北海道 石狩國
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 にしながぬま
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北海道神社本庁包括外
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西長沼神社
 
空知地方 夕張郡 長沼町 西長沼
西長沼
 昭和11年(1936年)の夕張川の大規模なルート変更によって、夕張川と千歳川の合流部に広がる低湿地帯へ入植がはじまった。もともとは「9区」の辺境地区フロンティアだったのが、人口が増えて分区独立、いまは28区・29区・30区の鎮守として崇敬されている。かつてこの付近には「キナチャウシ草が多くある沼」という水域があり、開拓時代に「鷺沼」と呼ばれるようになった。今でも一帯を「鷺沼」と通称し、当神社も「鷺沼神社」とも呼ばれる。鷺沼は昭和60年代まで現存したようだが、今は完全に排水干拓されて消失した。
参拝日 令和03年(2020)12月06日 作成日 令和03年(2021)11月07日 修正日 令和05年(2023)11月19日
所在地 北海道 夕張郡 長沼町 字 西7線南3号
                   (長沼町三十区)
旧社格 北海道神社本庁包括外(未公認神社)
主祭神 開拓三神(大国魂神・大巳貴神・少名彦名神)
神社史 昭和16年(1941年) 2月 創建
昭和43年(1969年) 8月 拝殿新築
昭和62年(1987年)10月 移転新築
平成 6年(1994年)11月 移転改築
境内
社殿 拝殿・幣殿・本殿
施設
文化財 顕彰碑・地蔵尊
神職 無住
旧称異称 鷺沼神社、長沼神社遥拝所
 
基本情報
概観
鎮座地
略年表
祭神
神紋
御朱印
 
 
境内T
アプローチ
境内略図
鳥居
社号標
石灯籠
手水舎
*おおっと*
 
 
境内U
社殿
顕彰碑
地蔵
 
 
 
歴史
西長沼開基
28・29・30区
鷺沼
2度の遷座
年表
 
 
周辺
寺院
公民館
学校
 
 
 
 
 
情報
諸元
リンク
参考文献
 
 
 
 
 
 
1 基本情報
1-1 概観
 長沼一帯はもともと沼沢地で、水鳥や渡り鳥の王国だった。明治の中頃から入植者たちが入り、湿地帯の北辺と東辺から干拓をして開墾をしていった。奥地の西長沼方面が拓かれるのは、昭和12年頃に夕張川の流路変更が完工してからだった。
 西長沼の開拓者たちにとって、長沼村の中心部にある村社・長沼神社はいささか遠く、遥拝所としての神社を建立した。これが西長沼神社だ。
 低湿地を開拓したとはいえ、その後も一帯は水害になやまされた。何度か排水路の改修が行われ、社殿も何度か遷座し建て替えられている。
 

  

1-2 鎮座地
所在地
現表記 北海道 夕張郡 長沼町   西7線南    
旧表記 石狩国 夕張郡 長沼村 字  西7線          
座標
緯度 北緯 42 59 57.17
経度 東経 141 37 49.85
標高 7.1m
住宅地からの比高 およそ±0メートル
地図リンク

  

1-3 略年表
和暦 西暦 地域史
明治 35 (1895) 長沼村を全10区に区分け。当地は第九区に属す
昭和 3 (1928)
13 (1937) 第九区から第二十九を分割独立
15 (1939) 西長沼(28・29・30区)で西長沼神社を創建
43 (1969) 神社拝殿を新築
62 (1987) 水路改修工事により、社殿を移転新築する

  

1-4 祭神
位置付 神号 よみ 神徳 備考
主祭神 大國魂神 おおくにたまのかみ 開拓三神の1柱
主祭神 大己貴神 おおなむちのかみ 開拓三神の1柱
主祭神 少彦名神 すくなひこなのかみ 開拓三神の1柱
 開拓三神とは、明治のはじめに北海道開拓が始まるときに、明治天皇の勅命で「開拓地の神」として奉斎された3神の総称。北海道神宮の主祭神であり、北海道各地に新たな神社が創建されるときに、北海道神宮からこの3神を分霊して祭神とすることが多く、そうした神社を「開拓神社」と俗称する。この3神は、大国魂神・少彦名神・大己貴神である。 
 大国魂神は、「国」「国土」を神格化したもので、「国霊」ともいう。
 大己貴神は、出雲神話に登場する人物神で、「因幡の白兎」から「国譲り」までの主人公である。記紀では「大己貴命」などと表記する。各地の神社や郷土資料などでは、ときどき「己」を「巳」とする異表記がみられる。異表記というかほぼ誤字ではないかという気がするけれど、でもまあちょくちょくみるのだ。
 少彦名神は、大己貴神の国造りを補佐した人物神。渡来人を神格化したものと考えられている。スクナヒコナを「少彦名」と書くこともあれば、「少名彦名」と書くこともある。

