北海道 石狩國
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 やひろ
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北海道神社本庁包括外
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弥廣神社
 
空知地方 夕張郡 長沼町 15区
長沼15区
 長沼15区の開拓神社で、「弥廣神社」(弥広神社)という。「弥広」という語は、地域の末永い繁栄を祈念してこの地区で考案した造語で、地元の郷土誌も『弥広の里』というタイトルだ。以前のGoogle Mapでは「弥候神社」の名前で登録されてしまっていた。おそらく、「弥廣」の「廣」を「コウ」で変換して出そうとして誤って「候」を選択してしまい、そのまま登録してしまったのだろう。いまは修正されているが、誤記が残っている探訪サイトも。
参拝日 令和03年(2021)11月03日 作成日 令和03年(2021)11月07日 修正日 令和05年(2023)11月07日
所在地 北海道 夕張郡 長沼町 字 西3線北3号
                   (長沼町十五区)
旧社格 北海道神社本庁包括外(未公認神社)
主祭神 開拓三神
(大国魂神・少彦名神・大己貴神)
神社史 大正中期 創立
大正年間 現在地に遷座
境内
社殿 拝殿・幣殿・本殿
施設
文化財 手水鉢、石灯籠、記念樹
神職 無住
旧称異称
 
基本情報
概観
鎮座地
略年表
祭神
神紋
御朱印
 
境内
略図
社頭
社号標
鳥居
手水鉢
石灯籠
 
 
境内U
社殿
地区会館
倉庫?
 
 
歴史
十五区史
神社史
年表
第2古川
 
 
情報
 
 
 
 
情報
諸元
リンク
参考文献
 
 
 
 
 
1 基本情報
1-1 概観
 長沼中心市街地から西へ2.5km。580メートル四方の正方形に区画された広大な農地が広がる。
 この地域の開基は100年前に遡る。開拓初期、このあたりは「九区」に属していた。地域が発展するにつれて村内の区割りは何度も再編成が重ねられ、昭和15年(1940年)に九区の南側が「十五区」として分割された。
 
 十五区の開拓民は、地域の発展を願い、当地を「彌廣」(弥広)と命名した。行政上の地区名や住居表示では単なる「15区」だが、「弥廣青年会」「弥廣経営改善組合」「弥廣四Hクラブ」といった具合に、地域の団体などには「弥広」の名が用いられている。分割独立から60周年となる平成12年(2000年)に刊行された郷土誌も『弥広の里』という表題。
 

  

1-2 鎮座地
所在地
現表記 北海道 夕張郡 長沼町   西3線北    
旧表記 石狩国 夕張郡 長沼村 字  西3線          
座標
緯度 北緯 43 01 04.40
経度 東経 141 40 15.80
標高 9.4m
住宅地からの比高 およそ−0.5メートル
地図リンク
 弥廣神社は、広大な北海道の中部、石狩平野の南部に位置している。
 長沼町の中心市街地は、かつての低湿地帯を干拓してできた開拓地に形成されている。弥廣神社はその中心市街地のすぐ西に位置している。
長沼町の中西部・十五区に位置している。長沼町は全域が開拓前に制定された碁盤の目状に区画されていて、町の中心部から「北3号」の道路が一直線に伸びている。この道路は、石狩平野の札幌圏の外周をぐるりと環状にまわる国道337号線にもなっていて、神社はこの国道に面し、社殿は北面して鎮座している。

  

1-3 略年表
和暦 西暦 地域史
明治 20 (1887) 北長沼に入植者(長沼開基)
35 (1902) 長沼村に二級町村制が施行
大正 中期 西1北3に小祠を祭祀する(旧9区)
  末期   西1北3の小祠を現在地(西3北3)に遷し、社殿を建立。「弥廣神社」と号する
昭和 3 (1928) 青年団有志によりコンクリート製鳥居を建立(現存)
13 (1937) 社号標を建立
15 (1939) 紀元2600年記念の石灯籠奉納
16 (1940) 第九区から第十五区を分割
平成 12 (2000) 第十五区六十周年記念として社号標台座を奉納

  

