群馬県 上野國
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 すわ
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村社
神饌幣帛料供進神社
群馬県神社庁
諏訪神社
吾妻地方 吾妻郡 中之条町 下沢渡
 。
参拝日 令和04年(2022)06月28日 作成日 令和06年(2024)05月07日 修正日 令和--年(----)--月--日
所在地 群馬県 吾妻郡 中之条町 大字 下沢渡 字 加賀森 934番地
旧社格 村社 神饌幣帛料供進神社
主祭神 建御名方命
神社史 創建不詳
境内
社殿 拝殿・幣殿、本殿、神楽殿
施設  
文化財
神職 無住
旧称異称 諏訪大神
 
基本情報
概観
鎮座地
略年表
祭神
神紋
御朱印
 
社頭
境内略図
アプローチ
鳥居
幟杭
参道
 
 
境内
石燈籠
手水鉢
狛犬
拝殿
本殿
奉額
 
 
境内社
神楽殿
小祠T
小祠U
小祠V
石燈籠U
道祖神
 
 
情報
史料
由緒
地図
  
  
年表
 
 
みどころ
  
  
  
諸元
リンク
参考文献
 

 
1 基本情報
1-1 概観
 下沢渡地区の中央に、一際高い杉の大木がある。これが諏訪神社の社叢だ。
 

  

1-2 鎮座地
所在地
現表記 群馬県 吾妻郡 中之条町 大字 下沢渡 934 番地   
旧表記 群馬県 吾妻郡 澤田村 大字 下沢渡 加賀森  
 ※小字については資料毎の表記揺れがある。「加賀森」「賀々森」「かかもり」「かゝもり」など
座標
緯度 北緯 36 36 39.34
経度 東経 138 47 28.42
標高 440m
住宅地からの比高 およそ+8メートル
地図リンク
※ゼンリン地図は建物が登録されていないと近隣の建物が表示される
 諏訪湖の神はタケミナカタといい、古代には狩猟の神だった。当時の狩猟は弓矢を用いるので、鎌倉時代には武家の神にもなった。源頼朝は諏訪神社の祭礼や狩猟神事を司ることで、自身が武家の棟梁であることを示した。
 戦国時代になると、源氏の一派である武田信玄も諏訪神社を一族の守護神として崇めた。信玄は甲斐国(山梨県)から信濃国(長野県)へ進出、さらに上野国(群馬県)も狙った。
その尖兵となったのが真田家で、上田方面から吾妻地方へ進出、武田家滅亡後も天正壬午の乱や関ヶ原の戦いを経て、江戸時代にも上田藩・沼田藩として存続した。
 戦国時代から江戸時代にかけて、武田家・真田家が戦勝や武家繁栄を祈願して吾妻地方の各地に諏訪神社を建立した、と推定されている。
 明治になってまもなく5村が合併、沢渡の「沢」と、折田・山田の「田」をあわせて「沢田村」と称した。
 旧沢田村の役場は下沢渡に置かれていた。
 いまは「四万川」というけども、昭和39年(1964年)の河川法で命名規則が統一される以前は下沢渡・吾妻川間を「山田川」と呼んでいた。
郷帳 郷帳 郷帳 明治維新 市町村制   昭和の大合併 平成の大合併
和暦 寛文8 元禄14 天保5 明治22 昭和30 平成17
西暦 1668 1701 1834 1889 1955 2005
吾妻郡 折田村 折田村 折田村 折田村 沢田村 折田 中之条町 折田 中之条町  折田 
山田村 山田村 山田村 山田村 山田 山田 山田
下沢渡村 下沢渡村 下沢渡村 下沢渡村 下沢渡 下沢渡 下沢渡
上沢渡村 上沢渡村 上沢渡村 上沢渡村 上沢渡 上沢渡 上沢渡
四万村 四万村 四万村 四万村 四万 四万 四万
*昭和の大合併で沢田村・伊参村・名久田村・中之条町が合併して中之条町に
*平成の大合併で六合村を編入

  

1-3 略年表
和暦 西暦 神社史
永禄 6 1563 武田氏麾下の真田氏が吾妻地方へ進出
貞享 3 1686 検地帳に「諏訪宮社領」の記載
明治 10 1877 飯綱神社・榛名神社を合祀
40 1907 諸社を合祀
大正 4 1915 神饌幣帛料供進神社に指定
平成 17 2005 鳥居を寄進

  

1-4 祭神
 建御名方命たけみなかたのみこと
記  上巻5 建御名方神  タケミナカタノカミ
非登場
 武神、狩猟神。農耕神。風神。 出雲神話の葦原中国を築いた大国主の子とされる。妻はヤサカトメ(八坂刀売命)。長野県・諏訪湖にある諏訪大社の主祭神で、諏訪大社上社の主祭神がタケミナカタ、諏訪大社下社の主祭神がヤサカトメになっている。
 天界から人間界を見ていたアマテラスは、オオクニヌシが築いた葦原中国をもらい受け自身の子に治めさせようと考えた。その交渉のため武神タケミカヅチが派遣される。タケミカヅチがオオクニヌシに国譲りを迫ると、オオクニヌシは自分は隠居するので息子たちと交渉するように回答する。長男のコトシロヌシは承諾したが、次男のタケミナカタは不承知で、争いになる。
 タケミナカタとタケミカヅチは腕力で勝負することになり、タケミカヅチが圧倒する。タケミナカタは東へ逃げ、諏訪湖でタケミカヅチが追いついた。タケミナカタは「今後は諏訪湖より西へは行かない」と誓約して許された。
 タケミナカタは狩猟神として古くから東国で信仰されており、狩猟に弓矢を用いることから武神としても崇められてきた。のちに庶民にとって獣肉食が禁忌とみなされるようになると、農耕神の性格を併せ持つようになった。
 群馬県でもとくに吾妻地方に諏訪神社が多いのは、諏訪神を奉じた武田信玄の配下、真田氏が戦国期から近世にかけて吾妻・沼田地方を治めたことに起因するという。

  

1-5 神紋
不明
 

  

1-6 御朱印
 
※不明

  


 
2 社頭

  

2-1 境内略図
区分 西暦 和暦 説明 奉納者 備考
@ 鳥居           諏方神社   両部鳥居
A 社名板 諏訪神社
B 幟杭(右) 1915 大正 4年 4月 吉日 神威輝四海 大典記念改修
C 幟杭(左) 霊コ洽八紘 下澤渡青年會  
D 石灯籠(右) 1788 天明 8年 10月 吉日 奉献 御寶前 當村 田村半兵衛 石工 伊藤綱五郎
E 石灯籠(左) 1788 天明 8年 10月 吉日 奉献 御寶前 當村願主 氏子中 信州伊那郡田原村
石工 伊藤綱五郎
 与  弟子二人○
F 手水鉢 1760 宝暦 10年 7月 吉日 奉納 當村願主 大工 冨沢喜八
G 狛犬(右) 1997 平成 9年 5月 吉日 下沢渡クローバー会
H 狛犬(左) 1997 平成 9年 5月 吉日   下沢渡クローバー会  
  拝殿・幣殿                
  本殿                
  神楽殿           太々神楽殿    
I 鳥居 2005 平成 17年 9月 吉日 鳥居寄進 石田友次 山本隆雄  
J 木製小祠                
K 木製小祠                
L 木製小祠           中組 弁財天像あり
M 石製小祠 1826 文政 9年 7月 吉日      
N 石製小祠 1870 明治 2年 12月 吉日      
O 石製小祠                
P 石製小祠                
Q 石灯籠(右) 1821 文政 4年 8月 吉祥日 奉献 御○○○○ 施主 世話人
村中 伊藤林右衛門
    吉田淺八
R 石灯籠(左) 1869 明治 2年 9月 吉日      
S 石灯籠(奥)             越後国魚沼郡
三俣宿 池田三五郎
 
双体道祖神 1776 安永 4年 12月        
双体道祖神                
双体道祖神        
道祖神 1790 寛政 元年 12月        

2-2 アプローチ
 
 下沢渡地区のうち、四万川右岸(西側)の一角。
 小高い丘がある。
 「御真山」と書かれていた。
 向こうには校舎が見える。(旧)沢田小学校。平成27年(2015年)に閉校となり、中之条小学校に統合された。
 その小学校の裏手、下沢渡の中組地区。遠くに見えるのは吾嬬かづま山。
 ここに朱塗りの鳥居がある。
 

  