  

1-5 神紋
左三つ巴※
 「西長沼神社の御神紋は左三つ巴です」と明言した資料は未発見。
 だけど、拝殿の内外の垂れ幕などに左三つ巴が描かれているので、きっとこれ。(ただ単にポピュラーな紋章なので市販品に描かれているだけ、という可能性もあるな・・・) 

  

1-6 御朱印
 
不明 
 

  


 
2 社頭
2-1 アプローチ
 札幌から長沼中心市街を経て夕張までを一本で結ぶ道道3号「札幌夕張線」、通称「札夕線」。ナンバーが3とすっごい若いことからも、この道路の重要性がわかる。
 札幌中心部から30分ほど。
 札幌から28km地点。
 
 長沼に向かって進行方向左手に西長沼神社の境内が広がる。
 この道路で札幌から西へ向かうと、町境になっている千歳川を渡って長沼町に入るとまもなく、西長沼のバス停。
 このあたりは石狩平野のド真ん中。石狩湾からこっち40kmほど、まったく低平な土地が続いているため、めちゃくちゃ風が強い。冬は地吹雪がどえらいことになる。だからバスの待合室もしっかり作られている。
 このバス停の目の前が西長沼神社。もう社殿がすぐそこに見えている。
 ただし「正門」から入りたければ、ぐるっと回り込む必要がある。このあたりの農地の排水路の整備のため、神社や鳥居は昭和62年(1987年)に現在地へ移設された。その前までは、さきほどのバス停の近くに鳥居があったそうだ。
 正面にまわると、鳥居から一直線の参道の先に社殿が見える。
 

  

2-1 境内略図
区分 西暦 和暦 説明 奉納者 備考
@ 鳥居  
A 社号標 1986 昭和 61年 12月 吉日 西長沼神社 鞄多基組
長沼酪苑観光
谷川産業
 
B 石燈籠    
C 石燈籠    
D 手水舎   奉納 長沼農協西支所  
拝殿 1994 平成 6年 11月 13日 中山工務店
  幣殿 1994 平成 6年 11月 13日    
本殿 1994 平成 6年 11月 13日
E 顕彰碑 1976 昭和 51年 9月 吉日  山田金一郎顕彰碑  
F 地蔵 1969 昭和 44年 6月   延命地蔵尊 西長沼交通事故防止協会
小林石材店
 

  

2-2 鳥居
 参道、車止めの少し先に鳥居が見える。その手前の両側には鉄パイプみたいのが2対4本生えている。きっとお祭りのときとかにはここに旗が立つのだろう。
 奥側はH鋼。
 鳥居はシルバー色。
 形式は「貫」が四角いので靖国鳥居だ。
 奉納年を示すような文字は見当たらなかった。
 

  

 
2-3 社号標
 鳥居の右脇に石製社号標が立っている。
西長沼神社
 長沼町長 村山敏文 謹書
寄贈者 株式会社 日多基組 
  長沼酪苑観光株式会社
  谷川産業株式会社
  昭和六十一年十二月吉日
 この昭和61年(1986年)というのは、先に書いたように、水路改修のため社殿や鳥居を移す前年。たぶん遷座に先立つ祭礼とかに際してこの社号標を奉納したのだろう。寄贈者の3社のうち、「日多基組」は長沼中心市街に現存し、道路や河川などの土木工事を請け負う企業のようだ。北海道の公共工事の「工事成績評定ランキング」上位にその名が見える。真ん中の「長沼酪苑観光」は、現在の社殿を築造した建築会社。「谷川産業」はちょっとよくわからないが、ググった感じでは同名の企業が長沼市街地にあった。おそらく当時の神社移転事業にかかわった会社だろう。
西
 
 

  

2-4 石灯籠
 鳥居をくぐった先、参道の両側に石燈籠一対が置かれている。
 石の角がカッチリしてるし、苔が生えた感じもなく、割合に新しいもののように見える。
 目が利く方ならば、これが「白御影石」とかわかるんだろうけども、私にはサッパリ。なんなら、実は石目調のプラスチック製ですとか言われてもわからん。  
西
 社殿に向かって右側の石燈籠
 行灯部には電球と電線が見えている。
 電線は地中へ
 台座の下2段をよく見ると、中心から上下左右対称となる位置に白い●がある。
 この●に嵌め込まれているキャップが外れ、なかの孔が見えている箇所があった。そう、この台座2段は、「石」ではなく「コンクリート」なのだ。この●孔はコンクリートをかたちづくるための型枠を取り付けたり、あとで運ぶときの持ち手を取り付けたりするための穴だろう。
 台座を間近で見ると、砂と砂利をセメントで固めたコンクリート製であることがわかる。
 一方、下2段の台座よりも上は石製。だけど、接合部をよくよく見てみると、複数の石の塊を積み重ねているのではなくて、大きな石から削り出したワンパーツでできているようだ。(ちょっと画像のトリミングの具合が絶妙すぎて、上の画像と下の画像の上下が繋がっているように見えるけど、上の画像が台座で、下の画像が灯籠部なのだ。ややこしい。)
西
 社殿に向かって左側の石燈籠
 一般的には、石燈籠の竿部には、「献燈」とか「燈籠」とか、側面に奉納年とか、裏面に奉納者とかが刻んであるものだが、ここの石燈籠は左右のどちらも東西南北どこを眺めても、なにも刻まれていなかった。ノーヒントだ。
 

