全国神社仏閣図鑑 TOPページへ戻る
長野県

長野市

(旧)鬼無里村 上水内郡 信濃国
鬼無里神社 -
-
-
郷社
-
鬼無里盆地の誕生にまつわる伝説の山(魚山)に祀られる神社。

鬼無里神社

戸隠と並んで、信濃国の奥地の秘境と言える鬼無里には、様々な伝承がある。そのうち鬼無里誕生を伝えるのが湖伝説である。
裾花川に設けられたダム湖

所在

長野県長野市鬼無里町274番地イ

創建

不詳

祭神

建御名方命(たけみなかたのかみ)
八坂刀売命
建御名方神は諏訪大社の祭神。もともとは出雲国の大国主の息子だった。「葦原中の国(≒日本)」を統一した大国主のもとに、天孫降臨した神がタケミカヅチを使者として送り、国を譲るように言ってきた。大国主は、自分は隠居するので2人の息子から回答を受けるように伝える。息子のうち、事代主は国譲りを承諾するが、建御名方はこれを断る。するとタケミカヅチは建御名方を殺そうとする。建御名方は逃走し、遥か彼方の信濃国諏訪まで逃げたところでタケミカヅチに捕まる。建御名方は、二度と諏訪から出ないので殺さないでくれと頼み、以後、建御名方は諏訪の神となった。
八坂刀売命は建御名方の妻。諏訪湖が凍りついて起きる「御神渡り」は、建御名方が八坂刀売命に逢おうと諏訪上社から下社へ赴くためにできる、とされている。

 ▲裾花川の上流
 長野県の北部、千曲川と犀川が合流するあたりの盆地を長野盆地といい、古くは善光寺平と言っていた。有名な合戦地の川中島はこの善光寺平の南部にある。善光寺平そのものの主な成因はフォッサマグナにあり、断層運動によって生じた地溝帯である。その盆地にいくつかの川が流入し、扇状地を作っている。長野市の中心部は裾花川の扇状地に形成されており、その扇の要に位置するのが善光寺である。

 裾花川をそこから遡ると裾花渓谷という険しい峡谷となり、かつては人馬の通行はそこで阻まれていた。この峡谷の先に、小さくひらけた狭い盆地がある。そこが鬼無里盆地 である。
 ▲鬼無里盆地を囲む山々
 鬼無里は様々な伝説をもった秘境の村である。天武天皇がここに遷都しようとしたとか、それを阻むために大鬼が村の中央に大山を一夜で築いたとか、貴女紅葉が村人を率いて平家と戦ったとか。

 こうした伝説の一つに、湖と魚山に関する伝承がある。かつて鬼無里は閉塞した湖の底だった。湖の北端は戸隠村との峠に、南端は小川村との峠にあり、両峠を結ぶ渡し船があったという。(それぞれの峠の近くには舟着場の遺構とされるものがある。)

 あるとき、この湖の東岸、虫倉山新倉山の間で山崩れがあり、そこを銚子口として湖水が流れ出た。裾花渓谷はそれによってできたものである。湖水がすべて流失し、湖は水を失い「水無瀬」となった。湖底の平地に人が済むようになり、水無瀬が「鬼無里」に転訛したのだという。そしてこのとき、湖底から現れた1つの山が「魚山 」である。この魚山は今の鬼無里の中心にあり(村で唯一の信号機がそこにある)、魚山の上に鬼無里神社がある。

これがその鬼無里交差点と魚山。信号の向こうに森があるが、そこが鬼無里神社である。




鬼無里神社

湖底が地上に現れて魚山が出現し、その頭部立山に神竜の精を祀って諏訪明神を招請したものという。

8世紀末、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷平定のため、10世紀に平維茂が紅葉退治のため祈願所としたと伝えられる。

