北海道 石狩國
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 いなり
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北海道神社本庁包括外
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稲荷神社
 
空知地方 夕張郡 長沼町 第九区
九区 
 ここ、長沼町の北西部、夕張川沿いに位置する第九区はもともと、大資本の農場として開拓の先鞭がつけられた。そうした農場に相応しい農業神を奉斎するため、京都の伏見稲荷大社から分霊を勧請して創建された。その由緒正しさゆえに、ちいさな稲荷社ながら、長沼町外からも参拝者があるという。
参拝日 令和03年(2020)11月03日 作成日 令和03年(2021)11月05日 修正日 令和05年(2023)11月23日
所在地 北海道 夕張郡 長沼町 字 西4線北4号
                   (長沼町九区)
旧社格 北海道神社本庁包括外(未公認神社)
主祭神 宇迦之魂神
神社史 大正 6年(1917年) 創建
境内 994.90u(300坪)
社殿 拝殿・保護社殿、本殿
施設 集会所・直会所
文化財 馬頭観音、地神碑
神職 無住
旧称異称 正一位 稲荷大明神
マルタケ神社
 
基本情報
概観
鎮座地
略年表
祭神
神紋
御朱印
 
 
境内T
境内略図
一の鳥居
二の鳥居
由緒記
 
 
社殿
鬼瓦
社殿
神額
集会所・直会所
 
 
 
境内U
地神碑
馬頭観音
 
 
第九区史
九区を拓いた新潟県人
 
 
 
 
情報
諸元
リンク
参考文献
 
 
 
 
 
 
1 基本情報
1-1 概観
 長沼町の北西部に位置する第九区。
 その辻、東南角地に東面して稲荷神社がある。
 

  

1-2 鎮座地
所在地
現表記 北海道 夕張郡 長沼町   西4線北    
旧表記 石狩国 夕張郡 長沼村 字  西4線          
座標
緯度 北緯 43 01 35.18
経度 東経 141 39 53.23
標高 9.1m
住宅地からの比高 およそ±0メートル
地図リンク

  

1-3 略年表
和暦 西暦 地域史
明治 35 (1895) 長沼村を全10区に区分け。当地は第九区に属す
44 (1911) 池田男爵農場の開基
大正 2 (1913) 農場が斎藤末吉に譲渡されマルタケ斎藤農場となる
6 (1917) 農場が斎藤甚之助に譲渡
稲荷大明神を創建

  

1-4 祭神
位置付 神号 よみ 神徳 備考
主祭神 宇迦之魂神 うかのみたまのかみ 穀物の神
 宇迦之御神(古事記「宇迦之御魂神」、日本書紀「倉稲魂命」)は、穀物や食物の神様で、いわゆる稲荷神・農業神で、伏見稲荷の主祭神。「ウカ」「ウケ」は古語の穀物・食物を意味する語。
 『古事記』ではスサノオと神大市比売との娘。『日本書紀』第六の一書では、イザナギ・イザナミが飢えたときに生まれる。どちらの書でも名前が記されるだけで、その後の事績については何も言及がない。

  

1-5 神紋
束ね稲
 「 

  

1-6 御朱印
 
不明 
 

  


 
2 境内
2-1 境内略図
区分 西暦 和暦 説明 奉納者 備考
@ 鳥居 1992 平成 4年 9月 9日 明神鳥居  
A 鳥居  
B 由緒書 1992 平成 4年 9月 9日 平成18年4月15日追書  
C 地神碑 1923 大正 12年 9月 22日   
D 馬頭観音 1944 昭和 11年 9月   北部実行組合一同  
拝殿 1992 平成 4年 9月 9日
  保護社殿 1992 平成 4年 9月 9日    
本殿 1917 大正 6年 9月 9日
集会所  
 平成7年(1995年)刊行の『長沼町第九区百年史』に掲載されている境内図と比べると、樹木の位置や数が異なっている。

  

2-2 一の鳥居
 。
 明神鳥居。真っ赤に塗装されている。平成4年(1992年)9月9日に建立のもの。
 鳥居の左右にあるΠ。西部劇とかで、馬に乗ってきた人がここで下馬して手綱を結びつけておく的な?
 名称がわからない・・・ 内地の神社の参道では、牛車止め/車止め的なものだったりするけれど、この状況では、ここに車止め設置してもその脇から入り放題だし・・・
 額束の裏側になにか銀色の金属プレートが留めてある。
 「H499」「YASUI」。
 この鳥居は、平成4年(1994年)に社殿を建て替えたときに、第七区の安居信常氏が奉納したもの。「YASUI」はこれを指しているのだろう。
 H499は製造番号かな?
 

