これがその鬼無里交差点と魚山。信号の向こうに森があるが、そこが鬼無里神社である。 ![]() ![]()
鬼無里の北方にある野尻湖から4万年前のナウマンゾウの化石と狩猟跡が出たりするわけで、氷河期や間氷期に「ここが湖だった」という話がべらぼうな嘘だ、とは言い切れまい。しかしまあ、まともな人類の歴史のスパンのなか、つまり数千年以内ぐらいの範囲では、さすがにどうだろう。伝承では、北の大望峠と南の大洞峠の間に縄が渡してあり、人は縄を頼りに湖を渡った、というが、それはまあ大ぼらの範囲かもしれない。 672年の壬申の乱では、信濃の兵を率いた皇子が勝利し、天武天皇として即位した。天皇はその後、信濃に遷都を計画して役人を派遣した。その派遣先が鬼無里だったと言われている。坂上田村麻呂が活躍したのはそれから120年ほど後の時代なので、坂上田村麻呂が陸奥征伐に行くにあたって信濃を経由した、というのはあり得ない話とまでは言えない。 ![]() 鳥居は木製で風格がある。石製のほうが絶対にお金がかかっているんだろうけども、 こういう木製のほうが好みだ。 右端の「郷社 鬼無里神社」の部分は、明らかに補修の跡がある。 石全体をコンクリで塗りつぶした後で「鬼無里神社」を彫り直してあり、 そのうえ「郷社」の部分は何かを貼ってある。 歴史的には、約50年の間「村社」であり、今から90年ほど前に「郷社」となっているので、その頃からの流れでこうなっているのだろうか。 社殿。 ![]() 訪問した日(7月15日)は、ちょうどお祭りの準備をしていた。 ![]()
私がまだ四国について何も知らない頃、人生初の四国上陸を果たしたときの道しるべは、昭文社のマップル「中国・四国道路地図」だった。その地図のなかで、徳島県の見どころとして記されていたのは、鳴門海峡、うだつの町並み、阿波の土柱、大歩危小歩危、祖谷渓、かずら橋、眉山、津峯神社、高の瀬峡、剣山、日和佐である。これを全部行ってやろうと思った。そんなわけで、私にとっての人生初徳島の2番めの立ち寄りスポットがこの津峯山だった。 動いているのか怪しい雰囲気のリフト。神社に詣でるぐらい、歩いて階段登ればいいじゃない、と思ったが、せっかくなので乗ることに。
とうわけで社殿。 正直、神社とかにあまり興味がない頃にいったので、写真はほとんど撮っていない。 石段にいたトカゲとかに夢中になっている。 まったく予想もしていなかったのだが、 中に小さな祠みたいのがおいてあって、おっかないので走って逃げ帰ってきた。
国道193号というのがある。
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四国の東部を南北に縦断する道路で、高知方面を探索したあと剣山をまわって阿波の土柱方面へ向かうための短絡路だ。つまり、当初の予定通り徳島の有名なみどころを全部まわるには欠かせない国道だ。
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aaa かせない国道だ。
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【長野県神社庁データ】
【参考資料】 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 【リンク】 *長野県神社庁(鬼無里神社) *長野県の神社建築情報サイトおみやさんcom(鬼無里神社) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
参拝日:2005年08月01日 |