2-3 鳥居
 
 一直線の参道の入口に位置する鳥居。
 左右に稚児柱がある両部鳥居形式だ。
 正面の扁額にも破風がついていて、とても装飾的だ。
 破風の頂部の装飾。
 神紋とかわかるかな、と思ったけど、ちょっとわからん。
 扁額の上にもあったけど、やっぱりちょっとわからん。
 扁額は真紅に金文字で記されている。破風で日射や雨からいくらか護られているとはいえ、まったく色褪せている感じではなく、真新しくさえみえる。維持管理されている証拠だ。
 文字は「すわ」を「諏訪」ではなく「諏方」と表記している。地元的にはこの表記推しなのだろう。ただし本サイトでは文献に基づき「諏訪神社」としておこう。
 「神社」の「社」も異字体で、「土」に「、」がある「」だ。こだわりを感じる。いちおうU+793Eというユニコードがあるそうだ。
 左には「諏訪神社」と刻まれた木板があった。こちらは「諏方」ではなく「諏訪」だ。こまけーことはいーんだよ、って感じかな。

  

2-4 幟杭
 鳥居の脚部の左右に石柱が一対。『中之条町の石造物』によるとこれは「幟杭」だ。
 しょーじき私には知識がないので、神社境内の事物の名称とかだいたいわからないのだけど、これは本に「幟杭」とあるから幟杭だ。
2-4-1 幟杭右)
 むかって右側。
神威輝四海
 「神のちからは世界に輝く」
 なんか当時の国家神道八紘一宇的なキャッチフレーズのお決まりのフレーズらしい。
 裏側の文字は判読が難しい。逆光のせいもあって、余計に読めん。
 うーん
大正四年四月吉日大典記念改修
 かな
 大正天皇の即位の礼が行われたのは大正3年(1914年)10月。半年遅れだけど「大典」というからには、大正天皇の即位を記念しての建立なのだろう。
 側面には石工の名が刻まれているそうだけど、写真撮ってなかった!1100kmも旅した挙げ句に写真撮り忘れとかアホとしか思えないが、気温40℃あるんじゃー

  

 
2-4-2 幟杭(左)
 左側の幟杭
霊コ洽八紘
 正直「霊」は判読不能。でも。『中之条町の石造物』にこう書いてある。現地では「治」(治める)だと思ったけども、違った。「洽」という文字は、「あまねくうるおす」「すみずみまでいきわたる」という意味なんだそうだ。きっとこれも当時の八紘一宇的なお決まりの文言ぽい。ぐぐると、「神コ治萬民」というキャッチコピーが多数ヒットするんだけど、なんかそれに似た言葉なんだろう。
幟欄敷石
 寄附者
  下澤渡青年會
 1文字目「幟」はほぼ判読できない。2文字目は文献で「欄」と記されているけども、実際に彫られている文字は「ネ」+「関」のように見える。当時の俗字体という感じなんだろうね。
 これも側面には「世話人ナントカカントカ」と刻まれれていたそうだけど、やっぱり写真撮っていなかった。
 

  

2-5 参道

 鳥居をくぐると参道が真っ直ぐに続いている。その先に石段が見えている。
 杉の巨木が3、4本。背後には山。
 石垣と石段の手前にアスファルト舗装の道路があるんだけど、参道部分が勝っていて、そこだけコンクリ舗装だ。
 むかって左に杉の大木2本。
 石垣は、苔むしたりしている感じが全然なくて、なんだかぴかぴかだ。
 道路は、杉の大木に沿って境内を迂回するように通じてはいる。きっと、昔は人が通る程度の半間か1間(1.8m)の道幅だったのが、自動車の普及によって拡幅するときに、石垣をセットバックして積み直した、とかじゃないだろーか。

  


 
3 境内
3-1 石燈籠
3-1-1 石燈籠(右)
 
 。
南東 北東 北西 南西
奉献
御寶前
當村願主
田村半兵衛
天明八年戊
申十月吉日
 天明8年=1788年。干支は戊申。
石工 伊藤綱五郎
 高さはおよそ1.7メートル。

  

 
3-1-2 石燈籠(左)
 左側の石燈籠。
南東 北東 北西 南西
御寶前
天明八年戊
申十月吉日
信州伊那郡田原村
 石工 伊藤綱五郎
  与 弟子二人同○
當村願主
氏子中
 

  

3-2 手水鉢
 石燈籠のすぐ脇に手水鉢が一基置かれている。
南東 北東 北西 南西
奉納
宝暦十
 七月吉日
 當村施主
  大工 冨沢喜八
 宝暦10年=1760年。干支は庚辰。境内の石モノで年代が読み取れるものとしては一番古いもの。

  

3-3 狛犬
 境内にはいろいろなものがあるんだけど、メイン社殿への道はシンプルにストレート。拝殿前の左右に狛犬一対がいる。左右いずれも口をあけている「阿」型になっている。
3-3-1 狛犬(右)
 
 こちらの狛犬一対は、「正面」を向いて置かれているのではなく、左右から参道の中央に向かって十字砲火になるような感じで斜めに置かれている。独特。
 狛犬は手作り感がある。石も、普通の御影石的なものでなく、真っ白。大理石的な?
南東 北東 北西 南西
奉納
 下沢渡クローバー会
 平成九年五月吉日
 平成9年=1997年。干支は丁丑。
 

  

 
3-3-2 狛犬(左)
 こちらが向かって左側。
 ごらんの通り、参道の石畳の中央辺りまできたところで、左右の狛犬から十字砲火を受けることになる。FF3みたいに。
南東 北東 北西 南西
 「クローバー会」というのが何なのかはわからなかったけども、これだけのサイズの狛犬を2体も彫り上げるんだから、子どもの団体というのではなく、高齢者の団体とかじゃないだろーか。しらんけど。
 

  

3-4 拝殿
 では改めて拝殿を見てみよう。
 まずは正面破風の頂部。鬼板に「右三つ巴」の紋様。三つ巴の紋はポピュラーすぎて、これがこの神社の神紋なのか判断がつきかねる。あとで出てくるけども、本殿の屋根の上の紋様は「左三つ巴」だ。
 破風の曲線美。どうやって作っているのか知らないけども、屋根材にしろ正面の赤いタイル風の部材とか、この曲線は現場で1枚づつ加工しているのかなあ。
 赤と青みがかった黒のコントラストがうつくしい。
 
 彫刻もすごい。奥は七色に彩色されている。
 とにかく彫刻がすごい。彫刻についての知識がない身としてはどうしてよいかわからないレベル。何を見ればよいのかもよくわからない。見どころが多いのはよいのだが、多いと多いで、こういうサイトをつくる手間がかかる。
 真ん中の部分は玉を握った竜と波。
 竜の鱗も1枚1枚彫られている。
 正面梁の右端の木鼻。獅子と象。獅子が歌舞伎役者みたいにグニィと身体をよじって中央をみている様は、さっきの狛犬と同じだ。
 左端も同様だ。
 なんかここらへんの木組みもエライことになっている。
 竜?が口から水?を噴水している?
 これでようやくお参りするところまでたどりついた。ここには神社名を記した扁額とかはない。

  

3-5 本殿
 拝殿後方の本殿。周囲はコンクリートブロックと木塀で囲われている。
 ブロック部分だけで基礎含めて6段相当、1メートル以上あり、木部は人の背丈ぐらいあり、囲いの中を覗き込んだり写真を撮るのは難しい。
 背後には石積がある。
 拝殿と本殿をつなぐ幣殿部分がどうなっているかはよくわからない。
 本殿。流造・1間四方、といったところかな。
 いわゆる千木は端部が外削ぎ垂直カット。祭神の諏訪神(タケミナカタ)はおとこのこだから。
 ここにある紋様は左三つ巴。
 。
 。
 。

  

