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兵庫県

明石市

播磨国
腕塚神社 -
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「平家物語」も伝える平忠度の最期にまつわる神社。

腕塚町

源平期の武将、平忠度ただのり の右腕を祀った神社。 「平家物語」などによれば、一ノ谷の合戦の際、平忠度はこのあたりで討たれた。平忠度は源氏方の岡部忠澄との一騎討ちで優勢だったが、岡部忠澄の家人が加勢して右腕を斬り落とされてしまった。これは岡部側の不義理ではあったが、死期を悟った忠度は首をとらせた。 ここではその右腕を弔った場所とされており、腕の病に霊験があるとされている。

所在

兵庫県明石市天文町
(旧 右手塚町)

創建

祭神

正四位下 薩摩守平忠度朝臣
薩摩守平忠度(-ただのり)は、平清盛の異母弟である。文武に優れ、『千載和歌集』などに名歌を遺す。神戸市から明石市の一帯が戦場となった一ノ谷の戦いで戦死。その様子は『平家物語』に描かれている。

平忠度は、平清盛の異母弟である。とはいえ、清盛が長男で、六男の忠度は26歳年下であり、清盛の嫡男平重盛よりも6歳も年下であった。忠度は熊野で生まれ育ち、怪力で敏捷な武人と知られる一方、藤原俊成に師事して歌人としての才能を磨いた。

 ▲平忠度(明治時代の浮世絵師、小林清親の作品。)

源平の争乱の中で、平忠度は、源頼朝追討の軍に参加した。総大将の平維盛(22歳)は重盛の子で、清盛の孫に当たり、忠度(38歳)は副将としてこれを補佐した。しかし維盛軍は富士川の戦いで源氏方と戦わずに潰走し、倶利伽羅峠の戦いでも惨敗した。史実がどうであったのかは定かではないが、後世の作品では、平氏嫡流の重盛や維盛は、叔父とは言え母の生まれが卑しい忠度を見下しており、その献策をことごとく退けた結果として敗れたように描かれている。

1184年(寿永3年/治承8年)1月福原(神戸)で一ノ谷の戦いが起きる。平家方の要害を源義経が急襲した戦いである。維盛ら平家軍の主力武将は、源範頼の軍に備えて東側の生田口に陣取り、背後の断崖の備えを疎かにする。名将平忠度は陣の背後が弱点であることを指摘するが、維盛らはとりあわず、口喧しい忠度を反対側の西側の塩屋口の大将に据える。この時点で忠度はこの合戦に敗れるだろうと予感していた。

その予想通り、源義経が率いる別働隊が鵯越の断崖から奇襲をかけ、平家方は挟撃される形になって潰走する。戦線が崩れて大敗となるのをみて、平忠度は海へ脱出を図る。しかし両馬川で源氏方の武将、岡部忠澄に追いつかれてしまう。


 ▲山陽電車の高架線下に遺る両馬川の合戦地跡の石碑。
はじめ、平忠度は「自分は友軍だ」と言って切り抜けようとするが、お歯黒をしていることから平家方の武将と見破られてしまう。

岡部忠澄は、相手をお歯黒をするような公家かぶれの武者とあなどり、部下に「手出し無用」と命じ、忠度に一騎討ちを申し込む。しかし平忠度は怪力で身のこなしも素早く、簡単に二撃で岡部忠澄を落馬させた。さらに三撃を与え、忠澄を取り押さえて首を切ろうとする。

慌てた岡部の家来は(手出し無用の一騎打ちのはずだったのに)、忠度の背後から襲いかかってその右腕を斬り落とした。これではもはや武士として戦えないと悟った忠度は、残った左腕で岡部忠澄を放り投げると、「念仏を10回唱えるまで待て」と言って西方浄土を向いて念仏を10回唱えた。

岡部忠澄は名を尋ねるが、平忠度は答えず、そのまま首を刎ねられた。首をとってみると、えびら(矢筒)に歌がくくりつけられている。このときの歌が有名な「旅宿の花」である。

“行きくれて木の下かげをやどとせば 花やこよひのあるじならまし”

この和歌により、この武将が高名な平忠度であった、とわかったのだった。

 

 ▲なめてかかった岡部忠澄は、平忠度に簡単に取り押さえられてしまう。
その後編纂された和歌集には平忠度の作品がいくつか収録されたが、その当時は源氏の治世だったため、「詠み人知らず」として採録されたている。



神社の背後に鉄道の高架線が見えている。写真ではわかりにくいが、手前側が山陽電鉄の高架で、その向こう側にJR山陽本線の高架がある。この線路の向こう側に、「両馬川」が流れている。ただし、都市化と鉄道の高架化によって川は完全に暗渠となっているので、今は見ることができない。

もともとこの神社は、その両馬川のほとりにあり、その辺りを「右手塚うでづか町」といった。また、南の山陽道(国道2号)の向こう側には、忠度の遺骸を葬ったという塚があり、「忠度町」といった。江戸時代の右手塚町は明石城に勤める下級武士の家が並んでいたそうだ。

しかし明治を迎える頃には、腕塚は手入れが行き届かず、原っぱになっていたという。そのため付近の護穀神社が廃されるときに、その境内にあった弁天社を右手塚町に移築して腕塚大明神とした。

昭和47年に、山陽電鉄の高架化工事に際して腕塚神社の移転を余儀なくされ、現在地に遷座した。このとき、一帯の住所は「右手塚町」から「天文町」に改称した。言うまでもなく明石天文台にちなむ新地名であり、「腕塚」という地名は好ましくないものだと考えられたのだろう。



旧神社から移された石柱が残されており、そこには旧町名である「右手塚町内會結成記念」とある。

平忠度が討たれたのは2月7日(旧暦)である。これを新暦になおすと3月7日となる。現在の例祭日は3月第1日曜日となっている。

【兵庫県神社庁データ】
名称 腕塚神社 No

 

所在 兵庫県明石市天文町1丁目 TEL
FAX
例祭日
社格
祭神
交通 山陽電鉄「人丸前」駅 徒歩1分
社殿
境内     
氏子世帯 崇敬者数 
摂末社
備考 

西暦 元号 和暦 事項 備考
             
     

【参考資料】
 『角川日本地名大辞典28兵庫県』(1988)、角川書店

【リンク】
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参拝日:2015年02月01日
追加日:2015年02月25日
修正日:2017年07月14日

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