鬼無里の北方にある野尻湖から4万年前のナウマンゾウの化石と狩猟跡が出たりするわけで、氷河期や間氷期に「ここが湖だった」という話がべらぼうな嘘だ、とは言い切れまい。しかしまあ、まともな人類の歴史のスパンのなか、つまり数千年以内ぐらいの範囲では、さすがにどうだろう。伝承では、北の大望峠と南の大洞峠の間に縄が渡してあり、人は縄を頼りに湖を渡った、というが、それはまあ大ぼらの範囲かもしれない。

672年の壬申の乱では、信濃の兵を率いた皇子が勝利し、天武天皇として即位した。天皇はその後、信濃に遷都を計画して役人を派遣した。その派遣先が鬼無里だったと言われている。坂上田村麻呂が活躍したのはそれから120年ほど後の時代なので、坂上田村麻呂が陸奥征伐に行くにあたって信濃を経由した、というのはあり得ない話とまでは言えない。



鳥居は木製で風格がある。石製のほうが絶対にお金がかかっているんだろうけども、
こういう木製のほうが好みだ。

右端の「郷社 鬼無里神社」の部分は、明らかに補修の跡がある。
石全体をコンクリで塗りつぶした後で「鬼無里神社」を彫り直してあり、
そのうえ「郷社」の部分は何かを貼ってある。
歴史的には、約50年の間「村社」であり、今から90年ほど前に「郷社」となっているので、その頃からの流れでこうなっているのだろうか。

社殿。

訪問した日(7月15日)は、ちょうどお祭りの準備をしていた。




町のあちこちで、お祭りの準備をしている様子が見られた。
訪問日(7月15日)は、旧暦でいうお盆の時期(旧盆)にあたっていて、鬼無里では7月15日から祇園祭が行われるのだ。











私がまだ四国について何も知らない頃、人生初の四国上陸を果たしたときの道しるべは、昭文社のマップル「中国・四国道路地図」だった。その地図のなかで、徳島県の見どころとして記されていたのは、鳴門海峡、うだつの町並み、阿波の土柱、大歩危小歩危、祖谷渓、かずら橋、眉山、津峯神社、高の瀬峡、剣山、日和佐である。これを全部行ってやろうと思った。そんなわけで、私にとっての人生初徳島の2番めの立ち寄りスポットがこの津峯山だった。

動いているのか怪しい雰囲気のリフト。神社に詣でるぐらい、歩いて階段登ればいいじゃない、と思ったが、せっかくなので乗ることに。
スキー場のリフトとは違うので、足を伸ばせば地面に届いてしまいそうなスレスレをいく。

 


とうわけで社殿。

正直、神社とかにあまり興味がない頃にいったので、写真はほとんど撮っていない。
石段にいたトカゲとかに夢中になっている。



まったく予想もしていなかったのだが、
中に小さな祠みたいのがおいてあって、おっかないので走って逃げ帰ってきた。

 ▲石灰岩が美しい那珂川の源流域。
 四国の川といえば吉野川か四万十川が有名だが、那賀川は吉野川と並行して南を流れる一級河川であり、川の長さで言うと四国No.3である。(長さでは四万十川、吉野川、那賀川、仁淀川と続く。)その一方で、流域面積ではこれらの河川よりもずっとずっと小さく、吉野川の約5分の1、仁淀川の半分ほどしかない。他の河川が四国内で複数の県にまたがっているのに対し、那賀川は源流から河口まで徳島県内だけを流れている。それにしても「那賀川」という名前が悪い。関東にはどでかい「那珂川」があるし、九州・福岡を流れる「那珂川」も有名だ。紛らわしい。

国道193号というのがある。

 
 
 
 
 
 

aaa

 
 
 
 
 
 

四国の東部を南北に縦断する道路で、高知方面を探索したあと剣山をまわって阿波の土柱方面へ向かうための短絡路だ。つまり、当初の予定通り徳島の有名なみどころを全部まわるには欠かせない国道だ。