1-4 祭神
位置付 神号 よみ 神徳 備考
主祭神 大国魂神 おおくにたまのかみ 開拓三神の1柱
主祭神 大己貴神 おおなむちのかみ 開拓三神の1柱
主祭神 少彦名神 すくなひこなのかみ 開拓三神の1柱
 開拓三神とは、明治のはじめに北海道開拓が始まるときに、明治天皇の勅命で「開拓地の神」として奉斎された3神の総称。北海道神宮の主祭神であり、北海道各地に新たな神社が創建されるときに、北海道神宮からこの3神を分霊して祭神とすることが多く、そうした神社を「開拓神社」と俗称する。この3神は、大国魂神・少彦名神・大己貴神である。 
 大国魂神は、「国」「国土」を神格化したもので、「国霊」ともいう。
 大己貴神は、出雲神話に登場する人物神で、「因幡の白兎」から「国譲り」までの主人公である。
 少彦名神は、大己貴神の国造りを補佐した人物神。渡来人を神格化したものと考えられている。

  

1-5 神紋
不明
 

  

1-6 御朱印
 
 
 

  


 
2 社頭
2-1 境内略図
区分 西暦 和暦 説明 奉納者 備考
@ 社号標 1938
2000
昭和
平成
13年
12年
11月
9月

7日 
弥廣神社
第十五区 六十周年記念
 
A 鳥居 1928 昭和 3年      
B 手水鉢 1934 昭和 9年 9月   若千鳥事西田正司引退記念  
C 石燈籠 1940 昭和 15年 10月   紀元2600年記念
北星支部員退会記念
 
D 地区会館   十五区地区会館  
E 倉庫(?)  
F 石碑 19 昭和   長沼町九区 開基百年記念
G 地区会館   九区地区会館  
H 自衛消防団      

  

2-2 社頭
 
 国道337号に面した境内。
 
 
 正面から
 

 鳥居、社号標、拝殿などが見える。
 

  

 
2-3 社号標
 鳥居に向かって右脇に社号標がある。
 自然石を利用した、趣深い社号標だ。
 戦後まもない時期に撮影された神社の写真をみると、一番上の石(社号標)と、二番目の石(台座)とが、鳥居の右隣に置かれている。三段目の石は、平成12年(2000年)に新たに加わったもの。
 裏から見るとこんな感じ。
 
 
 ここに「弥廣神社」とはっきり書かれている。
 台座には、建立に関わったであろう人たちの名前が刻まれている。「弥廣神社」の社号標の文字と比較して、ずいぶん時代が古いような印象。台座の上に社号標を固定しているモルタル?の感じからして、わりと最近に固定しなおした、という感じがする。
 「奉納」「昭和十三年十一月」(1938年)などと刻まれているようだ。木の枝が邪魔でちゃんと読み取れない・・・現地でちゃんと確認してこいって話なんだけどね。
 10名の名前が刻まれていて、筆頭は「 熊蔵」氏。後で出てくる石灯籠に刻まれた名前の筆頭も「 興一郎」氏なので、地区の名士なのだろう。
 台座裏側には何も刻まれていないようだ。
 昭和13年(1938)の古い台座の下に、平成12年(2000)に奉納された新しい台座がある。
 第十五区
 六十周年記念 
 
  平成十二年九月七日
  平成12年=2000年
 長沼では、明治28年(1895)に戸長役場を設置したときに、村内を10区に分けた。翌年には14区に再編され、さらに次の年にはポロナイ地区が加わり15区となった。その後、入植や開墾が進むに連れて「区」の数は増えていき、区割りも何度も変わっていった。明治35年(1902)に全20区、明治39年(1906)には28区まで増えて、地区編成は「区」から、複数の「区」を束ねた「部」となって全16部になった。
 このあたりは、神社建立期には「9区」に属していたが、区割りの変更により、現在では「15区」になっている。2000年に「60周年記念」なのだから、1940年頃に区割りが変わったという計算になる。いまは神社前の国道が9区と15区の境目になっている。
 いちばん下の台座の裏側の銘板にも名前が多数。
 
 

  

