この更級郡11座の中に「佐良志奈神社」という神社がある。ただし、その「佐良志奈神社」と、今あるこの佐良志奈神社を直接同一視するかどうかは、議論がある。
その獅子ヶ鼻の脇にあるのが現在の佐良志奈神社である。 ![]() 伝承では、かつては八王子山嘴の上に複数の宮があり、「佐良志奈神社」はその中の一つだったという。話が長くなるので後述するが、これを創建したのは「黒彦皇子」だったそうだ。 ところが仁和地震(887年)で山が崩落し、それ以後は山の麓にあった「八幡宮」に合祀されたという。この八幡宮は真言系の神宮寺を備えていたというから、それなりに古いものだと考えられている。(空海が真言宗金剛峯寺を開山したのは816年のことだ。) その「若宮八幡宮」が江戸時代の宝暦6年(1756年)に「佐良志奈神社」を号するようになった。だから、古代の「佐良志奈神社」と現在の「佐良志奈神社」のあいだには、関連性は有るものの、直接同一視することはできないのだという。 ![]() ところで、佐良志奈神社が「なに郡」に属していたかは、時代によって異なっている。古代の郡割りは自然の地形に基いていて、千曲川の左岸(南岸)は更級郡、右岸(北岸)は埴科郡だった。だから千曲川の南岸にあった佐良志奈神社は更級郡11座の中に含まれている。 中世から近世にかけて、八幡宮(のちの佐良志奈神社)が鎮座するあたりは黒彦村と呼ばれていた。これが江戸時代に若宮村というようになった。明治時代にも短期間、黒彦村と言っていた時期もある。後述するように、この「黒彦」とか「若宮」という名前はこの神社の由緒に由来する呼称である。 明治になって新しい町村制度が敷かれるとき、若宮村ははじめ千曲川左岸(更級郡)の獅子ヶ鼻より西の地区と合併して更級村といった。だが、太平洋戦争のあとにさらなる合併をするにあたり、更級村は同じ更級郡で千曲川左岸の獅子ヶ鼻より東の地区(更級郡上山田町)とではなく、千曲川の対岸にある埴科郡戸倉町との合併を選んだ。そのため、昭和30年(1955年)から平成15(2003年)までの約半世紀のあいだ、ここは埴科郡になっていた。 そんなわけで「埴科郡」なのに「佐良志奈神社」ということになってしまっていたのである。(当時の住所は、「埴科郡戸倉町更級字若宮」だった。) 平成の大合併で、戸倉町や上山田町はすべて合併して千曲市となった。 ![]()
創建者である「黒彦皇子」からみると、祭神の仁徳天皇(大鷦鷯命)は祖父、応神天皇(誉田別命)は曽祖父、神功皇后(息長足姫命)はその母、にあたる。 それにしても、古文書を失ったといいつつも、それでもまだ創建の由縁に「黒彦皇子」の名前が出てくるというのはかなり古い、ということになる。かつて村名「黒彦村」も、もちろん黒彦皇子に由来する。黒彦皇子というのは允恭天皇の第二皇子で、允恭天皇の後継者争いの中で殺されそうになり、信濃へ逃げてきてこの村に隠れ住んだのだという。
また、「仁和3年(887年)の大地震」というのは、いわゆる仁和地震というやつで、南海トラフで起きたM8級の大地震であった。この地震は日本中の様々な史料でも記録されているもので、『日本三代実録』では「卅日辛丑 申時 地大震動」とあり、関東から九州にかけて津波や山崩れで大きな被害が報告されている。 長野県内でも、八ヶ岳の山麓が崩壊して千曲川を堰き止め、湖ができたなどの言い伝えがある。これは諏訪湖(大海)に対して「小海」と呼ばれた。小海湖は後に決壊し、そのあとに湖底だったところが平地として利用されるようになった。JR小海線が走る「小海」「海野」「海野口」「海尻」などの地名がその故事を伝えているのだという。
気が付かなかったので写真も無いのだが、このほか境内には室町時代初期の永和2年(1376年)の名がある宝篋印塔があるそうだ。実はそれらが「若宮」というこのあたりの地名の由来を表している。 南北朝時代、後醍醐天皇は足利政権を打倒しようとした。このとき後醍醐天皇の強力な武将となったのが、後醍醐天皇の皇子、宗良親王である。 はじめ宗良親王は、海路で陸奥国を目指した。陸奥国は、後醍醐天皇のために戦って死んだ大将軍・北畠顕家など北畠氏の本拠地だったからである。しかし船が難破して浜名湖のあたりに漂着し、浜名湖の北の山奥にある井伊谷(大河ドラマ『女城主直虎』の舞台)に潜んだ。宗良親王はそこから北へ山を越えて信濃国に入り、信濃国各地の諸将の協力を募っていった。信濃国は壬申の乱のときに大海人皇子を支えて勝利に導き、天武天皇の即位を助けたという故事がある勤王の地でもあったから、信濃国の国人からは南朝に与するものが多く出た。(見方を変えると、室町時代を通じて信濃の国人は南朝・北朝に分かれて争ったがために、戦国時代になっても小勢力が割拠するような情勢になったのである。) この時期、正平年間(1346-1370年)に「信濃宮」こと宗良親王がこのあたりに隠れ住んだと伝えられている。伝承では、宗良親王はこのあたりで病を患って伏せるようになり、村人に看病された。またその時期に佐良志奈神社に隠れ住んだととも伝えられている。これが「黒彦」改め「若宮」という地名の由来になったという。(これはあくまでも伝承であって、同じように宗良親王の拠点だったとされる場所は、長野県内にあちこちある。)永和2年(1376年)の宝篋印塔は、宗良親王に従って南朝についた在地の武士45名が、戦いに赴く前に自分の墓として予め用意したものだという。(これを「逆襲塚」と言うそうだ。)
志賀直哉の代表作『暗夜行路』の第一部の最後は、温泉宿で遊女と戯れる主人公の「豊年だ!」の台詞で終わるというのは有名だ。が、『豊年蟲』の題名は昆虫のカゲロウのことで、温泉宿の夜灯にあつまるカゲロウを表している。 【長野県神社庁データ】
【参考資料】 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 【リンク】 *長野県神社庁(佐良志奈神社) *玄松子の記憶(佐良志奈神社) *千曲市HP電卓(佐良志奈神社の宝篋印塔) *お城めぐり(更級御所?) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
参拝日:2010年12月28日 |