  

2-5 手水舎
 社殿の手前、参道の左側に、屋根のある手水舎がある。 
 きちんと砂利が敷かれ、その縁石もしっかりしている。
 手水鉢も新しいものに見える。
 正面(北側)には「奉納」の文字。
 裏面にはなにか刻まれていた。
 長沼農協西支所

 所長以下5名の名前が刻まれていた。
 水道管らしきものは見当たらないが、地面には黒いビニール管のようなものが這っている。電気配線かな?
 庇の裏側に電球がついていた。
 

  

2-6 *おおっと*
 手水舎の左後方にさっきからイナバの物置みたいなプレハブ小屋が1棟見切れている。
 (木の陰になってるけども)電気メーターがあり、電気が来ていることがわかる。
 ふつう、これは境内の社務所か蔵のかわりのプレハブ小屋だと思うだろう。そう思って中を覗いてみると、中には仮設トイレが2台並んでいた。便所だった。排水がどうなっているのかはわからない。仮設トイレと言っても、これだと常設トイレになっているし、汲み取り式でもなさそう?
 

  


 
3 境内U
3-1 社殿
 これが拝殿。東向きに鎮座。
 昭和62年(1987年)10月新築。ざっと築35年。
 形式は・・・、北海道の神社ではたいてい、あんまり真面目に考えないほうがいい。様式美よりは実際上の機能優先だろう。いちお、「神明造」平入りの基本形に、正面に向かって凸部があって、意匠上は切り妻の屋根があり、その上部に装飾が施されている。
 これが南面。拝殿部分の地下1階?的な基礎部に引き違い窓がある。冬場は雪で埋もれそうだ。
 なかは建築資材のようなものが置かれており、納戸か物置のように使われているようだ。建築基準法でいうと、天井の高さと採光で居室とできるかとかが・・・
 拝殿の壁からニョキッと生えているこの金属の円筒が何か、本州の人はわかるだろうか。
 寒冷地ではありふれたもの。FF式ストーブの給排気口だ。ファイナルファンタジーではなく、「強制給排気フォーストフルー」のこと。北海道では、この給排気口をあまり低い位置に設置すると、冬は雪に埋もれて給排気ができなくなって、室内で一酸化炭素中毒が起きる。でもこの高さならきっと大丈夫。南側だし。
 「幣殿」部は空中渡り廊下のようになっている。南側に窓がある。
 基本的に、社殿全体の床が高いのは、冬場の積雪対策だろう。よくみると、カミサマのいる本殿部は階段1段ぶんほど床が高くなっているようだ。
 背後からみるとこんな感じ。屋根は鋼板だと思うけど、ピカピカで、築35年とは思えない。近年葺き替えたか、少なくとも塗装しているのではないかなあ。傾斜に対して横向きにスジが入っており、雪対策というよりは意匠性重視なのかなあ。
 
 拝殿にも、渡り廊下/幣殿にも、北側には窓がない。
 

  

 
3-2 社殿内部
 この正面突起部にはアルミサッシが取り付けてある。
 なかの様子はこんな感じ↓
 左に下駄箱があり、正面には本坪鈴と鈴緒がぶらさがっていた。その先にもういちどアルミサッシがある。
 これは北海道の住宅でもごく一般的な玄関の形式で、1つめのサッシの向こうは風除室のようなもの。建築上の名称は「風除室」だけども、実際状の機能は雪よけ・寒さ対策だ。
 この写真に写っているサッシの引き手部の右に、郵便受け的なものが見えているように、この2個めのサッシが本来の「玄関ドア」だ。
 鈴はぴっかぴかだ。
 お賽銭箱もぴっかぴか。
 中を覗くとこんな様子。
 拝殿内部の壁面に由緒書があった。