2-4 鳥居
 鳥居の寸法は縦横の比率的に、かなり「幅広」。弥広だけに。
 形状は、貫が四角柱・柱を貫通しておらず、大雑把に言えば靖国鳥居。なのだが、笠木の両端部は襷墨的に斜めにカットされているし、柱部も笠木も厳密には「円柱」ではなく多角柱。一般的な鳥居の分類からいくとアウトローな感じなのだが、まあ昭和初期の北海道の鳥居なんだし、「こまけえことはいいんだべさ」というところ。
 口伝によると、この鉄筋コンクリート製鳥居は昭和3年(1928年)建立。当時の青年団有志によるもの。
 つまり築90年以上を経過している。 
 遠目には、柱部は円柱に見えるけども、近くで見ると多角形で構成されていることがわかる。当時は円いコンクリートを打設するのは難しかったのかなあ。
 
 
 既に90年以上の歳月が経ち、コンクリートはかなり劣化しているようだ。ここは内部の砂利が見えている。
 端部はかなり欠けている。
 貫部も下側が欠けてコンクリートが一部脱落している。
 よく見ると、内部の鉄筋が露出している。

  

2-5 手水鉢
 公民館と拝殿のあいだに、石モノが2基ならんでいる。
 。
 若千鳥事西田正司
 引退記念
 昭和九年九月建之
 (1934年)
 
 これはちょっと解説がないと意味がわからないと思う。
 当地は、今は「長沼町第15区」なんだけど、昭和15年以前は「第9区」だった。で、第9区は長沼村でも相撲が強くて、第8区・第9区の連合チームは村内の相撲大会で優勝するほどだった。当時は神社境内に、手作りの土俵が有ったそうだ。
 その時代に活躍したのが西田正司氏。多くの青年は本名で相撲大会に出場していたけれど、ごく一握りのトップクラスは四股名を名乗っていて、西田氏の四股名が「若千鳥」だった。つまり「若千鳥こと西田正司」(若千鳥事西田正司)なのだ。
 奉 納 
 側面。
 なにも書いていないように見える。
 もいっちょ側面。
 なにも書いていないように見える。
 

  

2-6 石灯籠
 手水鉢の左隣りに石灯籠が一基ある。
 
 上の段、右から2番めの西田さんは、さっきの手水鉢の西田さんと関係があるに違いない。 
 
 昭和十五年 (1940年)
  十月建立
   北星支部員
     退會紀念

 これも解説を要する。「北星」というのは、当地がかつて属していた第九区の別称。
 当地は開基の明治27年(1894年)以来ずっと「長沼村第九区」に属していたのだが、昭和15年に長沼村内の地区再編があって、前面道路の北3号(現在の国道)を境界として分区された。北3号道路の南側の当地は「第十五区」として分割になった。
 そんなわけで、このメンバーは旧九区の「北星」から抜けることになり、そのときにこの石灯籠を奉納したもの。
 折しも昭和15年は紀元二千六百年でもあり、全国的に神社で記念行事や石灯籠などの奉納が盛んに行われた。
 ←  
 なにがどう「石灯籠」なのかと思うだろうが、実はこれ、昭和15年に完全体を奉納したのだが、老朽化でなんどか崩落し、それを積み直したもの。右の画像は、平成12年当時の資料に掲載されている写真を再現したもの。
 

  


 
3 境内U
3-1 社殿
 社殿は、実に北海道らしい赤いトタン屋根の寄棟造に、妻入りの入り口、ボード貼りの外壁。
 屋根の頂部の棒?的な部位がニュッと飛び出ていることを除けば、北海道のふつうの民家と見分けがつかないかも。
 
 おそらく割とどうでもいいことなのだが、この社殿の外壁のサイディングボード、正面と側面は目地が横向きに貼られているのだが、背面は目地が縦になっている。  なにか宗教的な意味があるのだろうかと考えたが、きっとたぶん無いと思う。 きっと、背面は正面や側面に較べると面積が小さいので、ボードを縦に貼ったほうがボードを裁断する回数が少なく済み、ボードも節約できるから、だと思う。。
 社殿の裏手にはオンコの木が植えられていて、赤い実がついている。

 北海道ではサカキが育たないので、代用品として神社にオンコを植えるのが一般的。オンコは、標準語では「イチイ」、古語では「アララギ」といい、英語では「Yew(ユー)」。 英国でも、教会の敷地にはオンコを植える。というのも、オンコの実の種にはアルカロイド系の猛毒があり、実を5粒飲むと死ぬ。アイヌ時代には、この実をすりおろして毒矢にしており、戦国時代末期にはオンコの毒矢を使ったアイヌ兵が東北地方に動員されて、豊臣秀吉がその威力に戦慄したという逸話が残っている。ギリシャ語では「タクソス(Taxos)」といい、英語の「有毒」(Toxic)の語源になっている。
 

