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宮崎県

串間市

那賀郡 日向国
杉尾神社 -
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為朝伝説・後鳥羽伝説のある小集落の神社。

宮ノ浦

都井岬の北側、「宮ノ浦」集落にある神社。源為朝の伝承が遺されている。

所在

宮崎県串間市宮ノ浦

創建

ちゃんと調べていないのでわかりません。

祭神

 ▲歌川国芳による「鎮西八郎源為朝」
 「鎮西八郎」こと源為朝(1139-1170?)は、源氏の棟梁・源為義の八男である。母親は遊女だった。八郎為朝は身長2mに達する大男だったといい、腕力に長け、幼い頃から弓の名手として知れ渡った。しかし為朝は粗野で、兄弟たちにも非礼に振る舞った。そのため、13歳で父から勘当され、九州へ流された。ところが、為朝は「鎮西」と称して九州の豪族たちを武力で斬り従え、たった3年で九州全土を支配下においた。

 まもなく保元の乱が起きる。為朝は、父の為義のもとへ馳せ参じて崇徳上皇方に与し、天皇方についた兄・義朝とは敵味方に分かれた。為朝は得意の強弓で天皇方の諸将を次々と討ち取り、兄・義朝との直接対決では兜の星に矢を当ててみせた。だが合戦は天皇方の優勢となり、為朝は捉えられて伊豆の離島に流された。

 為朝はそこで伊豆の住人を従え、伊豆七島を征服。これに驚いた天皇方はあらためて為朝追討の命を下し、大軍を送り込んだ。為朝は島へ迫る船一隻を撃沈するも、多勢に無勢と判断して自害した。これが武士の切腹の起源とされている。

 為朝の末路については異説・伝承が数多くある。その一つが、琉球に流された為朝が、琉球を征服して琉球王朝を開いたというものである。これが史実かどうかはわからないが、少なくとも琉球王朝の側では正史とされていて、初代琉球王舜天が源為朝その人とされている。

 琉球へ流されていく為朝は、海上から眺める日本の本土の最後の地、都井岬の沖に差し掛かったときに、船の上から陸地へめがけて矢を放ったという。これが杉尾神社に届き、このことから此の地を『御矢の浦(みやのうら)』と称するようになったという。

 宮崎県の最南端・都井岬。日向灘を南へ征く船にとって日本本土の最後の景色ということになる。その都井岬の付け根にあるのが宮ノ浦地区だ。この「宮ノ浦」という地名の起こりについては2説があり、一つは源為朝、もう一つは後鳥羽上皇に由来する。この杉尾神社に伝わるのは為朝説であり、お隣の鳥羽神社には後鳥羽上皇の伝承がある。


写真奥の山に、フェニックス並木みたいに見えているのが日南海岸を走る国道448号。今の国道は宮ノ浦地区をバイパスして通過していて、集落や神社へは国道をはずれて谷沿いの道を下ってはいる。国道自体も交通量が少ないが、そこからさらにはずれていて、静かな山間の集落と行った風情。




鳥居の周囲には南国らしい植物が繁茂している。


参道も南国っぽい。







【宮崎県神社庁データ】
名称 No

 

所在 宮崎県 TEL
FAX
例祭日
社格
祭神
交通
社殿
境内     
氏子世帯 崇敬者数 
摂末社
備考 

西暦 元号 和暦 事項 備考
             
     

【参考資料】
  

【リンク】
*宮崎県庁 みやざきの神話と伝承


参拝日:2013年06月08日
追加日:2015年02月25日

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