西長沼神社

御祭神 大國魂神・大己貴神・少彦名神
御創祀 昭和十六年、長沼神社の遥拝所として奉斎し、西長沼地区の鎮守として祀られている。 
御造営 昭和四十三年、拝殿新築。坪数八、七五坪。施工者、松井建設
昭和六十二年、南三号排水路拡張工事の為移設、本殿、幣殿、拝殿新築。総坪数十二、二五坪、総工費四百九十六万二千円。施工者、長沼酪苑観光株式会社。
平成六年、札幌夕張線長広橋架換工事迂回路取付けの為、移設。社殿改築、総坪数十五、五坪。総工費八百四十六万円。施工者、株式会社中山工務店代表棟梁奥富夫
平成六年十一月十三日荘厳なる御社殿落成す。
御社頭の御隆盛と氏子の繁栄を祈念するもの成。
 望遠レンズ大活躍。
 左側には、「西長沼神社御造営奉賛会役員」の肩書・実名が13名、さらにその左に「西長沼神社御造営奉納者」として寄付者と寄附額が13の個人・法人の名前。さらに、「手水舎、賽銭箱」を寄贈したのは中山工務店、玉串案が山本家具店、いずれも長沼市街地の法人のようだ。
 こちらはいまの社殿の一代前、昭和61年(1986年)の遷座の際のもの。壁の側面にあったので、ギリギリなんとか写角にはいった。 
 
 

  

 
3-3 顕彰碑
 境内の東側に顕彰碑が一基あった。
 これも昭和62年の社殿移転のときに移設されたもの。もともとは境内の南端にあった。
 周囲は落ち葉で埋めつくされているけども、踏み石や縁石はきれいに露出している。日々清掃しているような印象。
 石貼りの台座部に、説明書きがある。
建碑由来
 水害常襲地帯より水魔を駆逐すべく千歳川治水工事の促進を期して昭和三十三年八月一日山田金一郎氏を会長とする西がな沼水害対策促進期成会が結成され尓来役員一丸となつて千歳川築堤工事並に内水排除施設の早期完成をめざして十八年余に亘って推進活動を続けて来た。その間 氏は会長として寝食をも忘れ自己を犠牲にして東奔西走その熱意は遂に政治行政を動かし今日の如き千歳川水系治水工事の進捗となり疲弊困憊の極に在った西長沼住民を救い農業経営基礎確立と生活の安定向上をもたらし地域の発展をみたのであります 茲に地区住民一同挙げて氏の偉大な功績を賛えその偉業を後世に伝えるため本顕彰碑の建立に至ったものであります
    昭和五十一年九月三十日
   山田金一郎顕彰碑建設期成会
     会長 岩城松夫
      書 鳴海春翆
 会長の名前は、「達筆すぎて読めない」けども、別掲の石版に「会長 岩城松夫」と明記されていた。
 裏面には石碑建立に関わった方の委員の名前が多数。
 こちらはその委員の幹部の名前。筆頭の「平井幸太郎」氏は長沼町の町会議員だった人。

  

 
3-4 地蔵
 先程の顕彰碑の北隣には、立派な台座つきのお地蔵さんがいた。
 台座には「延命地蔵尊」とある。
 台座の雰囲気からは、神社の境内にあった石燈籠なんかよりは一回り年季がはいっている印象。

 寄贈者
  小林石材店
  松井繁松
 建立者
  西長沼交通事故防止協議会
 昭和四拾四年六月之建
 神社の前面道路は北海道道3号線札幌夕張線。地元では「広島道路」とか「運河道路」とも呼ばれる。札幌から、北広島、長沼、由仁を経て産炭地の夕張を結ぶ。もともとは、湿地帯のど真ん中に運河を掘った際、土砂を運河脇に積んでおいただけなのだが、その上を歩けば湿地帯のなかを一直線で移動できて便利だ、ということになった。
 当時は長沼から札幌に行くには、いったん東の馬追丘陵を越えて由仁に向かい、そこから鉄路で岩見沢を経由していく必要があった。やがて長沼の住民は、水路脇の土砂のみちを真っ直ぐ伸ばしていけば、北広島を経由して札幌へ近道になることに気がついた。明治35年(1902年)には早くも道庁へ道路建築の申請をしたのだが、予算上の都合で認可はおりなかった。
 だが大正11年(1922年)に「準地方道」に認定、昭和7年(1932年)には「地方費道」に昇格、長沼中央市街地から、南2号付近までが整備された。それから少しづつ道の整備が進み、昭和16年(1941年)に千歳川に橋が架かってようやく全線開通した。
 昭和22年(1947年)には、札幌長沼間に路線バスが運行したのだが、悪路のため30kmあまりの道のりに2時間半を要した。昭和32年(1957年)に町道から道道に昇格、昭和35年(1960年)に長沼町内の区間が舗装され、40年代に入ると自家用車が普及すると、交通事故も増えたという。