  

 

3-2 地区会館
 社殿の右手前にあるイチョウの大木は、地区の名樹のひとつで、瀬輝雄さんという方が寄贈したもの。同氏は平成12年の60周年記念の台座にも名を連ねている。このほか、昭和36年(1961年)に離農する人が「社務所横」に二本松を寄贈し植樹したとあるが、ちょっとどの木なのかわからなかった。
 拝殿の目の前、ほとんど社務所みたいな位置にあるのが地区会館。
 裏手をみると広大な農地が広がっている。
 屋根は片流れ。
 これが3代目公民館。昭和51年(1976年)築(池内建設)。15区民で、一戸20,000円+所有地一反あたり800円を負担しあい、総額446万7000円で建設。
 長沼町第十五区会館
 十五区で刊行した郷土誌『弥広の里』には、初代地区会館、2代目地区会館の写真が掲載されている。
 これが「2代目地区会館」。
 いま目の前にある地区会館は、この写真とはまるっきり違っている。2代目会館は2階建て、今の地区会館は平屋建て。玄関の向きも違う。
 地区会館の鳥居と社号標も写っていて、現存の鳥居と社号標と一致しているのがわかる。
 写真でいうと、会館建物の右側に、黒っぽく地蔵堂的な小屋も見える。

  

 
3-3 倉庫?
 地区会館から、用水路を隔てた隣地(?)にコンテナが一つ置いてある。これが神社の蔵がわりなのかもしれない。
 左に写っている樹木は、たぶんこれも地区の名木のうちの一本で、瀬輝雄氏が寄贈したという赤松。その手前のオンコ(イチイ)も地区の記念樹になっている。

  


 
4 歴史
4-1 十五区史
 長沼の開基は明治20年(1887年)に遡る。
 前年の明治19年(1886年)に北海道庁が創立、「第一次植民地選定事業」が策定された。これにより、夕張川周辺の沼沢地帯への入植が決まり、その先陣をきって当地に入ったのが、長沼開基の祖とされる吉川鉄之助である。吉川が入植したのは、当時の沼沢地帯の北岸、現在の北長沼に相当する箇所だった。 その後の入植者たちにより、沼沢地帯は少しづつ排水されて開拓されていった。
 明治27年(1894年)には長沼に戸長役場が設置された。このとき長沼エリアを10の区に分け、戸長の下に、各区に「伍長」を任命して村政の補助をさせた。当地は「第九区」に所属となった。明治29年(1896年)には、これが14の「組」に再編、当地は「第7組」に属した。さらに翌明治30年(1897年)には南のポロナイ地区が加わって全15組、明治35年(1902年)には地区は20にまで増えた。
 明治39年にはこれらを再び全16部に再編成した。「木詰」地区はもともとはお隣の幌向村(現在の南幌町)に属していたけど、大正9年(1920年)に長沼村九区に編入された。
 この地図は昭和元年(1926)頃のもの。当時は「第九部」。
 西方の広大な沼沢地帯に遮られて、札幌方面への陸路はまだ繋がっていなかった。交通・運搬は、夏季は水運、冬季は馬ソリを用いた。
 「北3号」の道路は、現在の国道337号(通称「道央国道」)に相当する。北3号よりも南側の地域には、いまだ大きな沼が残っていて、それぞれ「三号の沼」または「第2タンネトウ」、「二号の沼」または「第2クンネトウ」と呼ばれていた。

 昭和5年(1930)頃の地図。九区内の道路が増え、馬追運河の南側の道路が札幌方面へ延伸した。北東側、「鶴沼」の西側の南幌方面でも道が増えている。
 昭和10年(1935年)の地図。水路・道路の整備がさらに進んでいる。
 昭和15年(1940年)に長沼村で「総合的行政区」の整備統合が実施されて区割りが再編された。第九区は3つに分割となり、北三号から南側は「第十五区」となり、木詰方面は「第二十九区」となった。なお九区は、旧八区の一部を併せて北側に1ブロック拡大、北七号までとなった。
 そしてこれが現在の区割り。第十五区の東端部が昭和15年とはちょっと違う。
 ここは、高度成長期の人口増を受けて、昭和47年(1972年)から85区画の宅地造成が行われ、昭和54年(1979年)に「あかね町区」として十五区から分割されていった地域だ。いまは住宅地と商業地域になっている。

