全国神社仏閣図鑑 TOPページへ戻る
長野県

上田市

塩田町 小県郡 信濃国
塩野神社 -
式内社
-
郷社(県社)
-
かつて一円を治めた塩田城の隣で塩野川の湧水を祀る式内社。異形の拝殿もみどころ。

独鈷山

千曲川の中流、上田盆地の南半分を塩田平という。6世紀から7世紀の前方後円墳や国造館跡のある塩田平は、古代から信濃国の中心地だったとも考えられている。鎌倉時代にはここに北条氏の分家が入り、独鈷山に塩田城を築いて塩田平を治めた。

▲上田市の指定文化財である拝殿。

所在

長野県上田市前山1681
長野県上田市前山字塩野

創建

不詳

祭神

素盞嗚命(すさのおのみこと)
少彦名命、大己貴命
 『古事記』では、イザナギとイザナミの夫妻神は、まず日本の国土を産み、それから山の神や風の神を産んだ。その最後に火の神を産むのだが、そのときイザナミは火傷を負って死んでしまう。イザナギは黄泉の国へと向かいイザナミを取り戻そうとするが失敗する。黄泉の国から戻ってきたイザナギはみそぎを行い、そのときにスサノオが生まれたとされている。
 『日本書紀』でのスサノオの説明は少し違っていて、イザナギとイザナミの間にアマテラス(太陽の神)、ツクヨミ(月の神)、ヒルコ(出来損ない)が生まれ、その次にスサノオが生まれてくる。スサノオが乱暴者だったのでアマテラスが隠れてしまい、スサノオは高天原を追放される。その行き先は出雲国だったともされている。
 出雲国でのスサノオの子孫に大巳貴命(大国主)がいる。大巳貴命は「因幡の白兎」のエピソードでウサギを助け、ウサギの飼い主であった因幡の八上姫と結婚。さらに伯耆の須世理姫を嫁とし、彼女らの力を借りてついに芦原中国(日本)を支配する「大国主」となる。
 少彦名命は、舟に乗ってやってきた渡来の神で、大国主の国造りを助けた神である。

 ▲独鈷山
 塩田平の南に聳える標高1266メートルの独鈷山。独鈷山には、「独股山」と書く異表記や、「弘法山」の異称もある。本来は弘法山と言い、かつて弘法大師が99の嶺があると数えたのだという。独鈷山というのはその1つの嶺の名前だったのが、いつしか入れ替わったのだとも言う。

 モンゴル襲来のとき、北条時宗の下で連署を務めていたのが北条義政 という人物である。義政は隠居後、塩田平に移り住んで余生を送った。義政が独鈷山に築いた館が、のちの塩田城の礎になった。塩田平には、義政によって鎌倉の進んだ仏教文化がもたらされ、多くの寺社が整備されて「信州の鎌倉」と呼ばれるほどに栄えた。
 ▲独鈷山の北裾から一望する塩田平
 足利高氏や新田義貞が鎌倉幕府妥当のために挙兵すると、塩田北条氏は軍勢を率いて鎌倉防衛に向かった。しかし新田義貞に敗れ、塩田北条氏も滅亡した。その後の塩田平は、足利氏に従って軍功をあげた村上氏に与えられ、村上氏は北信濃の有力豪族となった。戦国時代に武田信玄が北信濃に侵攻、塩田城は村上義清の「最後の砦」として抵抗したが、敗れ去った。これによって武田氏は北信濃を確保するのだが、駆逐された村上義清が越後に逃れて上杉謙信に助けを求めて上杉軍が北信濃に来襲、それによって第1回川中島の戦いが起きることになる。 
 ▲山中に残る塩田城址の石碑。

 独鈷山の裾野には、さまざまな旧跡や公共施設が並んでいる。戦没学生美術館(美術の道を目指したが、戦争で出陣して帰らなかった学生たちの記録を残したもの)、上田紬の店(藤本)、前山寺、塩田の館、龍光院、塩田城跡、塩野神社、中禅寺などがそれだ。
▲独鈷山の山裾のアップダウン。 ▲前山寺の三重塔(国の重文)
▲中禅寺の薬師堂(国の重文) ▲伝統の上田紬