3-6 奉額
 拝殿には額縁がたくさん掲示されている。(吾妻地方の神社でよく見る気がする。)
 この濃い茶色のは「戦没者名」が並んでいる。たいていの市町村誌史には、戦没者リストみたいのが掲載されていて、階級、死因、戦死地、戦死年月日、遺族名みたいの膨大なリストがある。地方なので同姓の家が多いというのもあるだろうけど、なかには「遺族」名が同一人物であることから一家に複数の戦死者が出たこともわかる。こういうの見せられると嫌でも厳かな心情になっちゃうよね。
 これは上段が「奉幟資寄付者」のリストで、末尾には「大正9年2月」とある。
 下段は「復員軍人・報賽献金」のリスト。「昭和21年9月」とある。終戦後に戦地から復員してきた方々への寄付を募ったってことかな。
 これは1枚の額縁というよりは、細長い木の板に1名づつ書き記したものを並べて1枚の額縁に仕立てたもの。
 右端に「寄附」とあるので、神社に寄付をした人なのだろう。右へ行くほど古く、文字が消えかかっており判読が困難。必ずしも金員ではなく、「上等畳表」とか「幕」「敷石」「セメント」「太鼓」などもあるようだ。年代も判読が難しいけれど、「5円」とかから始まっているので、金銭価値からいって明治とかまでは遡らないだろう。真ん中らへんまでくると昭和17年に100円とかもある。左端の方は昭和62年とか平成2年がでてきて、金額も10万円とか1万円とかになっている。
 反対側の側面にも大きな額縁が2つあった。
 かなり文字が薄くなっているけども
 明治30年(1897年)、干支は丁酉。
 ぱっと見、大関、関脇、小結とかあるので相撲かと思ったら、弓道だった。弓道でもこういう番付をするそうだ。
 こちらはその左隣の1枚。
 「明治丗参拾初秌教旦謹上」かな?「教」が違うかも
 「秌」は「秋」の異字体。明治30年初秋ってことかな?
 資料によると、この額は「鉄砲」の腕前を競った結果を記してあるそうだ。
 ここには掲出されていないようだけど、社殿内には俳句を記した額があり、銘には「文久元年」(1861年)とあるそうだ。これは中之条の近世のものとしては珍しいもの。『中之条町誌』にはその写真が掲載されているものの、俳句自体は文字がかすれてしまっていて読めないものが多いそうだ。

  


 
4 境内社
4-1 神楽殿
 拝殿のすぐ右に建物がある。
 神楽殿だ。
 「太々御神楽」
 舞台側はこんな感じだ。
 美しい碧色の屋根。ここにある紋様は左三つ巴。
 こちら側には出入り口がある。
 立派な鬼瓦があった。
 ここにも左三つ巴。

  

4-2 小祠T
 本殿の右隣には、小祠、社殿、小祠×4と石燈籠が全部で3基。
 まずは一番大きな中央の社殿。手前には白木の鳥居がある。
 厳密に形式を見てみると、笠木は反りはなく直線的で、端部は垂直、貫は断面が四角で柱を貫通、といったあたりからは春日鳥居形式が一番近いと思う。
 この鳥居は平成17年(2005年)9月寄進と新しいもの。
 なかには簡素な木製祠が2基並べてあった。
 その足元にはたくさんの、おいなり様?。
 右側の木製小祠はひとまわり小さい。
 ここにも大量のお狐様。
 正直、ちょっとこの小祠2基の社名を特定するのは困難だ。いちおう古い文献によると、もともとこの諏訪神社には境内摂社として「飯綱大神」と「伊勢大神」があったことになっていて、飯綱大神の主祭神は稲荷神として祭祀されるウカノミタマ(倉稲魂神)なので、この2社かもしれない。(全部にお狐様が並んでいるから、もはや祭神とか関係なくフォックス祭りなのかもしれないけどね。)
 2019『なかのじょう地域散歩』にも、この諏訪神社の境内に「飯綱社(雑社)」があるとしていて、祭神は保食神、祭日は2月初午日としている。「雑社」というのは、公式な社格にはないが、村社とか郷社とかの下にくるものなのだろう。

  

4-3 小祠U
 次に、本殿の隣に位置する木製小祠。台座はコンクリートブロック3段積み。
 祠のなかには、なにかの像が安置されている。
 なんか剣もってる。
 『中之条の石造物』(2008)によると、これは弁財天の像だそうだ。裏面には「組中」と彫られているということだが、これは右から読んで「中組」ではないだろうか。下沢渡地区のうち四万川と上沢渡川に挟まれた▽地帯の地区名に「中組」がある。
 裏にまわるとこんな感じ。
 屋根はもともと赤かったのを水色に塗り直したみたいだ。

  

4-4 小祠V
 右側には石製小祠が4基。
 一番左の小祠。
 おきつね様像が多数。稲荷守?でも大黒様的な像もある。一番右の大きめの像は、この写真だと背中に釣り竿背負った恵比寿様ぽくなっちゃってるけど、背後にある草の蔓がたまたま写り込んだだけ。大黒様もお稲荷様も広い意味では豊穣神農業神なので、まあそういうことなんだろう。
 ちょっと画像の質が悪いんだけど
 文政九丙戊天
 七月吉日
 文政9年は1826年で、干支は丙戊。
 反対側には「組中」と刻まれている。
 2つめの祠の前には大黒様…
 でも一番右のはシルエット的に招き猫に見える…
 ちょっと祠と祠の間隔が狭すぎて写真が撮れなかったんだけど
 明治二年巳
 十二月吉日
 明治2年12月はまだ旧暦なのでいまの暦とはズレがあって、1870年1月に相当する。干支は己巳。
 3つめの小祠。
 こちらはうってかわって、スラッとした女性神の像が祀られている。文字は見つけられずノーヒント。
 いちばん右のもノーヒント。
 下の方に、文献資料による合祀情報をまとめておいた。資料を総合するとこの神社に合祀されたのは、
 @「飯綱大神」(倉稲魂神/保食神)
 A「伊勢大神/伊勢宮」
 B「榛名神社」(火産霊命・埴山姫命)
 C「三嶋大神」(溝咋比賣命)
 D「琴平宮」
 E「飛房神社」
 F「地神社」
 G「厳島神社」
 H名称不明11社
 で、ここには石製小祠4、木製小祠2+1の計7祠がある。数が合わない。早いものでは明治10年(1812年)に合祀されているから、既に110年以上経過している。もしかするともう朽ちたものもあるのかもしれないし、ここに合祀される前段階で合併済のがあるのか、あるいは祭神が同じなのでひとまとめにしたのか。まあとにかくもうわからん。
 当てずっぽうだけど、(1)左側の1つだけ独立して弁財天の石像が祀られているのは祭神からいって厳島神社か。
 とすると、右の4基の小祠のうち(2)女神像が祀られているのは、溝咋比賣を祀る三嶋大神か、あとは埴山姫を祀る榛名神社か。
 (3)大きな木製社殿のなかの木祠2基は、なんか別格感があるし、最初期から境内社だったという飯綱大神と伊勢大神かなあ。
 消去法でいくと、残る石製小祠3基が、琴平・飛房神社・地神社の3社と、(2)の榛名・三嶋のうち外れたほう、の計4社のうち3社ということになる。
 ググった情報だけど、県内の富岡市に旧称「飛房とびふさ大明神」(鳥総神社)というのがあって、市杵島姫命を主祭神としているそうだ。とすると、女神像が置かれているのがそれかもしれない。うーん。

  

4-5 石燈籠U
 この小祠の周囲に、全部で3基の石燈籠がある。正面の鳥居の左右に1対2基、左奥の小祠の脇に1基だ。
 位置関係はこんな具合。
4-5-1 石灯籠U(右)
  
 まずは右側の石燈籠。
南東 北東 北西 南西
奉献
 御○○○○?
施主 世話人
 村中 伊藤林右衛門
     吉田淺八
 なぜか北東面を撮っていなかった…。そこには「文政四巳八月吉祥日」と刻まれているそうだ。
 文政4年=1821年、干支は辛巳。
 

  

 
4-5-2 石灯籠U(左)
 こちらが向かって左側。
南東 北東 北西 南西
明治二年年九月吉日
 明治2年9月=1869年。
 ということは、一対になっている右の石燈籠とは建立時期が半世紀ほどの差がある。いまは「一対」のように組み合わせて設置されているけども、もとは全く別々のものだということだ。
 

  

 
4-5-3 石灯籠U(左奥)
 木製祠の左脇にも石灯籠が1基。
南東 北東 北西 南西
 むかって右側面は、祠自体に遮られて撮影不可能だった…
 竿部に文字が刻まれている。
 越後国魚沼郡
 三俣宿 池田三五郎
 「三俣宿」は、高崎と越後国を結ぶ三国街道にある宿場。中之条からみるとほぼ真北、三国峠を越えたあたりに位置し、現在の魚沼郡十日町市三俣。
 

  