  

4-2 弥広神社史
 弥広の郷土資料を眺めても、弥広神社の創建はあやふやではっきりしていない。
 「正確な記録」はなく、「古老による憶測」があるのみだ。なんでも、太平洋戦争終戦のときに、GHQのマッカーサー司令の命により、長沼神社にあった神社資料を償却してしまったので現存しないということだ。(その話自体がホントなのかという感じもするが。)黎明期に属していた第9区から、昭和15年(1940年)に第15区として分区したという経緯もあって、15区側に古い記録を欠くという面もあるようだ。
 口伝によると、入植者たちが大正時代の中頃に「西一線北三号」に小祠を結んだのが、この神社の濫觴だという。大正時代の末期に、これを現在の社地に遷して社殿を建立し、開拓三神(大国魂神・少彦名神・大己貴神)を奉斎したという。札幌神社(北海道神宮)から分霊したともいう。ただし、ここらへんすべて「きちんとした記録」を欠いている。

 確実な記録が登場するのは昭和6年(1931年)。開拓時代の第九区は、長沼村のなかでも相撲が盛んな地域で、昭和6年の相撲大会で優勝した。そのときの記念写真に鳥居が写っている。(その後、昭和9年(1934年)には「若千鳥」こと西田正司氏が手水鉢を奉納している。)

 古老の言うところによると、神社より先に鳥居ができることはありえないので、昭和6年時点で神社があったのは確実とのことだ。そして「昭和3年(1928年)か昭和4年(1929年)に、地元の青年団で鳥居を建立した」という話を聞いたことがあるとのことで、地区ではこれにより鳥居を昭和3年建立としている。そして、昭和3年時点で神社と鳥居があったということは、ここに神社を建立したのはこれよりも古く、「もしかすると大正以前ということもあり得る」という。
 「弥廣」という名称は、地区の末永い繁栄を祈念して、その鎮護社に相応しい名前ということで、長沼神社の社掌(菅原勝見)と地区の氏子一同で協議し決めたという。

 これは旧陸軍陸地測量部が昭和12年(1937年)4月に発行した地図。現在の社地に鳥居記号が描かれており、この時点で神社が存在した確実な証拠になる。厳密に言うとこの地図は、大正5年(1916年)に測量した図に昭和10年(1935年)に加筆したものを昭和12年に刊行したということなので、昭和10年時点で実在していたとみて差し支えないだろう。
 こちらは昭和13年(1938年)の銘がある社号標。
 この社号標により、昭和13年時点ではこの神社が「弥広神社」の名前があったことが確実となる。古老による推測では、「弥広神社」という社号を命名したのもこのときではないかという。
 まもなく昭和15年(1940年)に、第九区から第十五区を分区した。

  

4-3 年表
 この年表には、長沼町内の区割りの変遷に関する項が多数ある。複数の郷土資料を眺めると、どうもその区割りの変遷に関する年号に1年のズレがたびたびある。きっと、「決定」と「施行」みたいな感じではないだろうかと推測するんだけど、よくわからない。 
和暦 西暦 事項 一般史 情報源
嘉永 6 (1853) 7 8 ペリー来航
安政 4 (1857)         松浦武四郎が、長都沼・馬追沼を渡り、対岸ポロナイに上陸    
慶応 4 (1868)         戊辰戦争  
明治         明治天皇即位  
        箱館戦争終結    
2 (1869)         北海道開拓使設置、北海道開拓が本格化
戊辰戦争で没落した旧仙台藩系水沢藩士が北海道へ移住
 
4 (1871)         北海道神社改正(北海道内での神社行政の開始)    
19 (1886)         第一次植民地選定事業開始(長沼の開拓計画策定)    
20 (1887)         石狩地峡帯の馬追原野(北長沼)に吉川鉄之助が入植(長沼開基)    
22 (1889)         千歳村から三川・由仁への道路(千歳道路)が開削    
                     