 昭和41年(1964年)秋、西長沼神社の祭りのあと家に帰ろうと道路を渡った者が、車にはねられ死亡事故となった。年末にも同じような事故があって犠牲者が出た。そこで地域では交通安全を願ってこの地蔵尊を建立、昭和44年(1969年)6月10日に安置した。以来、毎年7月に地蔵祭が行われている。  
 いまは地蔵から160mほどのあたりに、雨雪よけの覆いのついた歩道橋が整備されている。

  


 
4 歴史
4-1 西長沼の開基
 北海道全体を描いた地図としては最古の部類のひとつに、元禄13年(1700年)に松前藩が作成した図がある。
 この図では、北海道は「イシカリ」のあたりで東西真っ二つに分かれた2島として描かれている。後の地図にあてはめると、この東西を分かつ川のようなスジが石狩川・夕張川だと考えられている。 
 これは天明5年(1785年)に仙台藩が作成した地図。
 中央を拡大すると、石狩川からはいった先に、「沼 四里四方」と記されている。
 この「沼」こそが長沼町のむかしの姿だ。
 長沼のあたりはもともと、海抜が低く起伏のない低地を夕張川が蛇行していて、千歳川などと合流して石狩川へ注いでいた。この一帯が「四里四方」と書かれた広大な沼沢地だった。当時の西長沼は完全に沼の底だった。
 長沼周辺の開拓は明治20年(1887年)にこの沼沢地の北岸からはじまり、およそ30年かけて沼沢地は干拓されていった。だが大正時代中頃でも、西長沼一帯はまだ沼地だった。胆振の山間部に200ミリの雨が降るだけで、千歳川が増水し、水は旧夕張川へ向かって逆流、馬追運河まで流れ込んで氾濫する。流れてきた土砂が運河を堰き止めてしまう。
 明治29年(1896年)の氾濫では620ヘクタールが水没、明治31年(1898年)の洪水では10名を超す犠牲者が出て皇室から見舞いが派遣された。明治44年(1911年)には2600ヘクタール(およそ5km四方)が、大正6年には1000ヘクタール、昭和7年(1932年)には7700ヘクタール(およそ8.5km四方)が水没した。
 大正9年(1920年)、夕張川の流路切替工事がはじまった。この工事が完成すると、夕張川は千歳川と合流せずに、直接石狩川へ注ぐようになる。この大事業は16年後の昭和11年(1936年)に完工した。
 翌年から西長沼一帯の土地の払下げがはじまった。一区画1000町歩(1,000ヘクタール)で、この年から西長沼地域への入植が進んだ。

  

4-2 28・29・30区の誕生
 まだ西長沼に入植が始まるより前、昭和5年〜10年頃の西長沼方面はこんな感じ。
 まだ一帯はほとんど沼沢地で、長沼「第9区」の辺縁部となっていて、第9区の丸竹神社(稲荷神社)の縄張りだった。 
 昭和15年(1940年)、大政翼賛会の方針に則って、地方の行政区画の「総合的整備統合計画」が実施された。(ギレンの野望みたいな作戦名だ。) この計画に基づき、長沼村は1区あたり70戸を目安にして区割りが再編成された。これにより第9区の南側は「第15区」となった。第15区では、地域の鎮守とするために、新たに弥廣神社を創建した。
 この時期、いまの西長沼に相当する地域の開拓者たちは弥廣神社の祭りに参加することになった。
 その頃、昭和11年(1936年)に夕張川の流路変更工事が完成し、翌年から西長沼方面への入植が急速に本格化した。そこで昭和15年(1940年)に、第15区の南西部を分割、第29区が誕生した。同様に馬追運河の南側でも第21区が誕生した。
 新しい3つの区の開拓入植者たちは、合同で、西長沼の開拓の鎮守として自分たちの新しい神社を 建立することにした。場所は、3区のほぼ中間地点にあたる、西七線南三号のあたりとなった。
 こうして昭和16年(1941年)2月26日、新神社が創建された。これが今の西長沼神社だ。
 ▲初代社殿。『さぎぬま三十区史』より
 計画段階の神社は、「長沼神社遥拝所」と称していたこともあるようだ。これらの呼び名が用いられた正確な時期だとか、社名の公式な変遷だとかは、郷土資料には明記されておらず、分からなかった。 
 第21区はその後、東西に分割され、いまの第28区と第30区となった。

  

