全国神社仏閣図鑑 TOPページへ戻る
長野県

長野市

旧・鬼無里村 上水内郡 信濃国
加茂神社 -
-
-
村社
-
京の都の香り漂う山間の郷、鬼無里の加茂神社。

鬼無里東京

信州・鬼無里の奥地には京の都を模した地名が並んでいる。春日神社のある西京と、賀茂神社がある東京、そして二条、三条、四条、五条などがそれである。

所在

長野県長野市鬼無里東京二条14、232
長野県上水内郡鬼無里村大字鬼無里字東京二条14,232番地

創建

865年(貞観7年)

祭神

健御雷命(たけみかづち)
健御名方命(たけみなかたのかみ)・天恩兼命(おもいかねのかみ)
 健御雷命は雷神であり、鹿島神社の主神である。『日本書紀』などによると、イザナギとイザナミの間に子どもが生まれるが、それが炎の神カグツチであったために、出産の時にイザナミは火傷を負って死んでしまう。それに怒ったイザナギが十拳剣でカグツチを殺すと、カグツチの死体から次々といろいろな神が出てきた。タケミカヅチはその中の1柱である。
 武神となったタケミカヅチは、大国主が国を平定したところに赴き、その国を譲るように迫った。大国主は、自分は隠居するので2人の息子から回答を得るように伝える。そのうちの1人、事代主は承諾したが、建御名方は拒否した。そこでタケミカヅチは建御名方を殺そうとして、建御名方は逃げ出し、遠くはなれた信濃国の諏訪のあたりまでやってきたところでタケミカヅチに捕まった。建御名方は、二度と諏訪から出ないとの条件で助命してもらい、以後は諏訪湖の神(諏訪大明神)となった。
 歴史的には、タケミカヅチはもともと常陸国(茨城県)鹿島で祀られていた神だという。その祭祀をしていたのが中臣氏で、のちに中臣氏が中央で地位を得ると、鹿島からタケミカヅチを勧請して氏神として加茂神社を創始したのだという。
 天恩兼命は知恵の神である。アマテラスが天の岩戸に隠れた時に、八百万の神に対して作戦を授けたとされる。その後、天孫降臨のときにニニギノミコトに随伴して地上に降り立った。9世紀から10世紀の成立とみられる『先代旧辞本紀』では、天恩兼命は信濃国に降り立ち、信濃の民や秩父国造などの祖になったとされている。

 ▲両京地区を流れる大川(裾花川)。
 千曲川の主要な支流の一つに犀川というのがある。木曽や上高地から発した流れが松本を通り、安曇野の清流をあわせ、険谷をぬけて善光寺平で千曲川に注いでいる。その犀川の主要な支流の一つが裾花川である。裾花川が犀川に合流する付近には扇状地が形成されていて、そこに長野市の市街地が広がっている。有名な善光寺は、この裾花川の扇状地の「要」の部分にある。

 その裾花川を遡ると、険しく曲がりくねった峡谷をぬけた先に、狭い盆地がある。これが鬼無里である。裾花川はそこで2つに分かれている。戸隠方面からくる支流を地元では「小川」といい、裾花川の本流を「大川」という。大川をさらに遡ると、大川方面の中心地区「両京」地区に至る。両京というのは、西京と東京の総称である。「大川」の右岸を「西京」、左岸を「東京」とし、さらに二条、三条、四条などの地名がある。

これらの地名の由来を説明するものとして、大きく分けると2つの伝承がある。1つは天武天皇の時代に鬼無里に遷都の計画があったというもの、もう1つは平安時代に紅葉という女性が京都から落ち延びてきたというものである。

信濃国への遷都の計画自体は『日本書紀』などに基づく「史実」である。天皇の後継者争いによって発生した壬申の乱では、戦争の序盤で不利だった大海人皇子が信濃の兵の助力を得て逆転勝利を果たし、天武天皇として即位した。即位後、天武天皇は信濃への遷都を計画し、三野王を派遣して候補地の選定や測量を行わせた。伝承では、それが鬼無里だった、とされている。

