北海道 石狩國
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 ぽろない
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村社
神饌幣帛料供進神社
北海道神社庁
幌内神社
 ほろない
空知地方 夕張郡 長沼町 幌内
ポロナイ
 元禄時代に松前藩が幕府に納めた蝦夷地の地図の中央には、「四里四方」と記された巨大な湖が描かれている。文字通り受け取るならば面積およそ250km2、霞ヶ浦を上回り、日本で2番めに広い湖沼ということになる。安政四年(1857)夏、探検家松浦武四郎はこの巨大湖を探検、船で対岸の山麓にたどり着き、その山をマオイ山、湖をマオイ沼と命名した。明治の中頃、沼のほとりに千歳村から入植者がはいり、ポロナイ地区を興した。彼らは開拓の拠り所として幌内神社を奉斎、これが長沼町の二大神社の一翼となった。
参拝日 令和03年(2021)09月19日 作成日 令和04年(2022)08月10日 修正日 令和04年(2022)09月25日
所在地 北海道 夕張郡 長沼町 字 幌内 1512番地
                   (長沼町十八区)
旧社格 村社・神饌幣帛料供進神社
主祭神 誉田別神・豊受姫神(・大宜津姫命)
神社史 明治27年(1894) 前身となる小祠の建立
明治30年(1897) 八幡神社創建
明治43年(1910) 幌内神社に改号 ※
明治44年(1911) 創立正式認可 ※
明治45年(1912) 無格社に列格
昭和19年(1944) 村社に列格

※異伝あり

境内 約3,261坪(10,763u)
社殿 拝殿・幣殿・本殿
施設 鳥居、狛犬、石燈籠
文化財 メンヒル(長沼町指定史跡)、開拓記念碑、鳥居塚
神職 無住(長沼神社社掌が管理)
旧称異称 八幡神社(明治中期)
 
基本情報
概観
鎮座地
略年表
祭神
神紋
御朱印
 
境内
略図
社頭
鳥居
参道
社殿
摂末社
 
 
文化財
石狛犬
燈籠
手水鉢
石碑類
忠魂碑
史跡
 
 
歴史
郷土史
年表
神社由緒
人物伝
公民館
祭礼
 
 
地誌
自然誌
周辺の名所
 
 
 
 
情報
諸元
リンク
参考文献
 
 
 
 
 
1 基本情報
1-1 概観
 40km彼方に見えるのは樽前山。往古、ここポロナイと樽前山は海峡で隔てられていた。縄文時代が終わって地球が冷えて海岸線が後退したのと、樽前&恵庭岳の火山活動に伴う火山噴出物の堆積や土地隆起によって、海峡は数千年かけて埋め立てられていった。だが最後までこのあたりには大きな潟湖が残った。明治はじめ頃の当地ポロナイは、その巨大湖の湖岸だったという。
 
 幌内神社のルーツは明治27年(1894年)のポロナイ入植初期まで遡る。最初の開拓者たちは千歳村からの入植者だった。彼らはここを「千歳村番外地」と称し、最初期の社掌は千歳神社の神主が務めていた。後に、ポロナイ地区の所管が千歳村から長沼村に変更となり、長沼村の総鎮守は長沼神社と定められた以降も、当地は長沼中心部から12kmも離れていたから、ポロナイ地区では幌内神社を総鎮守とする意識がとても強かった。
 
 これは拝殿前の石燈籠の台座。大正2年(1913)の銘があり、境内ではもっとも古いもの。平沖又作と大熊竹次郎はいずれも神社の創立総代である。
 境内にはポロナイ地区の開基○周年の記念碑が多数ある。100年以上、地区の住民たちが協力団結してきたことを示すものだろう。
 
 社頭には新しい鳥居があった。平成17年(2005)、神社創建110周年の記念としてに建立されたもの。一代前の石鳥居は、戦後すぐの昭和24年(1949)建立、築55年目の平成16年(2004)に北海道を襲った「ポプラ台風」によって倒壊した。旧鳥居は境内で史跡「鳥居塚」として奉られている。
 