4-6 道祖神
 道路に面したところに道祖神が並べられている。
 旧信濃国(長野県)は道祖神信仰が盛んだったことで知られている。ここ吾妻は上野国だけど、戦国時代には武田氏が信濃国と上野国吾妻地方を領有していたので、文化的な共通点があるのかもしれない。
 道祖神は男女のカップルなのだけど、吾妻地方では、この男女は兄妹だと伝わる。あるとき、年頃の兄と妹がそれぞれ結婚相手を探して旅に出る。なかなかよい相手に巡り会えず、旅は長くなった。そしてあるとき、兄と妹は久しぶりに再会するのだが、旅に出てからあまりにも歳月が経っていたために、おたがいに実の兄妹であることに気がつかず、恋に落ちて結婚してしまった。近親相姦の咎で、両者は目を潰されたとも伝わる。
 そんなわけで吾妻地方では、このカップルは禁忌を犯した神として、村外れに置かれていた。そして見せしめとして、毎年1月14日の「ドンドン焼き」で、この石を火にくべて焼くそうだ。また、視力を回復するご利益があると信仰されていたのだとも言う。道祖神は徳利と盃を持っている姿で彫られているのだけど、この石像に酒を奉納すると目が良くなる、と言われたそうだ。
 もともと村のあちこちにあったものを、明治以降にここに集めたものだろう。群馬県では、明治5年(1872年)11月に、道端の地蔵・観音像・庚申塚・十三夜塔・馬頭観世音などを全部撤去しろ、と命令が出ている。それでできた空き地を貧民に分与せよとのことだった。この命令が出たのは11月で、つまり農閑期なので、翌春の田植えの時期までに片付けておけ、ということだった。実際には、明治6年(1873年)1月に作業が行われたという当時の記録が残っている。
4-6-1 道祖神(右)
  
 一番右の双体道祖神。私にはわからないが、2019『なかのじょう地域散歩』によると、この道祖神は「幣」と「徳利」を持った姿で彫られているそうだ。
 ちょっと画像では見えにくいけど、正面の右側に文字が刻まれている。
 安永四未十二月日
 安永4年は概ね1775年なんだけど、旧暦だから、12月の後半は新暦でいう1776年1月になる。干支は乙未。
 

  

 
4-6-2 道祖神(中)
 右から2番めの道祖神。
 左に写り込んでいる道祖神もそうなんだけど、ちょうど首のあたりで一度石が真っ二つに割れたものを、なおして積んである。ひょっとしてもしかすると、廃仏毀釈のときに意図的に壊されたのかもね。
 中之条町では、明治3年(1870年)に林昌寺が住民に襲われて堂宇・仏像・仏具が破壊されるという大騒動があった。その背景には、吾妻では国学が盛んで、とくに小板橋好里という人物が平田篤胤から強い影響を受け、地域の国学者の首魁となった。彼は中之条町伊勢町の神社の息子だったそうだ。林昌寺を襲った19名のうち、4名が「小板橋」姓だ。その後も明治初期には、吾妻地方ではかなりドラスティックな廃仏毀釈が吹き荒れた。
 でもまあ、一般民衆はそこまで過激な原理主義に傾倒しなかったのだろう。結局、ゆきすぎた廃仏毀釈の反動で、地蔵や観音はのちに復活し、いまでは吾妻三十三観音とか、仏教系の堂宇がやたらあるわけだ。
 

  

 
4-6-3 道祖神(左・奥)
 残り、左側の双体道祖神と、奥に文字だけの道祖神。このうち奥の文字だけの道祖神には、裏側に年代が刻まれている。
 寛政紀元己酉十二月吉日
 寛政元年は1789年なんだけど、実は12月は現代の西暦で言う1790年1月に相当する。干支は己酉。
 

  


 
5 情報
5-1 文献による情報
 たいてい、市町村史誌には、後半の1節に村内の神社仏閣リストがあって、主要神社の沿革等がまとまって記されているものだ。ところが1976年『中之条町誌』にはそういうページがない。簡単な総論があるだけだ。なので、戦後にまとめられたような神社史資料が容易には見当たらない。こまったものだ。
5-1-1 1879『上野国神社明細帳』
 
 明治初期に編纂の『上野国神社明細帳』では、下沢渡村の「西組」と「東組」に1社ずつ鎮守の神社が掲載されている。東組・西組というのは、四万川を挟んだ東岸と西岸の地区名だろう。現在は西岸の諏訪神社のみ現存し、東岸の神社は合祀されたと思われる。
上野國吾妻郡下澤渡村鎮座
     西組鎮守 諏訪大神
  間口四尺五寸 奥行五尺
4尺5寸  ≒  1.36m
5尺 1.51m
  拝殿 間口三間 奥行弐間
3間 ≒  5.45m
2間 3.63m
    鳥居    
  祭神 建御名方命、勧請年記不詳、社号改替等無之  
  ~位 無之  
  祭日 三月十五日 七月廿七日  
  社地 南北拾六間 東西弐拾弐間 古今沿革無之
16間 ≒  29m
22間 40m
  勅願所并  宸翰 勅額 御撫物 御玉串献上等も無之  
  除地 八反五畝弐拾歩
8反5畝20歩 ≒  0.85ha
  造営普請之儀氏子ニテ仕来候   
 
摂社 飯綱大神
  間口壱尺弐寸四方
1尺2寸 ≒  36.3cm
 
    拝殿 間口六尺 奥行六尺
6尺 ≒  1.81m
    鳥居    
  祭神 倉稲魂~、勧請年記不詳、社号改替等無之  
  ~位 無之  
  祭日 二月初午日  
  社地 南北拾間、東西四拾六間
10間 ≒  18.2m
22間 40m
 
摂社 伊勢大神
  壱尺四寸四方
1尺4寸 ≒  42.4cm
 
    拝殿 間口弐間 奥行九尺
9尺 ≒  2.72m
    鳥居    
  ~位 無之  
  祭日 二月十五日  
  社地 南北拾六間、東西拾四間
16間 ≒  29.1m
14間 25.4m

上野國吾妻郡下澤渡村鎮座
     東組鎮守 三嶋大神
  間口三尺五寸 奥行三尺五寸
3尺5寸  ≒  1.06m
  拝殿 間口九尺 奥行弐間半
9尺 ≒  2.72m
2間半 4.54m
    鳥居    
  祭神 溝咋比賣命、勧請年記不詳、社号改替等無之  
  祭日 七月廿七日 十一月中酉日  
  社地 東西弐拾間 南北弐拾壱間 古今沿革無之
20間 ≒  36.36m
21間 38.18m
  三嶌大~ 社中復神餝神職 元本山修験ニテ、柏原大二  
  社中人員 弐人 内 男壱人 女壱人  
  岩鼻縣迠 十六里
16里 ≒  62.8km
 ※「岩鼻県」は当時の県。現在の高崎市南西端、岩鼻町の陣屋に役場がおかれていた。神社からそこまでの距離が16里(62.8km)ということ。
 

  

 
5-1-2 1915『上毛吾妻郡神社小誌』
 いくつかの資料では、神社の鎮座地の小字を「加賀森」としている。「賀々森」とか「カヽ森」と記したものもある。普通に字面を考えると、「加賀森」があって、「かがもり」が転嫁して「賀々森」になったのではないだろうか。
 『中之条町誌』には神社に関するページがないのだが、小字リストがある。同町誌では、「小字」のさらに下位区分を「小名」と称する。これによると、「下沢渡村」の小字に「菅田」があり、さらにその下部の小名に「加賀森」がある。
 往々にして各地の小字リストには、「宮の前」とか「宮の森」とかの神社の存在を示唆する小字があって、それから江戸時代以前の神社の鎮座地を想像するわけなんだけども、下沢渡の小字リストにはそういう字が見当たらない…。
村社 諏訪~社
   本社は澤田村大字下澤渡村字加賀森に鎭座す
 境內地二百十六坪にして氏子區域は下澤渡村全般とす
 本社は近古に於ける幕府の崇敬殊に厚く社家を置き土地を寄附せられしも維新以後上地を命せられ一時期衰頽の傾向を呈せしが現時基本の確立せるを以て大正四年十月九日~饌幣帛料の供進を指定せらる
  祭~
建御名方命    八坂刀賣命  (主~) 
倉稻魂命   大山祇命 (配祀)
伊弉諾命   日本武尊  
大日孁尊   大物主命  
火雷命   市杵島姫命   
素盞嗚尊   豊受姫命  
菅原道眞公   不詳三座 (以上十二柱合祀)
  由緒 不詳
配祀二座は明治十年六月九日
明治四十年九月二日許可
本村社境内末社琴平宮 飛房~社 地~社 厳島~社 及
仝大字無格社 三島~社 仝境内末社 七社 無格社伊勢宮 仝境内末社 四社
を合併せり
    口碑傳説 創建年月不詳なれとも本郡は元龜天正の頃武田氏の範圍に屬せしを以て各村共武田家崇敬の諏訪明~を祭祀せる事實あれは或は其の時代建立せしものならんと云ひ傳へり  
    舊記古文書
貞享三年丙寅九月酒井河内守檢地水帳の冩 貞享3年=1686年
古檢九反一畝廿六歩
畑合 
八反五畝廿歩  諏訪宮社領
社人 伊勢町 小板橋丹波 
9反1畝26歩 ≒  0.911ha
8反5畝26歩 0.849ha
 
