全国神社仏閣図鑑 TOPページへ戻る
兵庫県

姫路市

播磨国
射楯兵主いたてひょうず神社

播磨国総社

式内社(小社)

-

県社

別表神社

播磨国の総社。

播磨国総社

古代、6世紀から8世紀頃、今の姫路城付近の山上に、兵主神を祀る神社と射楯神を祀る神社があった。古代の終わりとなる1181年頃に、この二社を合わせ、さらに播磨国の174神社をあわせてできた神社である。

所在

兵庫県姫路市総社本町

創建

564年(欽明天皇25年)

祭神

射楯大神
兵主大神
射楯神というのはイソタケル(五十猛)のことで、スサノオの子である。林業のほか、航海や漁業・船舶の神、商売繁盛や開運・厄除けのご利益もある。『播磨国風土記』では、神功皇后が新羅遠征を行った際には、水先案内をしたとされており、勝利の道を開く神としても崇められている。

兵主神というのはオオナムヂ(大己貴命)=大国主のことである。もともとは出雲国(島根県)の八十神の下っ端で、八十神が因幡国の絶世の美女(ヤガミヒメ)を娶りに行く際に荷物持ちをやらされていた。ところがその途上、兄の八十神が虐めた白兎を助けたことで、ヤガミヒメはオオナムヂの妻になる。(その兎はヤガミヒメの飼い兎だったのだ。)頭にきた兄の神々はオオナムヂを殺してしまうが、八上姫の救けで蘇生、さらなる兄からの攻撃から逃げるためにスサノオが治める国へゆく。そこでオオナムヂはスサノオの娘スセリビメに見初められて結婚。その力を借りて国家樹立を成し遂げ、「大国主」となった。『播磨国風土記』では「大汝命」という漢字をあてている。

射楯兵主神社は「播磨国総社」というだけあってビッグな神社である。いまの兵庫県は播磨国のほか、但馬国、摂津国、丹波国、淡路国などの一部が合わさってできている。現在の兵庫県の中心都市は文句なしに神戸市だが、播磨国の中心というとそれは姫路城があった姫路なのだ。だから播磨の総社は姫路にある。

姫路城は今も巨大だが、江戸時代まではもっと巨大で範囲が広かった。今の射楯兵主神社は「姫路城の近隣」の位置にあるけども、そこはかつては姫路城の中曲輪の内側だったのだ。射楯兵主神社のすぐ隣には姫路の郵便局の本局があるのだが、そこはかつての播磨国国庁があった場所である。

神社の歴史は姫路城よりも古い。

由緒書きに拠ると、古墳時代の564年(欽明天皇25年)6月11日に、飾磨郡伊和里水尾山兵主神・大己貴命を祀るようになったという。

この「水尾山」というのは姫路城に隣接する標高57メートルの小高い丘で、別名を「男山」という。

この兵主神を祀る社が787年(延暦6年)に現在の姫路城近くに移転した。

これとは別に、射楯神を祭る神社が八丈岩山という標高173mの山にあった。社伝では大和時代(≒古墳時代)に既にあった、とされている。713年〜715年ごろに編纂されたとされる『播磨国風土記』に登場する。「因達里(いたてのさと)」に「伊太代神(射楯)」として記述がある。

このように8世紀には兵主神社と射盾神社がそれぞれ別々に存在していたようだが、そのあと100年余りのことは記録がなく不明である。そして927年の『延喜式神名帳』では、両神を合祀する射楯兵主神社として掲載されている。

さらに200年以上たった養和元年(1181年)、播磨国にあった147の神社を合祀し、播磨国総社・播磨国の総鎮守となった。異称を「三日潮」と言ったそうだ。(どういう意味なのかは調べていないのでわからない。)

それから400年後の天正9年(1581年)、豊臣秀吉が姫路城を築城するにあたり、神社を現在地へ遷したという。

また、この神社は黒田官兵衛にゆかりがあるとされる。黒田官兵衛はもともと姫路生まれで、秀吉に仕えるようになった頃、この神社で7日間の祈祷を行ったそうだ。ちょうど大河ドラマ『軍師官兵衛』をやっていた時期なので、聖地巡礼の観光客をあてこんだPRもすごかった。




神社は姫路駅から姫路城へ続く駅前通りから一本東の通りに面しているのだが、正門的なものはさらに裏手の通り沿いにあるのでちょっとわかりにくい。(郵便局を目指して歩いていったら遠回りしてしまった。)

境内は実に賑々しい。

あとで分かったことだけど、
射楯兵主神社では60年に1度の一ツ山祭と、
20年に1度の三ツ山祭というのがあるそうだ。
(数え方の問題で、厳密には21年に1回、61年に1回になるかな)
「山」というのは