4-3 鷺沼
 西長沼神社のことを「鷺沼神社」と表記する郷土資料もみられる。「鷺沼」というのは、第30区にあった沼のことで、これが30区の別称にもなっていたらしい。
 ▲現在の30区、西8線南5号あたり
 第三十区方面の沼沢地帯には、古い時代に夕張川が蛇行した痕跡の川があり、その上流、現在の西7線南6号付近に周囲数kmほどの沼があった。沼は藤村家と山崎家の開拓地にまたがっていて、水域は縦60〜70メートル、横幅は500メートル、三日月形をしており、水深は1メートルほどだったそうだ。
 ▲いまはもう鷺沼の痕跡らしきものは何も残っていない
 沼の周囲には、人の背丈よりも高い葦が生い繁り、ヤチダモやヤチハンの大木がびっしりそびえていて、立ち入ると方角もわからなくなるほどだったという。これらの植物は、アイヌにとっては役に立つものだったようで、古くはこの沼をアイヌ語で「利用するのに便利な長い草が生い茂る場所」を意味する「キナチャウシ沼」と呼ばれていたそうだ。
 沼にはフナやドジョウも数多く生息し、沼の周囲の榛の木々はアオサギの繁殖地になっていた。開拓者たちはこの沼を「鷺沼」と呼ぶようになった。沼は埋め立てられて現存しないが、いまでも第30区を「鷺沼」地区と呼ぶこともある。西長沼の寺院も「鷺沼山西照寺」と、山号が「鷺沼」となっている。
 ▲防風林には、開拓前の原生林の様子がわずかに残っている。
 夕張川と千歳川に挟まれた低湿地のこの地域は、毎年のように水害に襲われた。千歳川がちょっと増水するとすぐに旧夕張川に水が逆流して氾濫し、西長沼一円は広大な池と化した。日本海から風を遮る山がない低地なので、台風がくれば暴風が襲った。
 30区の開拓者たちは、鷺沼にアオサギが営巣する様子をみて一年の天候を予測したという。サギが樹林の高い位置に巣を構えると、その年は風は弱いが、雨が多く降って農地が水没する。サギが樹林の低い位置に営巣すれば、洪水はないが強風が荒れ狂う…どっちにしろ災害が来るのだ…
 ▲頭上を飛んでいったので思わず撮ったけども、これはアオサギではなくハクチョウだろう。
 平成3年(1991年)に刊行された『さぎぬま三十区史』には、鷺沼はもう埋め立てられて「跡形もなく良田となっている」と記されているものの、「西7線南4号半架橋を『さぎ沼橋』と名付けて、其の由来を語り伝えている」とも書かれていた。
 南4号と南5号のあいだを「南4号半」って言うんだ〜、とか思いながら、それらしい橋を探すのだが見当たらない。農道をうろうろしているうちに、さきほどの防風林のところで
 橋銘板がはずれて落ちていた。「さぎぬ」「ょう」しか無いけれど、まあこれだろう。
 対角線の位置に「さぎ沼橋」と漢字表記の銘板があるはずだ、と思ってみたら、銘板が外れて失われていた。

  

4-4 2度の遷座
 創建時から、神社のおおまかな位置は変わっていないのだが、水路改修や道路改修の影響で、町並みや境内は様変わりしている。
 創建当時の昭和10年頃は西長沼地区の開基時期で、入植者も少なく、道路や橋もあまり整備されていない。小学校がある程度だった。
 昭和20〜30年代に、西長沼は発展した。道や橋はまだ不十分だったものの、中央通り沿いに店や住宅が立ち並んだ。農協の支所や、(上の図には収まっていないが)駐在所や寺もできた。商店街のなかには「蹄鉄所」があり、医者はなかったが獣医師も開業、当時この地域ではウマが運輸の主役だったことを物語っている。
 昭和40年代、店は少し入れ替わった。南3号排水路の北側に、地蔵(A)が建立された。保育所もできて、町が発展して子供が増えていることを伺わせる。神社拝殿を新築した。
 昭和51年に社殿脇に山田金一郎の顕彰碑が建立された。地蔵(A)も境内に移設された。小学校が改築となった。
 昭和61年から62年にかけて、南3号排水路の改修工事があって、神社を取り壊し、場所を遷して再建した。メインストリート沿いの商店や住宅は、西の寺のほうへ移転した。
 平成6年に道道札幌夕張線の拡幅が行われ、橋も架け替えられた。道路拡幅の影響で、社殿も再び移動しなければならず、社殿を建て替えた。これが現在の現地のレイアウトだ。

  

4-5 年表
 この年表には、長沼町内の区割りの変遷に関する項が多数ある。複数の郷土資料を眺めると、どうもその区割りの変遷に関する年号に1年のズレがたびたびある。きっと、「決定」と「施行」みたいな感じではないだろうかと推測するんだけど、よくわからない。 
和暦 西暦 事項 一般史 情報源
嘉永 6 (1853) 7 8 ペリー来航
安政 4 (1857)         松浦武四郎が、長都沼・馬追沼を渡り、対岸ポロナイに上陸    
慶応 4 (1868)         戊辰戦争  
明治         明治天皇即位  
        箱館戦争終結    
2 (1869)         北海道開拓使設置、北海道開拓が本格化
戊辰戦争で没落した旧仙台藩系水沢藩士が北海道へ移住
 