 江戸時代の寛政年間(1789-1801年)には独鈷山に西国三十三所観音を祭祀しており、この山裾の道は「観音道」とも呼ばれたそうだ。



現在は、これらを結ぶ遊歩道として「あじさい小道」が整備されている。


ところどころは結構緑が繁っているが、

塩田平が一望できる気分のよい道だ。途中には塩田城跡の石碑もある。

その塩田城跡を過ぎて少しすると、塩野神社の入口がある。


そこにはこんな看板が。

全国でも珍しい 流鏑馬の旧跡

 塩野神社の森の中の一の鳥居から、はるか西の方に見える二の鳥居までの直線の道が、有名な流鏑馬の旧跡です。
 二町(約二百十八メートル)の距離ですが、八百年程前(平安〜鎌倉時代)武士たちは、ここで馬を走らせて流鏑馬という行事を行い、神様に奉納しました。
 右図のような支度をした武士たちが、走る馬上から、左手に並べてある三つのひし形の的を射落とすのです。的と的との間は五十メートル位しかありません。
 成功するのは余程の名人でした。この名人の一人に、手塚の太郎金刺光盛の一族で盛澄という人がいました。手塚氏はすぐ隣の手塚区の出身といわれ、鎌倉の八幡様の祭りなどに妙技を見せた人として有名ですが、きっとこの塩の神社で力を付けたものと思われます。尚、この辺一帯を「やぶさみ」といい、馬の練習をした馬場は地名とともに残っています。
 また、南方の中禅寺の薬師様の台座には、流鏑馬の墨絵が画いてあるので有名です。流鏑馬の後が、このようによく残っているのは、全国でも珍しいと言われています。

平成十一年 六月  塩田平文化財保護協会


こんな感じで、山裾の道からみると塩野神社の参道が200メートルほどの一直線になっている。これがかつての馬場なんだそうだ。
境内の入り口から覗き込むとこんな感じ。

ここから「一の鳥居」まではたかが100メートルほどにすぎないし、車での移動だったらわかんないぐらいの距離だけど、徒歩で歩くと1分ほど要するわけで、「遠さ」を実感する。


その「二の鳥居」があれ。

本当は、この「走路の一番端」まで一回行って、写真を撮ってからここに戻ろうかとも思ったけれど、それだと往復400mになるし、暑いしアップダウンもあるし、熟慮の末に遠慮しておくことにした。

 式内 塩野神社 左へ二〇米
 祭神 須佐之男命、大己貴命、少彦名命。
 約千年前朝廷で編纂された「延喜式」に載せられている信濃の名社。上田、小県地方における式内社五座の一で、奥社は塩野川の水源独鈷山にある。
 大宮または大明神とも称され、古来この地方の信仰の中心で、塩田北条氏、武田氏、真田氏等の統治者は常にこの神を厚く崇敬した。
 中でも永禄十一年(一五六八)の武田信玄の祈願状や天正十五年(一五八七)の真田昌幸(幸村の父)の寄進状など有名なもので、何れも上田市の文化財に指定されている。
 かつては神宮寺も付属している大社であり、武田信玄は二十貫文の朱印地を奉献していたといわれる。戦前は県社であった。
 境内の森厳さは定評があり、また太鼓橋の構築、拝殿(勅使殿といっている)の楼閣造り、本殿の彫刻等見るべきものが多い。

 この上田市内には、もう一つ「塩野神社」がある。産川の左岸の支流、湯川のなかほどの保野どちうところにあり、こちらの塩野神社とは塩田平をはさんだ反対側の位置だ。そちらの塩野神社は旧村社だが、こちらの塩野神社の社格については、現地の看板など「旧郷社」とするものと、『長野県百科事典』など「旧県社」とする文献がある。

 塩田平の塩野川というのは名前的に少し紛らわしい感じもするけれど、産川の上流域の支流に塩野川というのがあって、このあたりがその源流になっている。この山裾の道沿いには「塩野池」という溜池もある。

 

というわけで境内へ。
この右手の建物はなんだろう。



なにしろ実際に現地に行ったのが7年も前なので、
ちょっともう記憶があまりないのだけど、
この写真を見るとなにか木の皮的なものが収納されているようにみえる。

外壁がないところをみると、蔵的なものというわけでもないのだろうし、
よくわからない。


さて境内。

グリーンの社額が印象的。




一の鳥居をくぐるとすぐ、塩野川を渡る「太鼓橋」がある。
これがその太鼓橋。屋根もある。

なにがどう「太鼓」なのかというと、
橋の中央を頂点として、歩く部分がアーチ型をしているのがわかるだろうか。
これが太鼓の弧を描いているようなので、太鼓橋というそうだ。