25 (1892)         夕張郡由仁村の外村として「長沼村」設立    
27 (1894) 7 25 日清戦争勃発    
        長沼村に戸長役場を設置    
28 (1895)     村内を10区に区分け。(九区の開基)    
29 (1896) 5     村内を14組に再編成。(第七組に所属)    
30 (1897) 2     ポロナイ地区が加わり村内15組となる    
35 (1902) 4     村内を20区に再編成。    
                     
37 (1904)         日露戦争開戦  
9     二〇三高地戦  
38 (1905) 9 日露戦争終結  
                     
39 (1906)         村内を16部に編成。(第九部に所属)    
         
                     
大正 3 (1914)         第一次世界大戦勃発  
                     
7 (1918) 11 11 第一次世界大戦終結  
9 (1920) 6     幌向村(現在の南幌町)から木詰地区を長沼村第9区に編入    
大正中期           西1北3に小祠を祭祀(?)    
大正末期           西1北3の小祠を西3北3(現在地)に遷し、社殿建立、「弥廣神社」と号する(?)    
   
昭和 3 (1928)         青年団有志によりコンクリート製鳥居を建立(?)    
6 (1931)         満州事変  
7 (1932)         長沼村条例で地区の範囲を定める    
9 (1934) 9     手水鉢を奉納(現存)。(「若千鳥」引退記念)    
                     
11 (1936) 2 26 二・二六事件  
7 7 支那事変勃発  
13 (1938) 11     社号標を建立    
14 (1939) 9 1 第二次世界大戦勃発(ドイツがポーランドへ侵攻)  
15 (1940)     長沼村総合的行政区整備統合。第九区から第十五区を分割。    
        石灯籠を奉納(九区北星支部員退会記念)    
10     紀元2600年記念。    
16 (1941) 12 8 日米開戦(真珠湾攻撃)  
                     
                     
20 (1945) 5     ドイツ降伏  
8 15 日本降伏  
12     GHQの神道指令(国家神道・社格の廃止など)    
21 (1946)         神社本庁設立    
22 (1947)         長沼-札幌間にバスが運行。薪を不完全燃焼させて発生する一酸化炭素で走る。片道2時間半で運賃7円。    
23 (1948)         弥広青年会を創立。60名。    
24 (1949)         15区全戸に電灯整備    
27 (1952)         長沼村が町制施行し、長沼町となる。    
28 (1953)         温冷床による陸苗栽培が始まる    
29 (1954)         2代目十五区会館を建設(小林建設)    
31 (1956)         十戸区会館の便所を改築    
32 (1957)         境内の雑木を薪として売りに出し、1,750円で落札される    
34 (1959)         北3号線・古川に架橋    
36 (1961)         上窪博氏が離農にあたり、社務所脇に日本松を寄贈する    
38 (1963)         零号排水西五線川に自衛堤防樋門を設置    
40 (1965)         大水害。第二古川も氾濫し、第十五区でも大被害。    
        北1号西3線にあった馬頭観音を移転するも、所在不明となる    
43 (1969)         十五区民で社殿改修を行う    
47 (1972)         第十五区で住宅用地85区画(あかね町)の整備事業開始    
                     
54 (1979) 1     第十五区から「あかね町区」を分割    
58 (1983)         安島建設により弥広神社改修工事実施    
平成 2 (1990)         農作業の時期変化により、例祭日を1週間前倒す    
5 (1993)         神社・地区会館敷地が鎌田周造より寄贈される    
6 (1994)         4名連名でのぼり寄贈    
12 (2000) 9 7 第十五区60周年記念として、社号標の台座を奉納    
12     『長沼町第十五区 創立六十周年記念部落史』刊行    
                     

  

