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長野県

上田市

塩田町 小県郡

信濃国

北向観音(天台宗) -
坂東三十三箇所
中部四十九薬師霊場
信濃三十三観音霊場
-
「善光寺参り」の帰路に立ち寄るべしとされる塩田平・別所温泉の伽藍。

北向観音

信州・小県の塩田平の別所温泉は景行天皇(在位:西暦71年-130年)の時代に開湯した「日本最古の温泉」とも言われる。それが史実かどうかはともかくとして、平安時代から鎌倉時代にはかなり栄えた地域で、清少納言が「日本の三名湯」の一つに挙げたとされている。鎌倉時代の執権・北条時宗の頃には、政府No2の連署だった北条義政がここに移住して学芸に力を入れたことから「信州の学海」とか「信州の鎌倉」などと言われてきた。

所在

長野県上田市別所温泉1666

創建

825年(天長2年)

本尊

千手観音菩薩
長野県も温泉が多い県だが、そのなかでも私がお気に入りなのがこの別所温泉。他の超絶有名温泉に比べるとちょっと知名度が落ちる分、静かだ。それでいてロケーションが良く、町を散策しても見どころが多くて飽きず、上田まで電車で一本でそこから新幹線に乗れるのでアクセスもいい。

▲別所温泉へは、新幹線「上田」駅から上田電鉄に乗り換える。 

「信州の鎌倉」と呼ばれる別所温泉。
その温泉街をゆく。



ここは番所跡。
小さな祠と馬頭観音があったが、ひとまず割愛。

しばらくいくと、このようなところに行き当たる。

石柱には「北向観世音参道」とある。

「観音(観音菩薩)」と「観世音(観世音菩薩)」は何が違うのだろうと思って調べてみたが、同じらしい。「観世音」のほうが「ゼノン(XENON)」という音が入る分だけかっこいい。厨二っぽい。
とおもったら「かんぜおん」と読むらしい。

さて、このように「参道」と指示があるところから侵入したのだが

進むと、なんだか裏口チックなところに。



おまけになにかの下的なところを屈んで通ることになる。


そして境内へ。


北向観音

本尊は千手千眼観世音菩薩で北斗星が暗夜の指針となるように、この北向きの、み仏は衆生を現世利益に導く霊験があり、南向きの善光寺と相対し古来両尊を参詣しなければ片詣りになるといわれている。

天長2年(825年平安時代)常楽寺背後の山が激しく鳴動を続けた末、地裂け人畜に被害を与えたので、これを鎮めるため慈覚大師が大護摩を厳修すると紫雲立ちこめ金色の光と共に観世音菩薩像が現れた。大師自らこの霊像を彫み遷座供養したと伝えられている。木曽義仲挙兵の際消失したが源頼朝が再興し、その後北条義政及び代々の上田藩主より寺領の寄進があった。

厄除け観音として全国に有名であり芸能人の信仰も多い。
常楽寺というのは別所温泉にあるお寺で、このあと行くところ。

慈覚大師というのは、円仁(794-864年)という仏僧である。円仁は下野国(いまの栃木県)壬生の生まれで、古代のいわゆる毛野国の末裔だ。その円仁は15歳で比叡山延暦寺で最澄に弟子入りし、21歳の時点では、弟子の中で最良の者と認められるようになった。その後、東国を巡り歩き、のちに第3代天台座主となった。

というわけで関東地方から東北にかけて、「円仁が開山した」と伝える寺は500を超すという。

手水舎。

温泉地らしく、ここに湧くのは温泉だ。


ちゃんと温泉分析書までついている本気の温泉。

単純硫黄温泉。
湯温は51.3℃。油断して手にぶっかけると、あ、あつつっ、熱い!

さて、参道?から入ってきたが、どうも裏口的だったのか?
北向きであることと関係があるのか?
よくわからないけれど、
とにかく境内に入ったあと振り向くと、お堂がある。







なかをお参りすると、なにか物騒な感じの絵が。
尾州知多郡新田の市之助なるもの同行十五人と信州善光寺参りを思い立ち遥々の旅に出ましたところ日頃尊信し奉る北向き観世音夢枕に立たせ給うと見て信心肝に銘じて上田宿にて同行と別れ当山へ参詣厄除の御守護札を受け稲荷山宿にて一行と落ち合い打ち揃うて善光寺へ参詣し大門町ふじ屋旅宿に一泊いたしました。

ときは弘化四年三月廿五日(平成元年を去る百四十二年前)時恰も善光寺御開帳の中回向の当日でありました。

その夜五つ半時(午後八時半)あの恐ろしい然も名高い善光寺大地震に出会い横死者一万五千人という地獄相の中を不思議やかすり疵一つ受けずに遁れ出で同宿の人々は皆行方不明となりました。市之助ふと懐中を探れば北向厄除御守札が二つに裂けちぎれて居りました。