 社殿は大正末期に改築されたもの。拝殿/幣殿は入母屋造向拝付、一体化された上屋根に覆われた本殿は流造。
 
 狛犬は一対2基、昭和12年(1937)建立。石灯籠は二対4基あり、大正2年(1913)の一組と、昭和63年(1988)の一組を確認。
 
 境内の奥には、アイヌ時代の墓標と推定される「メンヒル」がある。長沼町史跡。用いられている石材は、付近では産出せず、支笏湖周辺から運ばれたものと考えられている。
 
 境内のはずれには立派な忠魂碑があり、幌内から出征し、日露戦争の二百三高地や太平洋戦争で戦死した人々が弔われている。法的には別敷地なのかも。その向こうには公民館がみえる。
 

  

1-2 鎮座地
所在地
現表記 北海道 夕張郡 長沼町 大字 幌内     1521 番地  
旧表記 石狩国 夕張郡 長沼村   ポロナイ     1521 番地  
座標
緯度 北緯 42 56 11.11
経度 東経 141 43 25.08
標高 37.4m
住宅地からの比高 およそ+9メートル
地図リンク
 幌内神社は、広大な北海道の中部、石狩平野の南部に位置している。
 上の広域地図では平野として描かれているが、このあたりには「馬追丘陵」と呼ばれる標高200-300メートルほどのなだらかな丘陵地が南北に走っている。幌内神社はその麓に位置している。
 現在の地図で言えば、長沼町の中心部・長沼神社からは、直線距離でおよそ8km、道路による実際の距離は11kmほど。札幌方面へも、国道274号線が一直線につながっている。だが開拓初期には西長沼・南長沼・舞鶴が沼沢地で、札幌へ陸路で直接向かうことは不可能だった。
ふつう、地図の神社位置には鳥居のマークが表記されるだけだが、幌内神社はマークのかわりに神社名が書かれている。

 国土地理院では、地図に何を掲載するか、各自治体から申し出をさせているそうだ。このように記号ではなく固有名詞が書かれるのは、長沼町役場の判断として、固有名詞を載せるほどにその地域にとって重要だということ。
  「幌内」という地名は北海道各地にある。アイヌ語で「ポロ」は大小の「大」を意味し、川のことを「ナイ」という(※)。つまり、「ポロナイ」は「大きい川」というような意味になる。
 北海道では「ポロ」に「幌」という漢字をアテることが多く、はじめのうちは「幌内」と書いて「ポロナイ」と読んでいたが、時代が下るとそのうち本来の読み方が失われて「ほろない」と読むようになる。
 長沼町では、少なくとも平成の中頃までは「ポロナイ」とカタカナ書きするのが公式だったようで、登記簿なども「ポロナイ」表記になっている。が、明確な時期は(詳しく調べてないので)ワカラナイが、公的には「幌内」という漢字に切り替わったようだ。 
 ※川を意味するアイヌ語には、主に「ベツ(ベッ)」と「ナイ」がある。
 ベツは、登別とか江別、芦別、紋別などいくらでもある。ナイは、稚内、歌志内、岩内、黒松内、などなど。
 大きくてよく氾濫する(したがって川岸に住むには適さない)川を「ベッ」、川岸が安定していて川のそばに定住できる川を「ナイ」と区別したようだ。

  

1-3 略年表
和暦 西暦 幌内神社史
安政 4 (1857) 蝦夷地探検中の松浦武四郎が、長都沼・馬追沼を渡り、対岸ポロナイに上陸
明治 20 (1887) 北長沼に入植者(長沼開基)
27 (1894) ポロナイに入植者。祠を設置(幌内神社の濫觴)
28 (1895) 幌内開基元年と定める
30 (1897) 社殿完成、誉田別神を奉斎し「八幡神社」創建(無願神社)
35 (1902) 拝殿建築
43 (1910) 本殿改築、神社創立出願
44 (1911) 創立許可、豊受姫神・大宜津姫命を合祀、「幌内神社」と改号、無格社に列格
大正 8 (1919) 幌内開基25周年の石碑を建立
15 (1926) 本殿・幣殿・拝殿を改築(現存社殿)
昭和 19 (1944) 村社に列格、神饌幣帛料供進神社に指定
20 (1945) GHQの神道指令(大日本神祇会解散・国家神道の廃止) 
21 (1946) 宗教法人となり、神社本庁に所属
26 (1951) 自作農創出特別措置法により、神社所有地の2/3を供出
29 (1954) 幌内開拓60周年記念石碑を建立
平成 6 (1994) 幌内開拓100年
8 (1996) 鎮座100年祭
16 (2004) 台風18号により石鳥居が倒壊
17 (2005) 鎮座110年記念として石鳥居再建