     
川端
中畑
十三間
十八間
七畝廿四歩
13間 ≒  23.63m
7畝24歩 0.077ha
仝所
下畑
廿六間
十五間
一反三畝歩
26間 ≒  47.27m
1反3畝歩 0.128ha
トガノ
下々畑
三十二間
八間
八畝十六歩
32間 ≒  58.18m
8畝16歩 0.084ha
同所
下々畑
十九間
八間
五畝二歩
19間 ≒  34.54m
5畝2歩 0.050ha
同所
下々畑
四十六間
十一間
一反六畝廿六歩
46間 ≒  83.63m
1反6畝26歩 0.167ha
同所
下々畑
四十二間
九間
一反二畝十八歩
42間 ≒  76.36m
1反2畝18歩 0.125ha
同所
下々畑
三十九間
十間
一反三畝歩
39間 ≒  70.90m
1反3畝歩 0.129ha
同所
下々畑
二十二間
十二間
八畝廿四歩
22間 ≒  40.00m
8畝24歩 0.087ha
古檢ナシ
十二間
十六間
六畝拾貳歩
宮建有之
諏訪宮境内
宮守 與五右衛門
12間 ≒  21.81m
8畝24歩 0.063ha
右古跡無紛畑方堂地森從古來除來之由遂吟味得御下知如斯水帳之奥書記之者也
    酒井河内守内  
      高須隼人
 
    社殿の構造 本殿祝詞舎拜殿はいつれも權現造茅葺なり  
  上に記す所を以て本社試料の槪要となす  
  社掌 町田C三郎
氏子總代 本多秋太郎
       宮崎順次郎 本多次郎吉
       唐澤榮藏 割田喜作
 最初の説明文にある「近古」というのは鎌倉時代と室町時代のこと。「現時」は「現代」のことなんだけど、この本が出たのは大正4年(1915年)なので、いまでいう「近代」ということになる。
 「配祀二座は明治十年六月九日」のところ、明治10年になにがどうしたのか私には正直意味がよくわからない。次の「明治四十年九月二日許可」はわかるんだけど。
 

  

 
5-1-3 1929『群馬縣吾妻郡誌』
村社  諏訪~社   
 本社は澤田村大字下澤渡村加賀森に鎮座し、境内二百十六坪、氏子區域は下澤渡村全般にして七十三戶あり。本社は近古に於て幕府の崇敬殊に厚く、社家を置き土地を寄附せられしも維新以後上地を命ぜられ、一時衰頽に傾きしが現時基本の確立せるを以て大正四年十月九日~饌幣帛料の供進を指定せらる。
 祭~ 建御名方命 八坂刀賣命(主~)
倉稻魂命 大山祇命(配祀)
伊弉諾命 日本武尊 大日孁尊 大物主命 火雷命 市杵島姫命 素盞嗚尊 豊受姫命 菅原道真公 不詳三座(以上十二柱合祀) 
 
 境内~社 飯綱~社 保食~、文化九年十二月建立 明治十年六月字稲荷山より
榛名~社 火産霊命、埴山姫命
文化9年 ≒  1812年
明治10年 1877年
 由緒
不詳
配祀二座は明治十年六月九日
明治四十年九月二日許可 本村社境内末社 琴平宮、飛房~社、地~社、厳島~社
  及
 同大字無格社三島神社 同境内末社七社
  無格社伊勢宮 同境内末社四社
を合祀せり
7尺 ≒  2.12m
8尺 2.42m
3間 5.45m
2間 3.63m
 社殿 本殿祝詞殿拝殿は何れも権現造茅葺にして本殿は間口七尺奥行八尺、拝殿は間口三間奥行二間なり  
 この資料は基本的には『上毛吾妻郡神社小誌』のコピペで、ただし一部情報が更新されている。
 

  

5-2 由緒
 六国史のひとつ、9世紀半ばに成立した『続日本後紀』には、おそらく吾妻地方にあったと思われる諸社が記録されている。すなわち、どんなに遅くとも830年頃には、「名神社」に列せられるほどの神社がこのエリアにあったことになる。
 が、この諏訪神社の歴史はそこまで遡ることは無理で、諏訪湖の諏訪神を祀る「諏訪神社」を信仰する戦国時代の武田家が、当地に持ち込み創建したのだろうと考えられている。
 つまり、武田家が吾妻地方に進出したのは永禄年間の初期で、永禄6年(1563年)に真田氏に吾妻方面の攻略を命じたのが始まりとされている。それより早くはないだろう。結局のところ、武田家は織田信長に滅ぼされ、独立した真田家は天正壬午の乱(1582年)を経て、吾妻地方を領有することになる。その後、関ヶ原の合戦の前後に戦勝祈願として郡内の寺社の整備をしているし、江戸時代になってからも真田沼田藩は吾妻地方の寺社の整備寄進を行っている。
 なので、正確な時期は不明だけども、とにかく戦国時代から江戸時代の前半あたりが、諏訪神社の創建時期なんだろうと推測されている。証拠はない。貞享3年(1686年)の検地帳に「諏訪宮」の社領地の記述がある。これが今の下沢渡の諏訪神社のことではないかと考えられており、遅くともこの事典では神社が存在していたということになる。
 吾妻地方における「諏訪神社」の分布には偏りがある。まず西吾妻地方全域。一方、吾妻地方では、中之条町の沢田・伊参地区、吾妻町坂上・岩島地区に集中する。これは戦国時代の武田氏の勢力域に由来するようだ、と考えられている。たとえば中之条町沢田の折田地区には、武田信玄が用いていた「諏防大明神」の旗が伝わる。この旗は、武田家に仕えていた折田将監寿賢という武将が、戦功をあげたときに信玄から下賜されたものだと伝わる。(「諏防」というのは誤変換ではなく、実際に旗に「防」の文字が使われている。)
 諏訪神社の存在が明確に史料上で確認できるのは、明治10年(1877年)の調査で下沢渡村内に3神社(諏訪・飯綱・三島)が記録されているものだ。

  

5-3 昭和4年地図
 この地図は大正元年(1912年)に測量、昭和4年(1929年)に公開された地図。
 中央の○が旧沢田村の村役場。「下澤渡」地区に小字として「中組」「菅田」「金原」が描かれている。
 諏訪神社も現在の鎮座地に描かれている。
  

  

5-4  

  

5-5  

  

5-6 年表
和暦 干支 西暦 事項 情報源
約35,000年前 日本列島での旧石器文化の確実な証拠  
約20,000年前 日本列島特有の旧石器文化の普及  
約16,000年前頃 縄文時代はじまる  
   縄文時代前期の遺跡 五反田・山田・下沢渡・上沢渡など  
紀元前3〜5世紀頃 弥生時代はじまる  
   有笠山遺跡(上沢渡)  
     
神武帝元年 辛酉 紀元前660年 神武天皇即位年とする(皇紀元年) 戦前皇国史観
         
崇神天皇48年 辛未 紀元前611年 豊城入彦命(上毛野氏・下毛野氏の祖)が東国を治める  
         
景行天皇40年 庚戌 110         日本武尊が碓日の坂を経由して上野国を去る  
景行天皇55年 乙丑 125     彦狭島王が東山道15国の都督として下向するも、道中病死し上野国に埋葬 『日本書紀』
景行天皇56年 丙寅 126         御諸別王(豊城入彦命の3世孫)が東国を治める 『日本書紀』
応神天皇15年 甲辰 284         荒田別・巫別(両者とも上毛野氏の祖)が百済に使者として派遣される 『日本書紀』
この頃             毛野国が上毛野国と下毛野国に分割となる  
仁徳天皇53年 乙丑 365         上毛野氏の一族、田道が新羅に派遣され、新羅軍を破る  
仁徳天皇55年 丁卯 367         田道が蝦夷と戦い敗死  
                 
  丁亥 507 継体天皇即位  
推古天皇09年 辛酉 601         新羅の間諜・迦摩多が上毛野国に配流  
推古天皇35年 丁亥 627         信濃国から蠅の大群が襲来  
舒明天皇09年 丁酉 637         上毛野君形名が蝦夷反乱を討伐  
大化 乙巳 645     大化の改新  
                  この頃に吾妻郡設置か  
斉明天皇04年 戊午 658         有馬皇子の変に際し、守大石らが上毛野国に配流  
天智天皇02年 癸亥 663         上毛野君稚子が新羅征伐の将に任じられる  
天武天皇13年 甲申 684         上毛野君が朝臣の姓を賜る  
     