是正しく大尊御身代わりにたち給いしと随喜渇仰の余り御札参りと共にこの額面を奉納いたしました。


さて、境内には何気なくでかい木が。
 ▲こちらは境内の「愛染カツラ」
市指定記念物(天然記念物)
文化財保護条例第五条の規定により先の通り指定する


一、種別 記念物(天然記念物)
一、名称 愛染カツラ
一、所在地 上田市別所温泉 一、六六六番地
一、指定年月日 昭和四十九年六月五日

 当地方ではまれにみる大木のカツラ(雄株)である。樹高約二十二メートル、目通り周囲約五、五メートル、枝張り約十四メートルで樹勢はきわめて旺盛である。
 北向厄除観音の霊木としてあがめられ、信仰と伝説にまつわる樹木である。
 伝説によると天長二年(八二五)の大火の際、どこからともなく現れた千手観音が、このカツラの樹の上でひしめきあう避難民を救ったという。

昭和四十九年十二月一日
上田市教育委員会

“愛染カツラ”と聞いて何を思い浮かべるだろうか。登山家のドイツ人なら「アイゼン」?

私の場合、金田一耕助の探偵小説『獄門島』だ。

本鬼頭の三人娘の一人、月代と、
分鬼頭の居候、鵜飼章三が秘かに逢引しているのが「愛染カツラ」の木の下なのだ。

分鬼頭の女主人、志保はこう嘯く。

「あたしゃ、あれは愛染カツラじゃなくてただのノウゼンカズラだって言ってるのに。」
というわけで、「アイゼンカツラ」「ノウゼンカツラ」という木の種類だと思いこんでいたのだが、全くぜんぜん違うらしい。そもそも「ノウゼンカツラ」ではなく「ノウゼンカズラ」であり、つまり「葛」というツル植物だ。それがカツラの木に巻き付くこともあるらしい。

実は“愛染カツラ”というのは、そういう植物名のことではなく、そういうタイトルの有名な小説があるそうだ。それが昭和12年(1937年)の『愛染かつら』。これは読んだことも見たこともないのだが、昔の大映映画(ガメラを作った会社)の重役で、小説家として第1回直木賞を受賞している川口松太郎という人の代表作だそうだ。

この小説は、戦前の四大女性誌の一つ、『婦人倶楽部』という雑誌に連載していた人気小説で、いわゆるメロドラマ。獄門島が昭和21年(1946年)秋の出来事なので、その頃のチャラチャラした女性である月代はなるほど『愛染かつら』を読んでいたのだろう。

で、その小説『愛染かつら』は、この信州上田の別所温泉の北向観音の愛染カツラをモデルにした小説なんだそうだ!げに驚きました。つまりここがその震源地だったとは。

その隣には愛染堂。もちろん愛染明王を祀っている。それぐらいはわかる。


実は、そもそもその愛染カツラの木には特に名前がなく、単に愛染堂の隣のカツラの木だったそうだ。それが、川口松太郎がこの観音を訪れて小説のアイデアを練っていたときに、隣に愛染動があるから「愛染かつら」という名前にしようと決めて小説のタイトルにしたそうだ。それがあまりにも有名になったために(主演田中絹代で映画化もされて大ヒットした)、今では逆にこの木を愛染かつらと呼ぶようになったそうだ。

その小説がどんな話なのかは、読んでいないからわからない!(アマゾンでポチろうかとも思ったが、古本で9600円もしたのでやめた。)



今度はお堂から回り込んで、来た方向とは逆の方へ。


少し行くと裏口のようなものがあり、その脇に

ガツンと聳えるお堂が!

これは「温泉薬師瑠璃殿」。

ちょっと石碑は読めないが、文献によると、これはもともと行基(668-749年)が建てたものを、慈覚大師円仁が修築したものだという。行基は、聖武天皇のもとで東大寺の大仏造営にも関わった人物だ。しかしそれにしても、話がどんどん古くなる!

これほどの建物だが、土台は石ころの上に柱を乗っけただけ。

これで1000年持つというのだからすごい。今やったらその日のうちに建築指導課から怒られるレベル。

瑠璃殿の下には何かいっぱい文学碑があったのだが、正直もうお腹いっぱいであまりよく読まなかった。反省。

あとで調べてみたら、北原白秋のもの。白秋は大正12年(1923年)に別所温泉へ遊びに来て、162首もの俳句を詠んだそうだ。

 「観音の この大前に 奉る 絵馬は信濃の 春風の駒

いやこれ、五七五七七だし俳句じゃなくね?

 「あの光るのは千曲川ですと指した山高帽の野菜くさい手

これはもうどこで切るのかもよくわからん
でもまあこの歌はなんかいいよね
ほかにも童謡「夕焼け小焼け」の歌碑がある。

 ♪夕焼け小焼けで日が暮れて
 山のお寺の鐘がなるー

 のあの歌だ。

この歌碑がなぜここにあるのかは、いまひとつよくわからない。

作詞者は八王子の人で、この地には直接の縁はないようだ。

その作詞者と、長野の善光寺の住職が知り合いで、それでここに碑を立てたとかなんとか。
これは花柳がどうとか書いてあったので、
なんかこの温泉街の芸者の石碑かなんかかな、
と思っていた。

発起人代表に、
超絶有名人の永田雅一(映画会社大映の社長で、名馬トキノミノルの馬主で、プロ野球チームのオーナー。)の名前がでかく彫ってあるのが気になった程度。

よほど人気の芸者だったのかなあ、と。



ちゃんと調べてみると

花柳章太郎(はなやなぎしょうたろう、1894-1965)という、男の役者の碑。見ればわかると思うが、女形の役者さんである。人間国宝だったそうだ!