4-4 第2古川
 長沼の大部分は、湿地帯を干拓し正方形の区画を敷いたもの。そこを流れる河川のほとんどは人工的に作られた排水路だ(法令上は、河川法に基づく河川の扱いになっているものが多い)。
 自然の流路を残す河川はそう多くない。そのうち一つが15区を南北に流れる「第二古川」だ。
 長沼には「古川」という名の川が4本ある。「第1古川」、「第2古川」、「第3古川」、「第4古川」の4本。それぞれまったく別の場所を流れている。
 第2古川はこのうち最も長く、流路延長4.0km、流域面積は4.2km2。往古の夕張川の痕跡である。現在の第二古川は馬追運河に注ぐ格好になっているのだが、
 昭和10年頃の地図をみると、むしろ、馬追運河が第二古川に注ぐような格好に見える。
 「第2」と「第二」でどっちなんだと思ったけど、どっちでもいいみたいだ。
 昭和40年代頃までは、この第二古川もときどき氾濫し、15区全域の農地が水没したり民家が浸水したりする被害があった。いまの第二古川は、その大部分が河道改修され、両岸も護岸されるようになっている。
 このあたりはコーナーのインコースだけ護岸されている。
 。
 馬追運河への合流地点。水門がある。
 長沼は、もともとほぼ全域が低平な沼沢地だったので、ちょっとした増水とかですぐ河川が逆流する。なので農地を守るために水門はだいじ。 
 西二線排水樋門
 昭和三十九年竣工
  北海道
 

  


 
5  
 

  

 

  


 
6 情報
6-1 諸元
名称 名称 弥廣神社
異表記 弥広神社 
誤表記 弥候神社
所在 経緯度 北緯 043 度 01 分 04.40秒
東経 141 度 40 分 15.80秒
地名地番 北海道夕張郡長沼町 西3線北3
旧表記
郵便番号
現住所 北海道夕張郡長沼町 西3線北3
電話
祭神 主祭神 開拓三神(大国魂神・大己貴神・少彦名神)
祭神
注記
起源
社史 創建 不詳、大正中期頃?
公認
境内 面積
社殿 本殿
幣殿・拝殿
備考
摂末社 末社
境内社
社格 旧社格
祭礼 春 祭 4月14日→4月7日
例 祭 9月14日→9月7日
新嘗祭
備考 かつては祭典余興として青少年花相撲、青年素人演芸会、映画会、盆踊りを開催していた。
氏子 世帯数
崇敬者数
注記
文化財 史跡
史跡
交通   JR北海道・千歳線「北広島」より約13.3km(車27分)
  バス停「西3線」より250m(徒歩4分)
情報源  
『北海道神社庁誌』 1999
『長沼町の歴史』上・下 1962
『長沼町九十年史』 1977
『ながぬま一二〇年のあゆみ 長沼町開基120年記念』 2007
『日本歴史地名大系1』 2003
『角川日本地名大辞典』 1987
『長沼町第十五区 創立六十周年記念部落史』 2000

  

6-2 リンク
サイト 題名 リンク 日付
       
北海道の神社巡り kaeru no uta 弥候神社(長沼町) 2017/09/03
石屋の神社探訪 轄a口石材工業 弥候神社 2019/05
北海道の神社   ☆弥候神社(長沼町)☆ 2019/07/13
神社お寺御朱印巡り 弥候神社(弥廣神社)(北海道夕張郡長沼町西) 2021/08/31
       
       

  

6-3 参考文献
書名 刊行年 編著 出版 備考
『北海道神社庁誌』 平成24 1999 編:北海道神社庁誌編輯委員会 北海道神社庁  
『角川日本地名大辞典1北海道』
上下巻
昭和62 1987 編:「角川日本地名大辞典」編纂委員会 角川書店
『日本歴史地名大系1北海道の地名』 平成15 2003 編:平凡社地方資料センター 平凡社  
           
『長沼村史』 大正05 1916 著:太枝連蔵 長沼村  
『長沼村史』 昭和11 1936 編:長沼村史編纂部 長沼村  
『長沼町の歴史』
上下巻
昭和37 1962 編:長沼町史編さん委員会 長沼町  
『長沼町九十年史』 昭和52 1977 編:長沼町史編さん委員会 長沼町  
           
『長沼町第十五区 創立六十周年記念部落史』 平成12 2000 編:長沼町第十五区創立六十周年記念部落史編集委員会 長沼町第十五区  
           
「地神碑に祀られる神々」 平成11 1999 著:池川清 池川清  
「ながぬま 記念碑・顕彰碑・史跡等解説一覧」 平成20 2008 編:長沼町教育委員会 長沼町  
           
           
             
 
 

  


 
 

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