大宝 辛丑 701 21 「大宝律令」成立  
癸卯 703 17 上野国で疫病 『続日本紀』
和銅 庚戌 710 10 平城京遷都  
  711 上野国に多胡郡を設置 多胡碑
壬子 712 28 『古事記』成立  
養老 庚申 720 21 『日本書紀』完成
                     
天平宝字4年 庚子 760 26 上野国で飢饉、朝廷が救援 『続日本紀』
天平宝字8年 甲辰 764 10 20 上毛野朝臣馬長が上野国司となる 『続日本紀』
神護景雲2年 戊申 768 掌膳采女佐位朝臣老刀自を上野国国造に任じる 『続日本紀』
                     
延暦 庚午 790         上野国など14国で飢饉  
10 辛未 791         坂上田村麻呂の征討開始 吾妻七氏が従軍との伝承 『中之条町誌』
13 甲戌 794 10 22 平安京遷都  
                     
弘仁 辛卯 811 15 上野国が「上国」から「大国」に格上げ 『日本後紀』
天長 丙午 826 上野国が親王任国となる 『類聚三代格』
承和 甲寅 834 21 阿保親王が上野国国司となる 『続日本後紀』
乙卯 835 29 伊香保神が名神社となる 『続日本後紀』
嘉祥 庚午 850 12 甲波宿禰神が官社となる 『文徳実録』
貞観 壬午 862         吾妻郡擬少領上毛野坂本朝臣真道の名が文書に記載 『政事要略』 
丁亥 867 20 貫前神に従四位上、赤城・伊香保神に正五四位下、甲波宿禰神に従五位上など 『三代実録』
元慶 庚子 880 25 貫前神に従三位、赤城・伊香保神に従四位上、甲波宿禰神に従四位下、稲裏地神に従五位下など 『三代実録』
仁和 乙巳 885         上野国で班田制が崩壊  
                     
延長 丁亥 927         『延喜式』巻9・10「神名帳」成立  
天慶 己亥 940         平将門の乱  
天暦 丁未 947         市代牧から「白波」など名馬を朝廷へ献上  
永承 辛卯 1051         前九年の役  
永保 癸亥 1083         後三年の役  
保元 丙子 1156         保元の乱  
平治 己卯 1159         平治の乱  
                     
寿永 壬寅 1182 28 頼朝が伊勢神宮に神馬を奉納するにあたり、「吾妻八郎」が栗毛馬を献上 『吾妻鏡』
文治 乙巳 1185 24 壇ノ浦の戦い、平家滅亡  
建久 壬子 1192 12 源頼朝が征夷大将軍となる  
癸丑 1193         頼朝が下野那須野での狩りに出発 『吾妻鏡』
      頼朝が「三原野」(吾妻地方)で狩りをしたとの伝承 『曽我物語』
28 頼朝が下野那須野での狩りのあと、新田義重邸を経由して鎌倉に戻る 『吾妻鏡』
正治 年間    1199〜1201 伊参城に大野氏が在城と云う  
承元 丁卯 1207 12 吾妻四郎助光が鎌倉で御所に飛来した青鷺を射落とし、弓の名手と称賛される 『吾妻鏡』
                     
承久 辛巳 1221 22 承久の乱 吾妻四郎助光が討死と云う 『吾妻鏡』
14 宇治の戦い 『承久記』
仁治 辛丑 1241 25 海野幸氏と武田信光が「三原荘」(吾妻郡西部)の領有を巡り争議、北条泰時の裁定により海野氏に与えられる 『吾妻鏡』
                     
康元 丙辰 1256     上野国守護の安達泰盛が評定衆に加わる  
文永 庚午 1270         沢渡温泉に板碑  
辛未 1271         中之条伊勢町の林昌寺の板碑  
11 甲戌 1274 10     蒙古襲来(文永の役)  
弘安 庚辰 1280         一遍上人が上野国に来訪  
辛巳 1281     蒙古襲来(弘安の役)  
        浅間山噴火 稲裏神社の懸仏建立か  
乙酉 1285 11   霜月騒動 上野国守護安達泰盛と上野国の御家人が破れ、北条得宗家が上野国守護となる  
永仁 戊戌 1296         『上野国神名帳』に吾妻郡13座を所載  
建武 甲戌 1334         建武の新政  
    後醍醐天皇が護良親王・新田義貞・楠木正成らに足利尊氏討伐を命じる  
乙亥 1335         折田・滝沢の板碑  
延元 丁丑 1338         新田義貞が越前国で討死(建武4年)  
康永 壬午 1342         善福寺創建か  
観応 庚寅 1350         観応の擾乱(〜1352)(正平5年)  
                     
延文 年間   1356-1361 『神道集』成立 和利宮伝承の初出  
                     
応安 己酉 1369         横尾の板碑  
元中 甲子 1384         南朝方の尹良親王が青山郷に拠る  
応永 乙亥 1395 24 上杉憲定が上野国守護となる  
                     
23 丙申 1416         上杉禅秀の乱  
                     
永享 10 戊午 1438         永享の乱 足利持氏と上杉憲実が対立  
                吾妻三家が相争い、塩谷氏が中之条を領するという  
享徳 年  甲戌 1455         享徳の乱はじまる(〜1483) 関東管領上杉憲忠が暗殺される  
応仁 丁亥 1467 26 応仁の乱はじまる  
文明 癸巳 1473         塩谷氏と大野氏が争う  
                  この頃、吾妻33番観音が成立という  
丙申 1476         長尾景春の乱 関東管領上杉顕定に叛く  
12 庚子 1480         吾妻方面の諸将が平井城・上杉顕定に服属  
14 壬寅 1482 11 27 都鄙和睦 享徳の乱の終結  
18 丙午 1486         京都常光院の堯恵が草津温泉・伊香保温泉に逗留 北国紀行
文亀 壬戌 1502         連歌師の宗祇が伊香保温泉に逗留 宗祇終焉記
永正 乙丑 1505         山田・吾嬬神社の神像銘  
〃  〃          下沢渡・小池氏古塔銘  
丙寅 1506         下沢渡・大蔵院天狗祭文奥書  
10 癸酉 1513     箕輪城長野憲業が大戸浦野氏を攻略を榛名山に祈願 榛名山文書
                     
享禄 庚寅 1530 11 箕輪城長野憲業が吾妻で討死 業正が後継  
天文 丁酉 1537 16 四万の日向見薬師堂が建立される 棟札
15 丙午 1546         河越夜戦 関東管領上杉憲政が北条氏康に大敗し平井城へ退く  
20 辛亥 1551         北条氏康が上野国へ侵攻、平井城上杉憲政を破る  
21 壬子 1552 10 上杉憲政が平井城を出奔、越後国上杉謙信を頼る  
弘治 丁巳 1557 『上野国神名帳』の写本が現存  
永禄 庚申 1560 29 上杉謙信が上野国へ侵入  
辛酉 1561     上杉謙信が北条氏の相模国小田原城を包囲  
21 箕輪城主長野業正が没し、業盛が後継となる  
癸亥 1563 10     真田氏により吾妻地方を追われた斎藤憲広が越後国へ落ち延びる  
甲子 1564     上杉謙信が嶽山城の斎藤氏を支援   
乙丑 1565     武田信玄が斎藤氏討伐を祈願(諏訪上社)  
    折田八幡宮棟札  
10     嶽山城落城、吾妻斎藤氏滅亡  
丙寅 1566     上杉謙信、沼田城から吾妻郡方面攻略  
    武田信玄が箕輪城の長野氏を滅ぼす  
        武田氏麾下の海野氏が吾妻方面の郡代に任ぜられる  
12 己巳 1569         北条氏と上杉氏が和睦、上野国は上杉氏領となる  
元亀 1571         武田信玄配下の真田氏が上野国白井城を攻略  
癸酉 1573 12 武田信玄没  
天正         上杉謙信が上野国白井城を攻略  
乙亥 1575 21 長篠の戦い 武田氏の勢力衰える 吾妻方面の将兵多数討死と云う  
丙子 1576         真田昌幸が岩櫃城に入城  
庚辰 1580 23 真田昌幸による沼田城攻略  
12 28 真田昌幸が横尾八幡城を攻め落とす  
辛巳 1581     尻高小矢野城落城、尻高氏滅亡  
武田勝頼が真田昌幸を沼田へ帰城させる  
10 壬午 1582 11 武田勝頼が天目山で自害、武田氏滅亡  
23 織田信長が上野国を滝川一益に与える  
本能寺の変  
        天正壬午の乱(上野国などを巡る徳川・北条・上杉氏の争乱)  
    北条氏が大戸方面から吾妻郡へ侵攻  
12 29 徳川家康と北条氏直が講和  
11 丁亥 1583 豊臣秀吉、九州平定  
12 甲申 1584 12 16 真田昌幸が市場右京進に吾妻の問屋を営む許可  
13 乙酉 1585 15 徳川家康が真田家に沼田を北条家に明け渡しを命じる  
14 丙戌 1586 10 北条氏邦が真田・沼田城を攻める  
15 丁亥 1587 近衛前久が草津温泉で湯治  
17 己丑 1589 21 秀吉が上野国沼田を北条家へ、名胡桃城を真田家へ仕置  
12     吾妻合戦  
18 庚寅 1590     中之条古城が落城  
秀吉による小田原攻めに伴い、上野国の諸城も攻略  
15 真田信幸が沼田に封ぜられる(沼田藩の創始)  
    折田八幡宮棟札  
      吾妻郡の諸城を破却  
文禄 壬辰 1592         朝鮮出兵(文禄の役)  
甲午 1594         横尾・山田氏墓地の宝篋印塔  
乙未 1595         中之条の中心地が河原町から長岡(現在の市街地)に移転  
慶長 丙申 1596         中之条・伊勢宮創建  
庚子 1600 15 関ヶ原の合戦  
辛丑 1601     真田信幸が関ヶ原勝利の奉謝のため社寺へ寄進  
12 丁未 1607 12 16 真田信幸が中之条に伝馬制を敷く  
                     