  

1-4 祭神
位置付 神号 よみ 神徳 備考
主祭神 誉田別神 ほんだわけのかみ 武神 応神天皇
主祭神 豊受姫神 とようけひめのかみ 食物の神、特にコメの神。丹波国の神 イザナミの孫
(主祭神) 大宜津姫命 おほげつひめのみこと 五穀豊穣。阿波国の神。
 誉田別神は第15代応神天皇のこと。父は仲哀天皇、母は神宮皇后。『古事記』での表記は「品陀和気命ほむだわけのみこと」。九州のクマソ征伐中に没した仲哀天皇にかわり、お腹の中に赤ちゃん(応神天皇)がいる神功皇后が軍を率いて九州征伐を完遂した。神功皇后はさらに朝鮮にも進撃、平定したという。その道中、赤ちゃんが生まれそうになった神功皇后は、お腹に石をあてて冷やし、出産を遅らせたのだという。日本に戻った神功皇后は無事に赤ちゃんを出産、この子がのちの応神天皇だ。記紀の記述から、応神天皇が新たな王朝をひらいたのではないかという説があり、現代の歴史家は、確実に実在した天皇としては最古の人物としている。 
 豊受姫神は『古事記』の神々のなかでもかなり初期に一瞬だけ登場する女神で、よく「羽衣をまとった天女」の姿で描かれる。『日本書紀』には登場しない。母は和久産巣日命わくむすびのみこと、その母は伊邪那美いざなみ命だ。ただしそういう名前の子供がいるとちょっと触れられる一瞬でるだけで、詳しいことは語られない。豊受姫神は、ずっとあとの時代、21代雄略天皇の時に再登場する。あるとき、雄略天皇の夢にマテラスがあらわれ、豊穣の女神である豊受姫神を丹波国から伊勢国に呼び寄せるよう、と神託する。こうして伊勢に招聘された豊受姫神は、アマテラスの食事係(御餞の神)として仕えるようになった。
 大宜津姫命は五穀豊穣の女神。『古事記』だけに登場。乱暴者のスサノヲが高天原を追放されたあと、腹をすかせてさまよっていたところを大宜津姫に助けられる。スサノヲは何か食べ物をくれというと、大宜津姫はさまざまなご馳走を出してきた。しかし、彼女が一体どうやって食べ物を用意したのか不思議に思ったスサノヲは、大宜津姫が食事を用意する様子を覗き見した。すると、大宜津姫は、鼻・口・尻の穴から食べ物を出していた。スサノヲは汚物を出されたと思い込み、大宜津姫を斬り殺してしまう。するとその死体から、稲、粟、小豆、麦などが生えてくるのだった。時には阿波国の神ともされ、これは穀物の「粟」と国名の「阿波」をかけたものだともいう。『日本書紀』では、このエピソードは月夜見つくよみ尊と保食うけもち神のあいだで起きたことになっている。
 幌内神社の祭神については、2神とする情報源と、3神とする情報源がある。
 幌内神社を祀る現地・長沼町幌内地区では3神を祭神としており、地元の『長沼町史』や『幌内神社百年史』などの郷土資料に明記されているし、なにしろ現地の看板にそう書いてある。実際の祭祀でも3神を奉斎しているといい、「公式」には3神説になる。
 ところが、札幌法務局(空知南出張所)に保管されている登記簿謄本には、誉田別命と豊受姫命の2柱しか書かれていないそうだ。そんなわけで登記に準拠すると2神となる。『北海道神社庁誌』もこの2神説を採っており、「役所的」にはこの2神となる。