  

2-3 二の鳥居
 神社ではさきほどの鳥居を「第一鳥居」と称している。べつにいいんだけど、わざわざ「一の」と呼ぶからには二の鳥居とかもあってほしい。が、境内にはそれらしきものは見当たらない・・・い?
 ざわ・・・
 この、社殿の庇を支えるような柱が・・・鳥居・・・?
 これが二の鳥居か!?
 

  

2-4 由緒記
 社殿の前に、由緒書が設置されている。
 きちんとガラスで保護されていて、風雨に耐えられるようになっている。

稲荷神社

御祭神 正一位 稲荷大明神 宇迦之魂神
例祭 九月九日
社殿 本殿 保護社殿 幣殿 
社紋 束ね稲
境内 九九四・九〇平方米
由緒
此の地は明治四十四年頃天皇の侍従医であった新潟県人男爵池田謙齊の
所有地であったが夕張川に接近したる低地帯である為例年の如く
水害を受け農作物に大被害を及ぼし小作人は困苦に耐へ開墾を進めて
来たが大正二年福井県仁斎藤末吉が買受け斎藤農場となる
後大正六年に斎藤甚之助に渡る。小作人戸数は二十数戸管理人は
廣田廣吉であった。この農場は通称農場として知られ斎藤甚之助に
移譲後は廣田廣吉後山中勝次郎が管理人として農地開放まで存続した。
現在祀られている稲荷神社は大正六年九月九日御本殿並に保護社殿、弊社
殿が斎藤甚之助と其の小作人一統により水の災いを防ぎ五穀豊穣を
祈念して創建されたもので京都の伏見稲荷大社の御分霊を奉斎し創祀された。
終戦後農地開放と共に農場が解散し九区部落として奉斎する事と
なった。平成四年七月七日御託宣による御本殿の嵩上工事に伴ない保護
社殿並に幣殿の改築と境内整備に着手氏子並に崇敬者の奉賛の
誠をもって同年九月九日保護社殿並に幣殿が造営され記念事業と
して第一鳥居が奉建された。尚境内敷地については昭和五十一年道営
圃場整備事業実施に伴ない斎藤甚之助の孫により譲渡を受け長沼
神社の敷地として奉納した。
例祭については農業事情の変化に伴ない他産業えの就労も多く区民より
大勢参加が出来る祭典日を設定すべきとの提言により長沼神社宮司
と協議平成十六年度より総会の決議を得て歴史にこだわらず
当該年度で日程を定める事とした
  平成四年九月九日
平成十八年四月十五日追書
  朝口祥石謹書
 「平成18年」に追書したとあるが、いま掲示されているものは、平成4年の由緒書を平成18年に書き直したもの。平成7年刊行の『長沼町第九区百年史』には、平成4年当時の由緒書が掲載されている。
 両者を見比べると、文字のサイズなどが違うほか、旧由緒書本文では「記念事業として第一鳥居が奉建された」で終わっている。それに続く「尚境内敷地については・・・」以後は平成18年に書き足された部分。
 「朝口祥石」というのは、きっと地元の書家の雅号だろう。
 庇もちゃんとした造り。
 
 

  


 
3 社殿
3-1 鬼瓦
 これが社殿。北海道の開拓地の神社の場合、社殿を古典的・伝統的な様式分類を当てはめるのは無理がある。現地の建築業者が、限られた予算のなかで、厳しい風雪に耐えうる様式を追求した結果なのだ。
 どえらい立派な鬼瓦。
 城砦にでもついてそうな重厚さ。
 ふつうに考えてこれが神紋だろう。由緒書には単に「束ね稲」と書かれていたけれど、ふつうに「束ね稲」というと↓こんな感じ↓の図案のはずだ↓
↓これ↓は「変り抱き稲の丸」という紋。細部の違いはあるけれど、これが正解のようだ
 

  

