今ではコンクリートと鉄の橋梁で難なく越えてしまうようななんでもない川に見えても、古代から明治の間は地形上の障壁であり、川を隔てて両岸が別々の村・別々の郡であったということは珍しくない。山や谷が深い地域ではなおのことだ。 鬼無里でも、裾花川を挟んで右岸(日影村)と左岸(鬼無里村)は明治の半ばまで別々の村で、日影村は高府往来で小川村と、鬼無里村は戸隠街道で戸隠と連絡されていた。古い言い伝えでは、このあたりはかつて湖になっていて、日影村の南の峠と、鬼無里村の北の峠の間に渡し船があったとさえ言う。あるとき地震で湖の口が崩壊し、湖水が抜けて今のようになったのだとか。 ![]() 日影村の十二平地区。 ![]() 「日影村」の古在家地区から対岸(鬼無里村)の松島地区を望む。 ![]() 対岸とは裾花川で隔てられている。 ![]() 裾花川の北岸(鬼無里村)には国道406号線が通じている。 南岸(日影村)の道路は未舗装だった。(これから舗装するんだろうけども。) ![]() ![]() その道沿いに並ぶ地蔵。鬼無里はもともと地蔵や法輪塔が多い地域とされているが、日影村はとりわけ多い。気がする。 ![]() こんな風に、近代的な擁壁の中にも石塔が大切に祀られている。 ![]() 日影村の祖山地区まで来ると、白鬚神社の案内看板が。 道に沿って坂を登ってゆくと ![]() ![]() ![]() 集落のはずれ、森の影に鳥居がみえてくる。あれが白髭神社だ。 ![]() 写真ではトリミングしてしまったが、この鳥居の前には駐車スペースがある。 ここまでは車でも割と楽にたどり着ける。 しかしここから先は道が狭く、物味遊山の観光客が面白半分で進むには適さない。 Googleストリートビューだってここで引き返しているのだ。 この先はかつて大洞峠に通じていて、そこを越えると小川村に出る。しかし昭和48年(1973年)の春、大量の雪解け水の影響で2キロに及ぶ大規模な山崩れが起き、道は通じなくなった。今では別ルートで県道が整備されている。 ![]()
鬼門や裏鬼門に水回りや開口部(玄関・窓)を作ると鬼が入ってくるからアカンということになっているのだが、現代的な解釈としては、北東に開口部があると北風が入って寒い、南西に水回り(≒キッチン)があると日差しが強すぎて食品が痛みやすい、などと説明している。しかし道路が北東側にあってどうしても玄関はそっちになってしまうとか、避けがたい場合もある。そういう場合はそこに「南天の木」を植えるとよい(ナンテン=難を転じる)とか、いろいろ裏技があり、「神社を立てちゃう」というのもその一つだ。
さて、これが社殿。屋根の仕上げに豪雪地帯であることを感じられる。 ![]() 入り口にも書いてあった通り、ここの本殿は重要文化財だ。 ![]() だが重要文化財なのはあくまでも本殿であり、 上の写真の赤い屋根の社殿は拝殿に過ぎないので、あれは重要文化財ではない。 この説明書きにもあるように、本殿は約1.4×1.2メートルの小さなものだ。 で、それはここに入っている。 ![]() 大事なのでしまってあります。 見れません。 この話は京の都と鬼無里が舞台になっていて、そのどちらの立場を取るかでストーリーの解釈が正反対になっている。
社伝に拠ると、969年(安和2年)に平維茂は南の大洞峠を越えて鬼無里へ侵攻、峠下の白髭神社で戦勝祈願を行ったのだという。 時代は下って源平合戦の時代、源氏の末裔木曽義仲は信濃の小県(塩田平)で挙兵する。越後から義仲を討つために軍勢が差し向けられるが、これを川中島で破る(横田河原の戦い)。その後、義仲は越後路を避け、人里離れた鬼無里の道なき山奥をぬけ、白馬から北陸路を目指す。その途中で、白髭神社に立ち寄って戦勝祈願をしたという。このほかにも鬼無里には義仲にまつわる神社や寺、史跡が数多く伝わっている。その後、義仲は北陸の倶利伽羅峠の戦いで決定的勝利をあげることになる。 【長野県神社庁データ】
【参考資料】 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 【リンク】 * | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
参拝日:2005年08月01日 |