4 (1871)         北海道神社改正(北海道内での神社行政の開始)    
19 (1886)         第一次植民地選定事業開始(長沼の開拓計画策定)    
20 (1887)         石狩地峡帯の馬追原野(北長沼)に吉川鉄之助が入植(長沼開基)    
22 (1889)         千歳村から三川・由仁への道路(千歳道路)が開削    
                     
25 (1892)         夕張郡由仁村の外村として「長沼村」設立    
27 (1894) 7 25 日清戦争勃発    
        長沼村に戸長役場を設置    
28 (1895)     村内を10区に区分け。(九区の開基)    
29 (1896) 5     村内を14組に再編成。(第七組に所属)    
30 (1897) 2     ポロナイ地区が加わり村内15組となる    
35 (1902) 4     村内を20区に再編成。    
                     
37 (1904)         日露戦争開戦  
9     二〇三高地戦  
38 (1905) 9 日露戦争終結  
                     
39 (1906)         村内を16部に編成。(第九部に所属)    
         
                     
大正 3 (1914)         第一次世界大戦勃発  
                     
7 (1918) 11 11 第一次世界大戦終結  
8 (1919) 夕張川の流路切替の事業決定  
9 (1920)         夕張川の流路切替事業が着工    
                     
                     
昭和 3 (1928)            
6 (1931)         満州事変  
7 (1932)         長沼村条例で地区の範囲を定める    
                     
11 (1936) 2 26 二・二六事件  
7 7 支那事変勃発  
〃  8 17 夕張川の流路の切り替えが完工    
12 (1937)         西長沼一帯で、1区画1000町歩(1000ヘクタール)とする払下開始、西長沼地区への入植が急増
四号半川の川床を嵩上げ
   
                     
14 (1939) 4 1 第六小学校開校    
9 1 第二次世界大戦勃発(ドイツがポーランドへ侵攻)  
15 (1940)     長沼村総合的行政区整備統合。第九区から第二十九区を分割。    
10     紀元2600年記念。    
  16 (1941) 2 月  26 西長沼神社を創建。28・29・30区の鎮守とする。    
12 8 日米開戦(真珠湾攻撃)  
                     
                     
20 (1945) 5     ドイツ降伏  
8 15 日本降伏  
12     GHQの神道指令(国家神道・社格の廃止など)    
21 (1946)         神社本庁設立    
5     真宗三門徒派西長沼説教所を設立    
27 (1952)         長沼村が町制施行し、長沼町となる。    
        西長沼説教所が「鷺沼山西照寺」となる
29区会館新築
   
28 (1953) 3 28 神社用地を宗教法人長沼神社で登記(2反9畝/約2876.03u)    
           
43 (1968) 8     神社拝殿新築(西長沼・松井建設による施工)8.75坪(約28.92u)    
44 (1969) 6     交通安全地蔵尊を建立    
           
51 (1976) 9 20 山田金一郎顕彰碑を建立    
52 (1977)     29区会館改築    
57 (1982) 11 30 西長沼会館落成    
        長追川(南四号半)の開削・護岸整備    
58 (1983)         延命地蔵を建立    
                     
61 (1986) 3 10 南3号排水路の改良工事着工    
12     南3号排水路の改良工事に伴い、神社を移転することになり遷座祭を斎行    
62 (1987) 9 10 神社の移転工事完了    
10     社殿12.25坪(40.49u)新築(長沼酪苑観光による施工)    
                   
平成 6 (1994)     道道札幌夕張線の橋の架換工事に伴い社殿を移転新築    
11 13 新拝殿・幣殿・本殿15.5坪(51.23u)が落成。     
                     

  


 
5 周辺 
5-1 寺院
 こちらは寺院。真宗三門徒派。
 山号は、第30区にあった「鷺沼」に由来する「鷺沼山」。
 寺号は「西照山」。
 「真宗三門徒派」というのは浄土真宗の一系統で、證誠寺・誠照寺専照寺の3寺を中心とするため「三門徒派」と呼ばれるそうだ。山城国(京都府)・近江国(滋賀県)・若狭国(福井県)を中心とする一派だが、室町時代から戦国時代にかけては一向宗と衝突して衰退したという。
 長沼の開拓者たちは、神社は地区ごとに、寺院は出身地ごとに属したそうだ。このあたりは北陸方面の出身者が多かったのかもしれない。