3-2 社殿
 あらためて拝殿。
 南側から見るとこういう感じで、なにかいろいろ折衷した感じ。由緒書によると「本殿」「保護社殿」「幣殿」があるということになっている。
 きっと多分、いま見えている建物は「保護社殿」で、この建物の中に「本殿」と「幣殿」があるはず。
 北側はこう。窓がないというのが南面との違い。鳥居を見ないふりすると、ほとんど北国のロッジみたいな外観。
 これが裏側。換気口が2つあるだけ。由緒書に、平成4年(1992年)に本殿のかさ上げ工事をやったとあるけども、この保護社殿をいくら眺めても、なかの本殿のことはわからないのだ。

  

3-3 神額
 なかなか立派な神額。
 鈴。
 賽銭箱はなかにしまわれていた。

  

3-4 集会所・直会所
 社殿の右隣に小屋が一軒立っている。『長沼町第九区百年史』によると、これは「集会所並に直会なおらい所」。
 煙突。
 外壁の板の貼り方が、正面・南側が縦、建物の右サイド(北側)・西側が横になっている。赤く塗られた横板貼りの部分は、板1枚の厚みぶんだけ内側に引っ込んだようになっていて、赤い塗装もあってガンダムのコアファイターみたいな感じ。ここだけ建物をスライド収納したみたいになっている。
 北面。相当な築年数を経過しているような印象。
 2個のドラム缶は、なにかつっかえ棒みたいに赤い部分を支えているみたいな感じになっている。
 長年風雪に耐えてきた感じがでているなあ。
 南面。

  


 
4 境内U
4-1 地神碑
 社殿の脇に石碑が2基。
 こちらは地神碑。五角形。 
1 天照皇大神 2 大國主大神 3 少彦名大神 4 天御中主大神 5 産土大神
         
 大正十二年九月廿二日
 有志一同 
 文字は「大正12年(1923年)9月22日」と彫ってあるのだが、『地神碑に祀られる神々』によると、地神碑を建立したのは大正12年10月だという。
 当時は、現在地から2.8kmほど北東、西2線北8号に建てられており、「第8区」に属していた。
 昭和15年(1940年)の大政翼賛会の地方施策の一環で、地区の再編成が実施されることになり、翌昭和16年(1941年)に1区あたり約70戸とする「総合的行政区画整備統合」が施行、第8区と第9区の区割りが変わった。いままで第8区に属していた住民の多くが第9区に所属することになったのだが、第8区には薬師堂や地神碑があるのに、新・第9区には地神碑がない。そこで住民間で話をつけて、西2北8にあった地神碑を新・第9区に遷して祀ることになった。このときの設置場所は、世話人の川口豊次郎氏の自宅前、西2線北6号となった。
 太平洋戦争がおわり、GHQによって財閥解体と農地解放政策によって、当地のマルタケ農場も解体された。これにより、旧マルタケ神社が稲荷神社に生まれ変わり、あわせて地神碑も稲荷神社境内に遷すことになった。こうして川口家の承諾を得て、いまの場所に移動となった。

  

4-2 馬頭碑
 隣には馬頭観音。(『長沼町第九区百年史』では「馬頭碑」と表現されている。)
 北海道の開拓地では、どこでも昭和40〜50年代までどこの開拓農家にも馬がいた。(いまでもばんえい競馬にその文化が遺っている。) 
   
 長沼町の記録では、町内の馬の頭数は、明治35年(1902年)に433頭、大正10年(1921年)に1357頭、大正15年(1926年)で2214頭となっている。開拓が進むとともに馬が爆発的に増えていったことがわかる。トロッターやサラブレッドなどの先進的な乗用種も導入され、明治時代には競馬場もできた。とくに日中戦争(支那事変)が始まると、軍馬の産地として知られるようになった。
 戦後も馬は増え続け、昭和27年(1952年)には2775頭を数えている。
 だが昭和30年代半ばから、農業にも機会が導入されるようになって、馬の数は急速に減り始めた。昭和42年(1967年)には1418頭、昭和45年(1970年)は541頭、昭和50年(1975年)には148頭となった。  
 第九区
 北部實行組合一同 
 昭和拾壱年九月建之
 (1944年)
 長沼 田中石材店 
 この馬頭観世音は、毎年7月2日に供養を行っており、本行寺が斎行している。  

  