こういうでかい何かのことで、
これを1つ作るのが一ツ山祭、3つ作るのが三ツ山祭。

直近の三ツ山祭は2013年(平成25年)だったので、
次は2033年(平成45年)。

なお、次の一ツ山祭は2047年。かなり先だ・・・


こちらが拝殿。

こちらは「撫でみみづく

ミミズクは知性の象徴で、吉兆を授ける瑞鳥とされ、射楯兵主神社の神使とされている。

この神社のみみずくは有名で、神社のマスコットキャラクターのように色々使われているそうだ。
ブロンズ製の狛犬。

でかい。

昭和41年製とある。
 
こちらはブロンズ製の御神馬像。
ちゃんとお尻の穴まで再現されている。

これは「鬼石」。

平安中期の源頼光(源氏の3代目)が、摂津国にある大江山へ鬼退治(夷族討伐)をした際に、その首を埋めたという。
御厄除串というのをお買い求めの上、

その串で自分を撫でたあと、

こここへ投げ入れると厄払いになるのだとか。

御厄除串の購入に必要な金額と同額のお金を直接inしたらどうなんだろう。

本殿のまわりや裏手には、たくさんの境内末社が並んでいる。なにしろ1000年前の時点で174社を合わせたとかいうのだから、今ではいったいいくつあるのだろう。


琴平社
(旅行安全)

鹿島社
(一願成就)

神明社
(起業創業・五穀豊穣)

戸隠社
(武芸上達)

案内社八幡宮
(厄除・交通安全)

八幡宮

稲荷社
(商売繁盛・家内安全)

稲荷社の1つ、白長大神

同じく、千早稲荷

長壁神社
(災厄除・姫路城守護)

粟島社

姫路天道社
(学業成就・武芸上達)

   

祖霊社

厳島神社
(海上安全・諸芸上達)

 
などとなっている。
さらにこれとは別に「十二社合殿」というのがあって、
さまざまな神社が合祀されている。

これらの中でも姫路の特徴的なのが長壁神社だ。

ご覧のとおり、
数ある境内末社のなかでも、とりわけ特別感のある佇まい。


オサカベというのは、姫路城の天守閣に住んでいるオサカベヒメ(長壁姫)のこと。

いちおう妖怪ということになっているが、年に1度、城主に城の運命を告げてくれる。城主が悪行すれば祟ることもあるという。

もともとは、姫路城が出来る前に刑部神社というのがあり、豊臣秀吉が築城のためにこの神社を遠くへ移したそうだ。関ヶ原のあと、池田輝政が姫路城主になって城をいじくり回したのだが、怪異が相次ぐようになり、池田輝政自身も病に倒れた。そこで刑部神社をあらためて城内に建立したという。

もともとオサカベは男とも女ともない妖怪と考えられていたが、江戸時代にこの地を「姫路」と呼ぶようになると「姫」からの連想でオサカベ「ヒメ」と女性になった。その姿は諸説あり、さまざまな姿で描かれる。江戸時代の『今昔画図続百鬼』や『西鶴諸国ばなし』にも登場する。

ぐぐったところ、最近のオサカベヒメはこんな感じで捉えられているようだ。
   

御朱印。
お守り。




実は、はじめは入り口がわからず、道路をぐるっと回って神門から入ったんだけども、最初に目に入ったのが、境内にある近代的な「和ダイニング三日潮」と「ブライダルサロン長生殿」だった。

そんなわけで、正直、ブライダルサロンか〜ということで、お金大好きの商業神社という先入観をもって臨んだので、テンション下がってあまりじっくり見なかった。これだけの広さがありながら30分ほどしか滞在していない。



【兵庫県神社庁データ】
名称 射楯兵主神社 No

 

所在 兵庫県姫路市総社本町 TEL
FAX
例祭日 霜月例大祭(11月13日〜16日)
一ツ山祭(60年に1度)
三ツ山祭(20年に1度)
社格
祭神
交通
社殿
境内     
氏子世帯 崇敬者数 
摂末社
備考 

西暦 元号 和暦 事項 備考
          (大和時代)八丈岩山のあたりに射楯大神を祀る「いたちの里(因達)」があった。  
     
564 欽明 25      水尾山に兵主大神を祀る。  
             
715         この頃編さんの『播磨国風土記』に射楯大神を祀る神社の記述がある。  
             
787 延暦 6     坂上田村麻呂が兵主大神を「国衙荘小野江の梛本」に移す。
(現在地より北に0.5kmのあたりとされている。)
 
             
891 寛平 3     射楯神を合祀。射楯兵主神社と呼ぶ。  
             
927 延長 5     『延喜式神名帳』に式内小社として掲載。  
939 天慶 2     藤原純友討伐のための奉幣(天神地祇祭)。一ツ山大祭の起源。  
             
1181 養和 1     播磨国16郡の174座を合祀し、播磨国総社とする。
以後、鎌倉時代には「府中惣社」や「国衙惣社」、「伊和大明神」と呼ばれるようになり、「射楯兵主神社」という名称が使われなくなる。
 
             
             
1522 大栄 1     赤松晴政が臨時祭を行う。三ツ山大祭の起源。  
1581 天正 3     羽柴秀吉が姫路城築城。神社を現在地に移転する。  
             
             
  明治       明治時代になり、「射楯兵主神社」の名称となる。  
             
1945 昭和 20     戦災により全焼。  
1953 28     神社の再建。1623年(元和9年)の状態を復元  
             

【参考資料】

 『角川日本地名大辞典28兵庫県』(1988)、角川書店

【リンク】
*


参拝日:2005年08月01日
追加日:2015年03月09日
修正日:2017年07月18日

TOPページへ戻る