 ▲石灰岩が美しい那珂川の源流域。
 四国の川といえば吉野川か四万十川が有名だが、那賀川は吉野川と並行して南を流れる一級河川であり、川の長さで言うと四国No.3である。(長さでは四万十川、吉野川、那賀川、仁淀川と続く。)その一方で、流域面積ではこれらの河川よりもずっとずっと小さく、吉野川の約5分の1、仁淀川の半分ほどしかない。他の河川が四国内で複数の県にまたがっているのに対し、那賀川は源流から河口まで徳島県内だけを流れている。それにしても「那賀川」という名前が悪い。関東にはどでかい「那珂川」があるし、九州・福岡を流れる「那珂川」も有名だ。紛らわしい。


aaa
 
 
 
 
 
 

aaa

 
 
 
 
 
 


aaa

かせない国道だ。

 ▲石灰岩が美しい那珂川の源流域。
 四国の川といえば吉野川か四万十川が有名だが、那賀川は吉野川と並行して南を流れる一級河川であり、川の長さで言うと四国No.3である。(長さでは四万十川、吉野川、那賀川、仁淀川と続く。)その一方で、流域面積ではこれらの河川よりもずっとずっと小さく、吉野川の約5分の1、仁淀川の半分ほどしかない。他の河川が四国内で複数の県にまたがっているのに対し、那賀川は源流から河口まで徳島県内だけを流れている。それにしても「那賀川」という名前が悪い。関東にはどでかい「那珂川」があるし、九州・福岡を流れる「那珂川」も有名だ。紛らわしい。


aaa
 
 
 
 
 
 

aaa

 
 
 
 
 
 


aaa

スキー場のリフトとは違うので、足を伸ばせば地面に届いてしまいそうなスレスレをいく。


スキー場のリフトとは違うので、足を伸ばせば地面に届いてしまいそうなスレスレをいく。


スキー場のリフトとは違うので、足を伸ばせば地面に届いてしまいそうなスレスレをいく。



スキー場のリフトとは違うので、足を伸ばせば地面に届いてしまいそうなスレスレをいく。




スキー場のリフトとは違うので、足を伸ばせば地面に届いてしまいそうなスレスレをいく。























【長野県神社庁データ】
名称 鬼無里神社 No

 

所在 長野県長野市鬼無里町274番地イ TEL
FAX
例祭日 5月3日
社格 郷社
祭神 建御名方命
八坂刀売命
交通
社殿
境内     
氏子世帯 崇敬者数 
摂末社
備考 

西暦 元号 和暦 事項 備考
             
797 延暦 16     坂上田村麻呂が征夷大将軍になる。  
             
             
             
             
             
             
             
1604 慶長 9     松代城代大久保長安により寄進。  
             
             
             
1856 安政 3     正一位に列せられる。  
             
1873 明治 6 4   村社に列格。(諏訪大明神)  
1878 11 6    鬼無里神社に社号を改める。  
1907 40 8   金比羅神社を合祀。  
             
1928 昭和 3 8   郷社に列格。  
1953 28 3   宗教法人化。  
2005 平成 17     本殿、山車が長野市の有形文化財に指定。  

【参考資料】
 『鬼無里村史』(鬼無里村、1967)
『県史20 長野県の歴史』(山川出版社、1997、2010)
『長野県 地学のガイド』(コロナ社、1979、2001)
『長野県百科事典』(信濃毎日新聞社、1974、1981)
『長野県の歴史散歩』(山川出版社、2006、2011)
『長野の大地見どころ100選』(ほおずき書籍、2004)
『長野県の山』(山と渓谷社、2010、2015)
『長野県地名辞典』(角川書店、1990)
『見る知る信州の自然大百科』(郷土出版社、1997)
『信濃の橋百選』(信濃毎日新聞社、2011)

【リンク】
*長野県神社庁(鬼無里神社)
*長野県の神社建築情報サイトおみやさんcom(鬼無里神社)


参拝日:2005年08月01日
追加日:2015年02月25日

TOPページへ戻る