した。平安時代のような統治スタイルだったのである。戦国時代になると織田家の柴田勝家が侵攻し、北陸方面を支配するようになった。その柴田氏が豊臣秀吉に敗れて失脚すると、軍功によって前田利家が北陸を支配するようになった。これがいわゆる「加賀百万石」のルーツである。

 前田利家は加賀国・金沢に本拠地を置いた。その子、前田利長は越中に、前田利政は能登に所領を与えられた。関が原の合戦の直前に利長が家督を継ぎ、父の所領だった加賀もあわせて加賀・越中に約60万石を治めるまでになった。まもなく、弟の利政は関が原の合戦で西軍に与したため所領を没収され、これが利長に与えられる。これによって前田利長は「百万石」(正確には122万石ぐらいあった)を誇る日本最大の大名となったのである。

 利長は子がなかったため、弟の前田利常を養子とし、慶長10年(1605年)に家督を譲って隠居した。利長は初め富山に住んだが、まもなく富山城が火災で焼失してしまい、高岡に城を築いて移り住んだ。それ以後、高岡の城下町が発展したのだという。利長は慶長19年(1614年)に没し、高岡の瑞龍寺がその菩提寺となっている。
 ▲前田利長公の菩提寺、瑞龍寺。

 というわけで高岡。


冬、雨、風邪と条件が揃った日に高岡を訪れた。(風邪は変換ミスではない。風邪をひいていたのだ。) 古い屋敷や鋳物の見物をしたあと、駅へ帰ろうとして歩いているうちにたまたま通りがかった神社である。

馬の銅像に梅の家紋が記されている。

「梅の家紋」は菅原氏の家紋としてよく知られていて、菅原道真を祭る天満社ではよくお見かけするものだ。

これはもともと菅原道真が梅の花を愛好したことに由来するのだという。

 前田家の家紋は「加賀梅鉢」というのだが、これも梅の花が基になっている。

 これは、前田氏が、菅原道真公の末裔を自称したことに由来するのだとか。


【富山県神社庁データ】
名称 No

 

所在 富山県 TEL
FAX
例祭日
社格
祭神
交通
社殿
境内     
氏子世帯 崇敬者数 
摂末社
備考 

西暦 元号 和暦 事項 備考
             
     

【参考資料】


【リンク】
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参拝日:2009年12月16日
追加日:2017年03月04日

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