元和 乙卯 1615     大坂夏の陣  
丙辰 1616         一国一城令により岩櫃城を破却 原町に奉行所を移す  
                     
寛永 乙丑 1625         中之条町で町割整備 中之条用水(芝本用水開削)  
辛未 1631         真田信吉による検地 大戸関所設置  
壬申 1632         中之条と原町で市立争議  
                     
寛文 壬寅 1662 12 29 大笹と狩宿に関所を設置  
延宝 己未 1679         沼田藩主真田信利が沢渡温泉に入湯  
庚申 1680 閏8     大暴風雨 飢饉  
天和 辛酉 1681         沼田城真田信利(伊賀守)改易 中之条は天領となる  
貞享 丙寅 1686         検地帳に「諏訪宮社領」の記述あり  
元禄 戊辰 1688         下沢渡橋の公儀橋として架替  
庚午 1690         吾妻33観音札所再興  
12 己卯 1699 15 台風により折田村で21軒倒壊  
宝永 乙酉 1705         沼田藩に本多正永(伯耆守)が入封  
丙戌 1706         下沢渡橋の普請  
正徳 甲午 1714         下沢渡橋の普請  
享保 15 庚戌 1730         本多氏が沼田藩から転出し、天領となる  
元文 丁巳 1737         折田村で妙見諏訪神社再建の寄付を募る  
己未 1739         下沢渡橋の普請  
寛保 壬戌 1742     戌の満水(大洪水) 河川決壊・橋崩落多数 年貢米の輸送ができず金納となる  
寛延 戊辰 1748         戌の満水で落ちた山田川(四万川)の橋を再建  
宝暦 戊寅 1758         下沢渡橋の普請  
10 庚辰 1760 手水鉢を奉納  
明和 丙戌 1766         山田川橋の架替  
安永 發巳 1773         山田川橋流失  
甲午 1774         山田川橋の再建  
乙未 1775         山田川橋流失  
12     境内道祖神の建立  
年  戊戌 1778         山田川橋の再建  
天明 年  壬寅 1782         山田川橋流失・再建  
癸卯 1783 浅間山大噴火(天明の浅間焼け) 山田川橋流失  
戊申 1788 10 日  石灯籠を奉納  
寛政 己酉 1789 12     境内道祖神の建立  
庚戌 1790         山田川橋流失  
辛亥 1791         下沢渡橋大破  
丁巳 1797         山田川橋の再建 吾妻郡大前村でミョウバン採掘が始まる  
享和 辛酉 1801         大洪水 山田川橋流失  
文化 丙寅 1806         10年に一度の豊作となる  
戊辰 1808         山田川橋流失  
壬申 1812         草津温泉・四万温泉賑わう  
文政 庚辰 1820         山田川橋の架替  
辛巳 1821 石灯籠を奉納   
年  乙酉 1825 18 異国船打払令  
丙戌 1826     石製小祠を建立  
天保 辛卯 1831         高野長英が沢渡に来訪  
壬辰 1832         山田川橋の架替 四万新湯大火  
戊戌 1838     山田川橋流失  
13 壬寅 1842         四万渡戸橋架替  
嘉永 戊申 1848 12 21 国定忠治が大戸関所で斬首  
癸丑 1853 ペリー、浦賀に来航   
安政 甲寅 1854 25 吾妻川の通船許可  
日米和親条約、下田・箱館を開港  
丁巳 1857         山田川橋大破  
戊午 1858 19 大老井伊直弼、独断で日米修好通商条約を締結  
文久 辛酉 1861 11   10   和宮降嫁、中山道を通過  
        俳句を記した句額を奉納  
元治 甲子 1864     天狗党が中之条で1780両を供出させる  
慶応 丁卯 1867 10 14 徳川慶喜が大政奉還を上奏   
年  戊辰 1868 鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)  
          神仏分離令  
      中之条一帯は前橋藩の所管となる  
閏4 小栗上野介が官軍に処刑される  
明治 明治改元  
己巳 1869     版籍奉還  
    石灯籠を建立  
1870 12     石製小祠を建立  
辛未 1871 14 廃藩置県  
11 10 大区小区制施行  
        社格制度創設  
12 太陰暦から新暦に切り替え(12月3日が明治6年1月1日となる)  
25 市制・町村制施行  
壬申 1872 11     群馬県で地蔵・観音像・庚申塚・十三夜塔・馬頭観世音などの撤去命令が出る  
乙亥 1875         神祠仏堂石像の移転合併がはじまる 山田川橋大工事で35ヶ村から人足が出る  
10 丁丑 1877         社祠堂宇の合併 仏堂存置願が増える  
下沢渡字稲荷山の飯綱神社を合祀
榛名神社を合祀
 
11 戊寅 1878 22 郡区町村編制法を領布  
        中之条に吾妻郡役所が設置  
12 己卯 1879         山田川橋竣工  
    有笠牧場開設  
    神社明細帳作成  
29 スウェーデン人探検家ノルデン・シェールが伊香保・沢渡を訪問  
16 癸未 1883     山田川橋の架替  
17 甲申 1884 25 上野=高崎間に鉄道開業、式典に明治天皇行幸   
20 上野=前橋間に鉄道延伸  
20 丁亥 1887         高沼大火  
22 己丑 1889     中之条町・沢田村・伊参村・名久田村成立  
23 庚寅 1890 12 前橋=渋川間に馬車鉄道開業  
26 癸巳 1893 高崎=渋川間に馬車鉄道開業  
27 甲午 1894 25 豊島沖海戦(日清戦争開戦)  
28 乙未 1895 17 下関条約(日清戦争終結)  
29 丙申 1896 29 郡の再編により、吾妻郡設置  
30 丁酉 1897 21 草津白根山噴火  
31 戊戌 1898 徳冨蘆花「不如帰」連載開始(伊香保温泉が舞台)  
32 己亥 1899 29 吾妻郡立中之条農学校設立  
35 壬寅 1902 30 日英同盟  
37 甲辰 1904 10 ロシアに宣戦布告(日露戦争開戦)   
38 乙巳 1905 奉天会戦はじまる(第七師団派遣)  
ポーツマス条約(日露戦争終結)  
40 丁未 1907     郡内で神社の合併が盛んになる  
下記諸社の合祀の認可
・境内末社4(琴平宮・飛房神社・地神社・厳島神社)
・三島神社、その境内末社7
・伊勢宮、その境内末社4
 