紅葉伝説は能の『紅葉狩』によって有名になった伝承である。地方に生まれた「紅葉」という女性が、聡明さと美貌、そして神通力をかわれて都に召し出され、殿上人の愛妾となる。ところが正室がこれを妬み、紅葉を罠にはめて地方へ配流される。配流先が鬼無里である。ところが紅葉はその時すでに身ごもっており、配流された先で男子を産む。紅葉は地元の人々の崇敬を集めるようになるが、京都では将来の後継者争いに禍根を残すとして、信州の紅葉母子を討伐するように命令が発せられ、平維茂という大将が派遣されてくる。平維茂は初め敗走するが、塩田平の温泉で傷を癒やし、魔剣を手に入れて紅葉を討ち果たすのである。



そんなわけで、鬼無里の奥地には京都にちなむ地名が多く残る。地元では「谷の京」と呼んでいる。


こちらは馬頭観音。「昭和63年」とあるが、その頃までウマが実用馬としていたのだろうか。


「西京」の春日神社のすぐ近くに「加茂神社入口」の石がある。

だがちょっと待ってほしい。
ここが「入口」であることには嘘偽りないのだが、
ここが加茂神社に近いとは言っていない。

ここから


こういう山道を頑張って登っていかなければいけない。



眼下に道が見える。あのあたりに春日神社があり、先程の「入口」があるのだ。

地名こそ「京」「二条」とかだが、地形は全然そういう感じじゃない。

このあたりが「二条」。そしてこれが参道。バス停もあるぞ!


これが加茂神社。

写真ではちょっと見えにくいが、「村社 加茂神社」とある。

加茂神社
Kamo Shrine

天武天皇が遷都の地検分のため派遣した三野王が加茂大神宮の称を与えたといい、また勅使の館をおいたので地名を東京という。
加茂神社の由来と東京(ひがしきょう)の地名

鬼無里村字東京二条に鎮座する加茂神社の創立は、平安初期の貞観七年(八六五)清和天皇のときと伝えられる古社です。

この東京には「二条、三条、四条、五条」のち名があり二条に建立されている加茂神社の境内には、日本の古い歴史書『日本書紀』の天武天皇十三年の条に記されている勅使派遣にかかわる遷都伝説の跡地があり「東京」の地名のおこりが語り伝えられています。

加茂神社の祭神別雷命(わけいかづちのみこと)は山城国(京都)加茂別雷神社(上加茂)を一の宮として、そこから分霊を勧請祀創祀したものです。

本殿は鬼無里村の重要文化財に指定されています。


鳥居。

春日神社の鳥居は石製だったが、こちらは木製。
石製のほうがお高いのだろうけど、
木製のほうが風情があると思うのだ。

社殿。


神楽殿。



蔵。


狛犬の顔はなんかホラーだ。


元禄10年(1697年)の史料では「かもノ宮」、万延2年(1861年)の史料では「加茂宮」とある。

明治15年(1882年)の『鬼無里村神社調』に拠ると、この「加茂社」の祭神は別御雷神と玉依姫命となっている。別御雷神はタケミカヅチであるから今と同じだが、玉依姫命(タマヨリビメ)は今の祭神とは違う。ただし「タマヨリビメ」というのは「神霊の依代となる女性」=巫女を意味する語でもあり、特定の女性神を指すというわけではない。何事もきっちりしていた明治時代には、不特定ではあかんということになって、後に信濃の祖神である天恩兼命にとってかわったのかもしれない。