映画にも出ていて戦前の溝口健二監督の代表作、『残菊物語』では、主演として歌舞伎役者二代目尾上菊之助を演じたそうだ。(観ていないので詳しくはわからない。)

その名優さんの碑がどうしてここにあるかというと、彼が若かりし頃、女形の役者だというのに、
よりにもよって、お白粉のアレルギーだったそうだ。
当時の白粉というのは、鉛白といって、鉛の化合物だった。
西洋でも絵の具の材料として人気のあった色で、多くの名画にも使われている。
が、鉛なので、アレルギーというより、普通に毒のレベルである。
その鉛毒に苦しめられたそうだが、北向観音に詣でたところ、鉛毒症を克服したのだそうだ。
(正確には、詣でたら治った、というのではなく、詣でたら、いい医者に巡り合ったということだそうだ。)
   

そのほか色々な石碑があるが、
要するに数多くの文人がここを訪れたり訪れなかったりで、
ここに関係のある作品を残したり残さなかったりしたということのようだ。


この先へ行くと、境内の外の目の前に茶屋があってひどく誘惑してくるのだが、
ひとまずここは我慢だ。

境内をこれぐらい見て回ればもういいや、って感じだが、
まだ見どころがあるから困る。
余裕のある方は、数回に分けて訪れるほうがいいかもしれないね。

ふたたび境内中央に戻り、




由緒(札所観音堂)

 江戸享保年間に、長野西後町の篤信者岡田新右衛門氏は、西国、坂東、秩父、四国の百八十八ヶ所の信仰を善光寺、戸隠の大昌寺、保科の清水寺及び、北向観音堂に移せり。
 当山には秩父三十四観音の尊像が奉納され多くの拝者を迎えたが その後堂舎の破損甚だしく本坊常楽寺に保管のままであった。
 このたび尊い信助を得て新しく「札所観音堂」の建立を見たことはまことに法幸なり。
 ご参詣各位にはいよいよ結縁を深められんことを願ってやまない。
山主 謹白


ということで、札所を見物。

ぶっちゃけ数が多くてキリがないので、ちらっとだけ写真を貼るけれど

これは仁王像の前に、巡礼者が履いていた草履が大量に括られている。


これなんていうんだっけ?
千人針的な?

「小縣郡室賀村裁縫師土屋キン明?(姜?)中 明治三十一年三月三日」


「小縣」は、小県(ちいさがた)のことで、昔のこのあたりの郡名だ。

「室賀村」は、この別所温泉がある「塩田平」という盆地を流れる川から、
脇を流れる支流の室賀川に沿って入った狭い谷筋にある。

が、今となっては、
大河ドラマ「真田丸」で「黙れこわっぱ!」の
室賀正武(西村雅彦)の根城、と言ったほうが
通りが良いだろう。

これもなんか謂れがありそうなすごい絵・・・なのだが、
損耗がはげしくてよくわからない。

ちょっと何が書かれているのかもよくわからん感じだと思うけど、
よーく見ると、

白と黒でいっぱい描かれているのは馬だ。
川を挟んで、すごい数の馬がいる。
そして、所々に名前らしきものが書いてある。
戦国絵巻とかでよく武将の名前がかかれている感じのやつだ。

かろうじて読めるのは、
「王換齋永山書画」かな?
でもぐぐってもよくわからなかった。




と、いうわけで、ただしい参道らしき石段を降りる。
参道には土産物屋がずらりと並ぶ。




【長野県神社庁データ】
名称 No

 

所在 長野県上田市別所温泉1666 TEL 0268-37-1234
FAX
例祭日
社格
本尊 千手観音
交通
社殿
境内     
氏子世帯 崇敬者数 
摂末社
備考 

西暦 元号 和暦 事項 備考
             
     

【参考資料】
 『信州の鎌倉―塩田平古寺巡礼』(クリエイティブセンター、1979)
 『信州のまほろば 塩田平とその周辺』(令文社、1972)
 『信州の鎌倉塩田平の文化と歴史―塩田とその周辺の文化財を探る』(信毎書籍出版センター、1983)
『県史20 長野県の歴史』(山川出版社、1997、2010)
『長野県 地学のガイド』(コロナ社、1979、2001)
『長野県百科事典』(信濃毎日新聞社、1974、1981)
『長野県の歴史散歩』(山川出版社、2006、2011)
『長野の大地見どころ100選』(ほおずき書籍、2004)
『長野県の山』(山と渓谷社、2010、2015)
『長野県地名辞典』(角川書店、1990)
『見る知る信州の自然大百科』(郷土出版社、1997)
『信濃の橋百選』(信濃毎日新聞社、2011)

【リンク】
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参拝日:2009年06月24日
追加日:2015年02月27日

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