4-3 年表
 この年表には、長沼町内の区割りの変遷に関する項が多数ある。複数の郷土資料を眺めると、どうもその区割りの変遷に関する年号に1年のズレがたびたびある。きっと、「決定」と「施行」みたいな感じではないだろうかと推測するんだけど、よくわからない。 
和暦 西暦 事項 一般史 情報源
嘉永 6 (1853) 7 8 ペリー来航
安政 4 (1857)         松浦武四郎が、長都沼・馬追沼を渡り、対岸ポロナイに上陸    
慶応 4 (1868)         戊辰戦争  
明治         明治天皇即位  
        箱館戦争終結    
2 (1869)         北海道開拓使設置、北海道開拓が本格化
戊辰戦争で没落した旧仙台藩系水沢藩士が北海道へ移住
 
4 (1871)         北海道神社改正(北海道内での神社行政の開始)    
19 (1886)         第一次植民地選定事業開始(長沼の開拓計画策定)    
20 (1887)         石狩地峡帯の馬追原野(北長沼)に吉川鉄之助が入植(長沼開基)    
22 (1889)         千歳村から三川・由仁への道路(千歳道路)が開削    
                   
25 (1892)         夕張郡由仁村の外村として「長沼村」設立    
26 (1893)         新潟県・志村成陽が夕張川付近(のちの九区)に入植し志村農場を興す    
27 (1894) 7 25 日清戦争勃発    
        長沼村に戸長役場を設置    
28 (1895)     村内を10区に区分け。(九区の開基)    
29 (1896) 5     村内を14組に再編成。(第七組に所属)    
30 (1897) 2     ポロナイ地区が加わり村内15組となる    
35 (1902) 4     村内を20区に再編成。    
                     
37 (1904)         日露戦争開戦  
9     二〇三高地戦  
38 (1905) 9 日露戦争終結  
                     
39 (1906)         村内を16部に編成。(第九部に所属)    
44 (1911)         池田謙齊男爵の農場開基、志村農場の治水策を承継  
大正 2 (1913)         農場を斎藤末吉に譲渡、マルタケ斎藤農場となる    
3 (1914)         第一次世界大戦勃発  
6 (1917)         農場が斎藤甚之助に譲渡される    
9 9 マルタケ神社創建 京都伏見稲荷大社から「稲荷大神」を分霊
稲荷大明神 本殿・保護社殿・幣殿を整備 
   
7 (1918) 11 11 第一次世界大戦終結  
12 (1923) 9 22 地神宮建立(西2北8)    
                     
昭和 3 (1928)            
6 (1931)         満州事変  
7 (1932)         長沼村条例で地区の範囲を定める    
                     
11 (1936) 2 26 二・二六事件  
7 7 支那事変勃発  
(1936) 9     馬頭観世音を建立    
9 1 第二次世界大戦勃発(ドイツがポーランドへ侵攻)  
15 (1940)     長沼村総合的行政区整備統合。第九区を分割再編。    
        地神宮を西2北6へ移設    
10     紀元2600年記念。    
12 8 日米開戦(真珠湾攻撃)  
                     
                     
20 (1945) 5     ドイツ降伏  
8 15 日本降伏  
12     GHQの神道指令(国家神道・社格の廃止など)    
21 (1946)         神社本庁設立    
27 (1952)         長沼村が町制施行し、長沼町となる。    
           
51 (1976)         圃場整備事業実施。斎藤家より敷地の譲渡を受け、長沼神社の所有地として登記。    
                     
                     
平成 4 (1992) 6 11. 仮遷宮祭執行。集会所を仮宮とする。    
24 旧社殿の解体工事着手    
7 7 地鎮祭・本殿嵩上げ    
8 9 上棟祭    
9 8 竣工祭・新宮遷座祭    
9 9 秋季例大祭・新社殿落成式典
第一鳥居奉建
   
                     

  