  

5-2 公民館
 これは西照寺の向かいにある第三十区会館。
 第30区では、発足当時は公民館もなく、毎年持ち回りの区長の自宅で会合を行っていた。昭和33年(1958年)に、集落内で転出する者がいたので、第30区民の有志・寄付金を募ってこの家を買い取り、地区会館とした。しかし度重なる水害や地震、湿地の凍結の影響で、10年後には使い物にならなくなったそうだ。その後、紆余曲折があり、用地を確保し、342万円の住民の寄付を募って昭和47年(1972年)に会館設立に至ったという。 
 これは西長沼会館。
 会館の前の白樺の木はぐんにゃり曲がっていて、このあたりの風の強さをうかがわせる。映画『スリーピー・ホロウ』にでも出てきそうな姿だ。
 。

  

5-3 学校
 この地区の開基の2年後、昭和14年(1939年)に「長沼第六小学校」が当地に開校した。これが国民学校を経て昭和24年(1949年)に「西長沼小学校」に改称。小学校が開校したことで、その周囲に市街地が形成されていった。
 令和元年(2019年)、西長沼小学校は閉校となり、81年の歴史に終止符をうった。
 この緑色の塗装の建物は、小学校に隣接した保育所。

  


 
6 情報
6-1 諸元
名称 名称 西長沼神社
通称 鷺沼神社
旧称 長沼神社遥拝所 
所在 経緯度 北緯 042 度 59 分 57.17秒
東経 141 度 37 分 49.85秒
地名地番 北海道夕張郡長沼町 西7線南3
旧表記
郵便番号
現住所 北海道夕張郡長沼町 西7線南3
電話
祭神 主祭神 開拓三神(大國魂神・大己貴神・少彦名神)
祭神
注記
起源
社史 創建 昭和16年(1941年)
公認
境内 面積
社殿
面積 拝殿・幣殿・本殿 総坪数15.5坪(51.23u)
落成 平成6年(1994年)11月13日
総工費 846万
施工 中山工務店・代表棟梁 奥富夫
摂末社 末社
境内社
社格 旧社格
祭礼 春 祭  
例 祭  
新嘗祭
備考  
氏子 世帯数
崇敬者数
注記
文化財 史跡
史跡
交通   JR北海道・千歳線「北広島」より約8.0km(車16分)
  バス停「西長沼」より130m(徒歩2分)
情報源  
『北海道神社庁誌』 1999
『長沼町の歴史』上・下 1962
『長沼町九十年史』 1977
『さぎぬま三十区史』 1991
『ながぬま一二〇年のあゆみ 長沼町開基120年記念』 2007
『日本歴史地名大系1』 2003
『角川日本地名大辞典』 1987

  

6-2 リンク
サイト 題名 リンク 日付
ぴかりんの頭の中身 【社】西長沼神社(長沼・西7線南)  2010/09/11
北海道の神社巡り kaeru no uta 西長沼神社(長沼町) 2017/07/30
石屋の神社探訪 轄a口石材工業 西長沼神社 2019/05
北海道の神社   ☆西長沼神社(長沼町)☆ 2019/07/12
神社お寺御朱印巡り 西長沼神社(北海道夕張郡長沼町西) 2021/09/01
       

  

6-3 参考文献
書名 刊行年 編著 出版 備考
『北海道神社庁誌』 平成24 1999 編:北海道神社庁誌編輯委員会 北海道神社庁  
『角川日本地名大辞典1北海道』
上下巻
昭和62 1987 編:「角川日本地名大辞典」編纂委員会 角川書店
『日本歴史地名大系1北海道の地名』 平成15 2003 編:平凡社地方資料センター 平凡社  
           
『長沼村史』 大正05 1916 著:太枝連蔵 長沼村  
『長沼村史』 昭和11 1936 編:長沼村史編纂部 長沼村  
『長沼町の歴史』
上下巻
昭和37 1962 編:長沼町史編さん委員会 長沼町  
『長沼町九十年史』 昭和52 1977 編:長沼町史編さん委員会 長沼町  
『長沼町第29区70周年記念史』 平成22 2010 編:第29区70周年記念協賛会 長沼町29区  
『さぎぬま三十区史』 平成03 1991 編:長沼町三十区 長沼町三十区  
『西長沼小学校開校81周年記念・閉校記念誌
 西長沼小学校「軌跡」』
令和元 2019 長沼町立西長沼小学校開校81周年・閉校記念事業協賛会   
「地神碑に祀られる神々」 平成11 1999 著:池川清 池川清  
「ながぬま 記念碑・顕彰碑・史跡等解説一覧」 平成20 2008 編:長沼町教育委員会 長沼町  
           
           
             
 
 

  


 
 

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