これが橋の下を流れる塩野川の源流。

この源流をもっと遡って山頂近くまでいくと、
「鷲岩」の割れ目から水が湧き出ているところがあって、
かつて塩野神社はそこに祀られていたのだという。



社殿はなんだかゴテゴテっと、移動式要塞を彷彿とさせるような、
不安定そうなすごいなりをしている。


下の解説によれば、これは「楼門形式の拝殿」(大雑把に言うと「2階建て」ということ)であり、
長野県内ではここと諏訪大社にしかないものだ。
上田市指定文化財
一 名 称 塩野神社拝殿及び本殿
二 種 別 有形文化財・建造物
三 所在地 上田市大字前山字塩野一六八一
四 所有者 上田市東前山及び西前山自治会
 社伝によれば、塩野神社は塩野川の水源である独鈷山の鷲ヶ峰に祭ったのが始まりといわれる。歴史的には、古代の公文書である「三代実録」「延喜式」に記されている。戦国時代には武田信玄や真田昌幸・信之らが信仰を寄せ、それらの古文書や、六十年に一度の「甲子きのえね祭」で舞われる「前山三頭獅子」等、多くの文化財を伝えている。
 拝殿は勅使殿ともいわれ、棟札により建築は江戸中期の寛保三年(一七四三)作者は上田市房山の名工、末野忠兵衛とわかる。楼門形式の拝殿は、現在のところ県内では諏訪大社と本件が確認されるのみで、建築史上貴重な物件である。
 本殿は一間社流造で、建築は寛延三年(一七五〇)作者は本殿と同じく末野忠兵衛である。各所に雲や天女、虎・牡丹・竜等の彫刻が施され、この時代の地方作としては彫刻が多く用いられた初期の作品であり、当時の様式を良く伝えている。

彫刻と言うか、ゴテゴテ感がすごい。

ちょっと前に戻って全体像を確認し直してほしいんだけど、
2階部分の建物本体との幅と屋根の幅を比べると、
屋根が建物本体の2倍以上の幅で張り出しているのがわかるだろう。

このゴテゴテは、その張り出しを実現するための構造である。
建築用語的には「組物」というけども、
まず柱があり、その柱の上に、ちょっと外側に張り出すための部品(肘木)が乗っかっている。
その肘木に梁を渡してその上に屋根を乗っけるんだけども、
これぐらい大きく張り出すとなると、その肘木が1組では足りない。

なので、肘木の上にもう一個肘木を載せることになる。
これを「二手先」という。
ちなみにもっと張り出そうという場合には、その上にもう一個肘木を載せることになり、
それを「三手先」という。

あと、あのシール千社札はどうやって貼ったのか。











【長野県神社庁データ】
名称 塩野神社 No

所在 長野県上田市前山1681 TEL
FAX
例祭日
社格 式内社、郷社・県社
祭神 素盞嗚命
少彦名命
大己貴命
交通
社殿
境内     
氏子世帯 崇敬者数 
摂末社
備考 

西暦 元号 和暦 事項 備考
             
             
873 貞観 15 4 5 塩野神社が従五位下に列せられる。(『日本三代実録』)   
927 延長 5     『延喜式神名帳』に掲載。   
             
1568 永禄 11 4    武田信玄が、社領10貫文にさらに10貫文を加増。
信濃国境への築城の成功祈願をする。
 
             
1588 天正 15 11   真田昌幸が前山郷7貫文を寄進。  
             
1634 寛永 11     前山村に大宮屋敷社領4貫675文。  
             
1743 寛保 3     上田の棟梁・末野忠兵衛によって拝殿が造営される。  
1750 寛延  3     上田の棟梁・末野忠兵衛によって本殿が造営される。  
             
     


【参考資料】
 『信州の鎌倉―塩田平古寺巡礼』(クリエイティブセンター、1979)
 『信州のまほろば 塩田平とその周辺』(令文社、1972)
 『信州の鎌倉塩田平の文化と歴史―塩田とその周辺の文化財を探る』(信毎書籍出版センター、1983)
『県史20 長野県の歴史』(山川出版社、1997、2010)
『長野県 地学のガイド』(コロナ社、1979、2001)
『長野県百科事典』(信濃毎日新聞社、1974、1981)
『長野県の歴史散歩』(山川出版社、2006、2011)
『長野の大地見どころ100選』(ほおずき書籍、2004)
『長野県の山』(山と渓谷社、2010、2015)
『長野県地名辞典』(角川書店、1990)
『見る知る信州の自然大百科』(郷土出版社、1997)
『信濃の橋百選』(信濃毎日新聞社、2011)

【リンク】
*延喜式神社の調査(塩野神社)




参拝日:2009年06月24日
追加日:2017年03月03日

TOPページへ戻る