 
5 第九区史
5-1 九区を拓いた新潟県人
 
 いまの長沼町は、北海道庁の第一次植民地選定事業により、明治20年(1887年)に吉川鉄之助が北長沼に入植したのが始まりだった。その3年後の明治23年(1890年)に、新潟県から平田類右エ門が長沼開拓を志して北長沼へ入植した。
 平田家は、新潟県北蒲原郡中城町村松浜(現在の胎内市村松浜)の豪農、平野家の分家筋だが、本家に劣らない豪農だった。江戸時代までは「平野」姓だったが、明治維新に際して「平田」姓に改めて本家から離れ、北の大地の開拓で一旗揚げようと明治19年(1886年)に北海道に移住した。
 平田農場内には大きな沼地があり、「長い沼」を意味するアイヌ語で「タンネ・トー」と呼ばれていた。明治25年(1892年)、北海道庁が一帯の村名を決めるにあたり、平田は新村名として「タンネ・トー」を和訳した「長沼」を提案し、これが採用されいまの「長沼町」となった。
 平田農場の入植に喚起され、続いて新潟県からの入植者が現れた。これが第九区開拓の祖、志村農場である。
 平田農場を拓いた平田家は、新潟の農村の豪農だったとはいえ、自ら開拓労働に従事した。しかし10年ほど開墾に苦しんだ末に、土地を売って撤退した。
 これに対して、志村家は大資本を以て夕張川沿いの未開地53万坪を借受け、富山県を中心に30戸ほどの小作人を募り、開拓に従事させた。志村家は新潟県中蒲原郡村松町の出自で、家祖は越後国・村上城の城主、堀丹後守直寄の家臣だったという。その8代目当主の志村成陽は、明治維新に際し、若松県・若松第三十一銀行支配人、新潟第四国立銀行の支店支配人を務めて資本家となった。彼は新潟や小樽で共同出資者を募り、長沼に「志村農場」を拓いた。
 ― 太平洋戦争後のGHQの「農地解放」によって小作農が解放されて自作農となるわけだが、このときの政策では、「自ら土着して農業に従事する者でないかぎり、農地の所有者になれない」という法的制約ができた。これがいわゆる小作農禁止ということなんだけど、この制約は、裏を返せば大資本の農業参入の障壁となって、日本の農業の近代化や大規模化・合理化の妨げとしても作用し、昭和から平成にかけて日本の農業が外国との国際競争に敗退する原因になるのだから、世の中は難しい。(この制約は平成時代に撤回されて、いまは大資本による農場経営が可能となった。)
 志村農場では夕張川沿いの湿地帯を開拓するため、排水路・用水路を建設した。計画は明治30年(1897年)に立案され、完工にこぎつけたのは四半世紀を過ぎた大正14年(1925年)のことだった。その頃にはすでに志村農場では2度の代替わりを経ていた。
 平田農場と志村農場は、開拓に「おおいに成功した」とは言い難い状況だった。当時の道庁の方針では、開拓者に未開の土地を貸与し、見事開墾を成功させればその土地はそのまま無償で下げ渡すが、開墾に失敗すれば土地は返還させるというものだった。道庁による成功検査の結果、平田農場は土地の半分を返還せざるをえなくなり、志村農場は土地の半分を返還、残る半分を売却して撤退することになった。
 彼らが開墾に成功しなかったのは、夕張川と低湿地帯が毎年引き起こす水害が原因だったという。
 新潟県から、志村農場に続いて入植したのが、新潟県南蒲原郡中之島町西野(現在の長岡市西野)の池田謙斎男爵である。男爵は「日本の近代医学の祖」とされる偉人だった。
 幕末生まれの池田男爵は、幼少から漢学・蘭学・剣術を修めた。家柄は低かったが、その能力を認められて江戸で医師となり、明治維新に際しては官軍の医師として戊辰戦争に従軍した。その後、プロイセンのベルリン大学に留学し、陸軍軍医監、東京医学校校長、東京大学医学部初代綜理などを歴任、日本初の医学博士となる。その功績で男爵位を授けられて華族となり、西南戦争や日清戦争でも軍医を務めた。
 池田家は、明治43年(1910年)に長沼の開拓地の農場経営に乗り出すと、志村農場による水利事業を継承、遂に第九区を水郷地帯へと変遷させた。新潟の池田家があった中之島は、信濃川と支流の渋海川が合流する中洲だった。氾濫原で土地は低く、毎年のように洪水に襲われ、「水害の名所」と呼ばれていた。池田家はその地から北海道の新天地を目指したわけだが、やってきた長沼は郷里とかわらぬ氾濫地帯だった。だが、彼らが故郷で経験してきた水害対策が、開拓の役に立ったとも伝わる。
 池田男爵は2年で農場を斎藤末吉へ売却、これにより大正2年(1913年)に「マルタケ農場」と名前が変わった。さらに大正6年(1917年)にはオーナーが斎藤甚之助に変わった。

  