11 20 高崎=渋川間の馬車鉄道が電鉄化  
42 己酉 1909 中之条町内の神社合併が盛んに行われる  
21 浅間山噴火  
12 浅間山噴火  
10 17 中之条=鯉沢(渋川)に鉄道敷設  
12 前橋=渋川間に電鉄開業  
43 庚戌 1910 12 25 浅間山噴火  
44 辛亥 1911 浅間山噴火  
渋川=沼田間に馬車鉄道開業  
12 浅間山噴火  
45 壬子 1912 16 中之条に電燈  
19 渋川=中之条間の馬車鉄道が開業  
30 明治天皇、崩御  
大正 1912 30 日  大正改元   
甲寅 1914 28 第一次世界大戦勃発  
11 10 大正天皇即位大礼  
乙卯 1915 大典記念改修で幟杭を設置  
10 神饌幣帛料供進神社に指定 『群馬縣吾妻郡誌』
戊午 1918 21 渋川=沼田間の馬車鉄道が電鉄化  
己未 1919 28 ベルサイユ条約締結(第一次世界大戦終結)  
四万自動車が中之条=四万間で運行開始(群馬県初のバス路線)  
庚申 1920 11     渋川=中之条間の鉄道が電車となる  
10 辛酉 1921 上越南線・高崎=渋川間開業  
11 壬戌 1922 10 17 若山牧水が沢渡温泉に逗留  
12 癸亥 1923 関東大震災  
14 乙丑 1925 11 12 草津白根山噴火  
  15 丙寅 1926 18 草津電鉄(草津=軽井沢)開通  
12 25 大正天皇崩御  
昭和 1926 〃  昭和改元  
           
戊辰 1928 11 10 昭和天皇即位大礼  
庚午 1930     折田地区幹線水路開通  
12 浅間山噴火
辛未 1931 上越線全通  
18 柳条湖事件(満州事変開始)  
10 乙亥 1935 26 台風接近に伴う集中豪雨 四万温泉・沢渡温泉で旅館36軒流失 死者55名  
12 丁丑 1937 日中戦争開戦(盧溝橋事件)  
11 11 嬬恋村の小串鉱山で山崩れ  
12 草津白根山噴火  
14 己卯 1939         四万・沢渡温泉が軍需景気に沸く  
ドイツがポーランドへ侵攻(第二次世界大戦開戦)  
15 庚辰 1940 11 10 紀元二千六百年記念行事  
16 辛巳 1941 12 真珠湾攻撃(太平洋戦争開戦)  
19 甲申 1944 ノルマンディー上陸作戦  
10 20 レイテ沖海戦  
20 乙酉 1945 国鉄長野原線・渋川=長野原間の開通(現在の吾妻線)  
16 沢渡大火  
ドイツ降伏  
15 終戦の詔  
12     GHQの神道指令(国家神道・社格の廃止)  
21 丙戌 1946 農地改革  
23 戊子 1948     アイオン台風 四万・沢渡の橋が尽く落ちる  
24 己丑 1949 沢田で山火事  
1949 31 キティ台風 群馬県内で死者42名  
26 辛卯 1951     四万温泉活況  
28 癸巳 1953 町村合併法制定(昭和31年9月末までの時限立法)、町村合併相次ぐ  
29 甲午 1954 11 四万温泉が国民保養温泉地に指定される  
30 乙未 1955         神武景気  
        中之条町・沢田村・伊参村・名久田村が合併し中之条町発足  
  33 戊戌 1958 11 10 浅間山噴火  
  34 己亥 1959 14 浅間山噴火  
  39 甲辰 1964 11 長野原=草津間に草津有料道路が開通  
  40 乙巳 1965 12 吾妻川支流に草津温泉廃水の中和用の品木ダム完成  
  46 辛亥 1971 国鉄吾妻線開業  
  辛亥 11 28 上越新幹線起工  
             
  56 辛酉 1981 12 23 上越新幹線の中山トンネル貫通  
  57 壬戌 1982 11 15 上越新幹線の大宮・新潟間で営業開始  
  58 癸亥 1983 11 13 草津白根山が噴火  
60 乙丑 1985 14 上越新幹線が上野駅へ乗り入れ  
乙丑 10 関越自動車道全通  
63 戊辰 1988 13 青函トンネル開通  
64 己巳 1989 昭和天皇崩御  
平成 1989 平成改元  
                     
                     
丁丑 1997 狛犬2基を奉納  
30 信越本線横川=軽井沢間廃止  
10 長野新幹線開業  
12 庚辰 2000 11 旧石器捏造事件が発覚 群馬県内でも5遺跡が該当  
16 甲申 2004 浅間山噴火  
17 乙酉 2005         NHK朝のドラマ「ファイト」で四万温泉が舞台となる  
鳥居を寄進  
21 己丑 2009         民主党政権が八ッ場ダム建設中止を決定  
22 庚寅 2010 28 中之条町に六合村を編入  
23 辛卯 2011         民主党政権が八ッ場ダム建設再開を決定  
                     
31 己亥 2019 30 平成天皇が譲位  
令和 令和改元  
                     
庚子 2020 八ッ場ダム運用開始  
                     
                     

  


 
6 周辺のみどころ
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6-4 諸元
名称 俗称
古称  
旧称 諏訪大神
異説
所在 経緯度 北緯 036 度 36 分 39.34秒
東経 138 度 47 分 28.42秒
地名地番 群馬県 吾妻郡 中之条町 大字 下沢渡 934番地
旧表記 群馬県 吾妻郡 沢田村 大字 下沢渡 字 菅田 加賀森
 ※小字名を「賀々森」「カゝ森」と表記する資料もある。
 ※『中之条町誌』では小字を「菅田」とし、さらにその下位の地名(小名)として「加賀森」
郵便番号
現住所 群馬県 吾妻郡 中之条町 大字 下沢渡 934番地
電話 TEL 0279-68-2006(東吾妻町:大宮巌鼓神社)
祭神 主祭神 建御名方命
祭神
八坂刀売命 倉稲魂命 大山祇命 伊弉諾命
日本武命 大日霊命 大物主命 火霊命
市杵島姫命 素盞嗚命 豊受姫命 菅原道真公
注記  
 
社史 創建 不詳
公認
注記
境内 面積 南北16間 東西12間(1879『上野国神社明細帳』)
216坪(約714.04u) (1929『群馬縣吾妻郡誌』)
社殿 本殿
拝殿・幣殿
備考
摂末社 末社
境内社
社格 旧社格 村社
神饌幣帛料供進神社(大正7年4月12日指定)
祭礼 春祭 3月15日(1879『上野国神社明細帳』)
3月15日(2019『なかのじょう地域散歩』)
夏祭 7月27日(1879『上野国神社明細帳』)
8月27日(2019『なかのじょう地域散歩』)
秋祭 9月19日 → 9月第2日曜日 下沢渡獅子舞
備考  
氏子 世帯数 下沢渡村73戸(1929『群馬縣吾妻郡誌』)
崇敬者数 -
注記 -
文化財 史跡 -
史跡 -
交通   JR吾妻線「中之条」駅から約6.9km(車14分)
  関越交通沢渡線「菅田口」バス停より約300m(徒歩4分)
情報源  
『上野国神社明細帳11碓氷郡・吾妻郡・利根郡・佐位郡』 1879
『上毛吾妻郡神社小誌』 1915
『群馬縣吾妻郡誌』 1929
『中之条町誌』 1976
『群馬県百科事典』 1979 ×
『日本歴史地名大系10』 1987 ×
『角川日本地名大辞典』 1988
『中之条町の文化財』 2003 ×
『中之条町の石造物』 2008
『群馬新百科事典』 2008 ×
『なかのじょう地域散歩』 2019
『広報なかのじょう ふるさと再発見』 2020 ×

  

6-5 リンク
サイト 題名 リンク 日付
群馬県神社庁 県内神社紹介 吾妻支部
 
人里の巨木たち 全国巨樹探訪記 下沢渡諏訪神社のスギ 2013/07/28
風に誘われて 石仏・道祖神に会いに 中之条町の道祖神C〜沢田2 2013/11/01
ビーズうさぎのハナちゃんです!!  群馬県中之条町、下沢渡諏訪神社の大杉です!! 2016/10/31
神社3 神社写真と説明 群馬県 中之条町 下沢渡  諏訪神社 2020/03/12
       

  

6-6 参考文献
書名 著・編
上野国の信仰と文化 尾崎喜佐雄 尾崎先生著書刊行会 昭和45 1971
上野国神名帳の研究 尾崎喜佐雄 尾崎先生著書刊行会 昭和49 1974
群馬の墓めぐり―郡部篇 萩原進 みやま文庫 昭和55 1980
上野国郷帳集成 丑木幸男 群馬県文化事業振興会 平成04 1992
沢渡温泉史 唐澤定市 沢渡温泉組合 平成20 2008
戦国史
上州の150年戦争
上毛新聞事業局出版部 平成24 2012
中之条町
歴史と民俗の博物館ミュゼ
常設展示開設図録
  歴史と民俗の博物館ミュゼ 平成25 2013
戦国上野国衆事典 久保田順一 戎光祥出版 令和03 2021
           

  

 
 

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