諏訪神である建御名方は、明治の終わり頃に裾花川沿いの奥地である川浦にあった無格社の諏訪神社を合祀したときに祀られるようになったもの。



東の京の二条、といえども、近年の過疎化の魔の手は如何ともしがたい。

茅葺屋根に草が生えすぎだと思う。
かっこいいけど。




さて、加茂神社の参道の両側に生えているこの草、これがなんだかお分かりだろうか。

実は私もこれがなんだかわからず、
ジロジロ眺めていたところ、通りがかりのおばあちゃんに教えてもらったのだ。

誰もが知っているものだが、
この状態を知っている人は少ないのではないかと思う。

長野のような寒暖の差が大きく、この山間のように日照時間が短く、
この高台のように水が乏しいところでうってつけの商品作物だ。

これが花。


畑の後ろにはこんな木組みが。ここで収穫したブツを干すのだ。



これが葉。

実はこの葉が作物である。

でもこの写真ではこの葉の大きさがよくわからないだろうと思う。

こんな感じ。

かなり大きいということがお分かりだろうか!
ヒマワリなんかよりずっと大きいのだ。
もちろん、背丈も普通の大人と同じかそれ以上ある。

実はこれ、タバコである。
この葉を干して発酵させて刻んだのがタバコなのだ。
タバコはこういう貧しい畑作地の絶好の作物なのだ。

かつて昔は繊維目的で麻を作っていて、
実は鬼無里は麻の名産地だった。
ここで取れた麻を、冬の冷たい水にさらして編むことでとても強い麻紐になる。
これが名高い鬼無里の「氷糸」である。

しかし明治時代になると、
外国へ輸出するために絹の生産が奨励され、
ここでも桑を栽培して蚕を育て、絹を生産するようになったそうだ。

ところが戦後は化学繊維によって絹が売れなくなり、
麻も大麻とかの兼ね合いで戦後に禁止になってしまった。

そこで今はタバコを作っている、ということだ。



【長野県神社庁データ】
名称 加茂神社 No

 

所在 長野県長野市鬼無里東京二条14 TEL
FAX
例祭日
社格 村社
祭神 健御雷命
健御名方命
天恩兼命
交通 JR「長野」駅から「鬼無里」行バスで約1時間。
終点「鬼無里」下車後、長野バス「南鬼無里線」で約12分「東京口」下車後徒歩約10分。(一日4便)
または長野バス「南鬼無里線」で約15分「加茂神社前」下車後徒歩約1分。(一日2便)
社殿 本殿、本殿覆舎、幣殿、拝殿、神饌所、神庫、鳥居、狛犬、幟竿置場、随神像
境内  東西7間、南北40間、面積9畝10歩(274坪)    
氏子世帯 崇敬者数 
摂末社
備考  社宝
・天の石矢
・天の水王石
・鉾(石器 長さ1尺2寸)
・神鏡
・花山院正一位内大臣の額面
・文明6年の棟札
・長野県令楢崎寛直の額面
・天明8年の棟札

西暦 元号 和暦 事項 備考
             
672         壬申の乱。信濃の兵の協力で天武天皇が勝利。  
685         天武天皇が信濃国への遷都を計画。三野王を派遣。  
782
-
806
延暦年間     京都から官女「紅葉」が流されてくる。「東京」「西京」をつくる。  
865 貞観 7     創立  
867 9     位階を賜る。  
             
1473 文明 5     この年に再建の棟札が残る。  
             
1604 慶長 9     松代城主松平忠輝の許可を得て、城代大久保長安が一石を寄進。  
             
1873 明治 6 4 村社に列格。  
1878 11 9 1 允許を得て加茂神社に改称。  
1882 15     鬼無里村神社調に「加茂神社」と記載。社格は村社。   
1907 40 6 28 川浦の諏訪社(祭神建御名方)、土倉の朝日神社(祭神天照大神)を合祀。  
             
             

【参考資料】
 『鬼無里村史』(鬼無里村、1967)
『県史20 長野県の歴史』(山川出版社、1997、2010)
『長野県 地学のガイド』(コロナ社、1979、2001)
『長野県百科事典』(信濃毎日新聞社、1974、1981)
『長野県の歴史散歩』(山川出版社、2006、2011)
『長野の大地見どころ100選』(ほおずき書籍、2004)
『長野県の山』(山と渓谷社、2010、2015)
『長野県地名辞典』(角川書店、1990)
『見る知る信州の自然大百科』(郷土出版社、1997)
『信濃の橋百選』(信濃毎日新聞社、2011)

【リンク】
*長野県神社庁(加茂神社)
*おみやさんcom(加茂神社)
*


参拝日:2009年07月15日
追加日:2017年03月06日

TOPページへ戻る