5-2 神社史
 
 神社の創建は大正6年(1917年)9月9日である。このときはマルタケ農場にあったから「マルタケ神社」と呼ばれたそうだ。祭神は、きちんと京都・伏見稲荷大社から分霊を勧請したということで、開拓地としては「非常に由緒正しい」稲荷神社ということになった。太平洋戦争が終わって農地解放が行われたことでマルタケ農場は消滅、神社名も正式に「稲荷神社」となった。
 第九区には地区会館がなかったので、神社の社殿がそのまま地区会館も兼ねていた。独立した地区会館ができたのは昭和37年(1962年)のことだった。『長沼町九十年史』(1977年)には、稲荷神社の旧社殿の写真が掲載されている。社史では大正6年(1917年)以降、社殿の建替えに関する情報がないので、おそらくこれが創建時の社殿なんだろう。 
 なんとなーく、いまの社殿の隣にある「集会所・直会所」は、この初代社殿を流用しているのではないかなあと思う。この旧社殿は、屋根はウロコ貼り、壁板は横貼り、正面入口の左右に窓があり、いまの集会所とは全部違うんだけど、そこらへんはリフォームだよ・・・。 
 平成に入っても社殿はそのまま、築75年あまりとなり、風雪に耐えてきた社殿も老朽化が烈しかったという。平成4年(1992年)、札幌に住んでいる氏子のもとに建替えを促す神のお告げがあったという。折しも、町の神社を総括する長沼神社の宮司からも、地区へ社殿をそろそろ改築してはどうかという提案があり、第九区で臨時総会を開催して建替えを決議した。請け負ったのは「萩工務店」。社殿そのものは230万円、そのほか境内整備やさまざまな祭事など総工費は375万円あまりだった。
 遷宮、解体工事を経て、工事は7月7日に着工した。本殿の嵩上げや新鳥居の建立も実施したそうだ。9月9日に落成遷座式では、幼稚園児を招いて餅まきをやったそうだ。

  

  


 
6 情報
6-1 諸元
名称 名称 稲荷神社
通称
旧称 正一位 稲荷大明神
所在 経緯度 北緯 043 度 01 分 35.18秒
東経 141 度 39 分 53.23秒
地名地番 北海道夕張郡長沼町 西4線北4号
旧表記
郵便番号
現住所 北海道夕張郡長沼町 西4線北4号
電話
祭神 主祭神 宇迦之魂神
祭神
注記 京都・伏見稲荷大社から分霊勧請
起源
社史 創建 大正6年(1917年)
公認
境内 面積 994.90u
社殿 本殿(流造)
幣殿
保護社殿
面積
落成 平成4年(1992年)9月9日
総工費 3,754,490円
施工 萩工務店
摂末社 末社
境内社
社格 旧社格
祭礼 春 祭  
例 祭 9月9日
新嘗祭
馬頭観音祭 7月2日 
氏子 世帯数
崇敬者数
注記
文化財 史跡
史跡
交通   JR北海道・千歳線「北広島」より約12.6km(車26分)
道央自動車道(E5)「江別東」ICから約12.4km
  バス停「西4線」より640m(徒歩8分)
情報源  
『北海道神社庁誌』 1999
『長沼町の歴史』上・下 1962
『長沼町九十年史』 1977
『長沼町第九区百年史』 1991
『日本歴史地名大系1』 2003
『角川日本地名大辞典』 1987

  

6-2 リンク
サイト 題名 リンク 日付
ぴかりんの頭の中身 【社】稲荷神社(長沼・九区)  2011/07/06
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6-3 参考文献
書名 刊行年 編著 出版 備考
『北海道神社庁誌』 平成24 1999 編:北海道神社庁誌編輯委員会 北海道神社庁  
『角川日本地名大辞典1北海道』
上下巻
昭和62 1987 編:「角川日本地名大辞典」編纂委員会 角川書店
『日本歴史地名大系1北海道の地名』 平成15 2003 編:平凡社地方資料センター 平凡社  
           
『長沼村史』 大正05 1916 著:太枝連蔵 長沼村  
『長沼村史』 昭和11 1936 編:長沼村史編纂部 長沼村  
『長沼町の歴史』
上下巻
昭和37 1962 編:長沼町史編さん委員会 長沼町  
『長沼町九十年史』 昭和52 1977 編:長沼町史編さん委員会 長沼町  
『長沼町第九区百年史』 平成07 1995 編:長沼町第九区百年史編集委員会 長沼町第九区  
「地神碑に祀られる神々」 平成11 1999 著:池川清 池川清  
「ながぬま 記念碑・顕彰碑・史跡等解説一覧」 平成20 2008 編:長沼町教育委員会 長沼町  
           
           
             
 
 

  


 
 

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