 なぜこんなことになっているのかは、地元でもよくわかっていないようだ。とりあえず、話は神社の創建時、明治の中頃に千歳神社から分霊を勧請したときに話は遡る。まず、開拓者たちは千歳神社のある千歳村からやってきて、明治27年に入植、小祠を建立した。そのとき何を祀ったのか、というのが最初の問題となる。しかし当時の詳細は記録を欠き、地元でもわからないそうだ。幌内地区で刊行されている『開基九十周年記念 幌内史』では、明治27年当初から3神を祭祀していたように書いているし、明治35年に社殿を建立して上棟式を行ったときにも3神を祭祀したように書いている。

 一方、別資料では、最初は八幡神(誉田別命)1神で、明治30年に本格的な社殿を建立し、誉田別命を祀り、「八幡神社」と称したとある。そして明治43年に、あらたに豊受姫命と大宜津姫命を合祀し「幌内神社」となった。

 最初に勧請元となった千歳神社は、明治8年以来、主祭神が豊宇気比売命(豊受姫命)の1柱のみ。(千歳神社の前身は稲荷神社で、さらにその前身は弁天堂。)だから、明治30年頃に八幡神(誉田別命)を千歳神社から分霊することはできなかったはず、という話もある。 

  

1-5 神紋
十二菊に対い鳩
 『続幌内神社史』の表紙などに描かれている。同書内では、上の菊紋を「御神紋」、下の向かい鳩を「社紋」としているページもある(同書はページ毎の矛盾・食い違いが少なくない!)。昭和51年には「十二菊」ではなく、「十六弁八重菊花」の神紋入の旗が奉納されたともある。

  

1-6 御朱印
 
 幌内神社は通常無住なので、長沼神社で御朱印をいただくことになる。御朱印はオーソドックスなタイプ。

  


 
2 社頭
2-1 境内略図
区分 西暦 和暦 説明 奉納者 備考
@ 鳥居 2005 平成 17年 6月   為神社創建百十周年記念 第十八区・幌内神社協賛  
A 石燈籠(右) 1913 大正 2年 4月     冨士長次郎 石田善次郎  
B 石燈籠(左) 1913 大正 2年 4月   明治35年に平沖又作が土地を寄付した記念  
C 石燈籠(右) 1913 大正 2年 9月     幌内地区住民協賛  
D 石燈籠(左) 1913 大正 2年 9月     幌内地区住民協賛  
E 石燈籠(右) 1988 昭和 63年 6月   米寿祝 堀井秀吉(旧神社役員) 白御影石製
F 石燈籠(左) 1988 昭和 63年 6月   米寿祝 堀井秀吉(旧神社役員) 白御影石製
G 狛犬(右) 1937 昭和 12年 4月     大熊清衛門(大阪大熊組)  
H 狛犬(左) 1937 昭和 12年 4月     大熊清衛門(大阪大熊組)  
I 手水鉢 1923 大正 12年 4月     横田藤十郎  
J 手水鉢 1922 大正 11年 8月 31日 在住二十五周年記念 牧野善之助 登別赤石製
K 神苑大石 1967 昭和 42年     田島家移住記念 田島敏夫 穂別石製
L 社号標 1941 昭和 16年 7月 7日 満州・支那事変出征記念 澤井保貞ほか  
M 制札(右) 2004 平成 16年 9月 由緒記    
N 制札(左) 2004 平成 16年 9月 4日 禁札    
O 石碑 1919 大正 8年 9月 1日 開村25周年 選書:増田彰(空知支庁長)  
P 石碑 1954 昭和 29年 9月   開拓60週年紀念碑    
Q 石碑 1954 昭和 29年   開拓60週年紀念現住者人名    
R 石碑 1964 昭和 39年 9月   開拓70年記念石 揮毫:中川清(長沼町長)  
S 石碑 1974 昭和 49年 11月   幌内開基80周年記念碑 揮毫:阿達忍(元長沼町長)  
石碑 1984 昭和 59年 10月   幌内開基90周年記念 揮毫:村山敏文(長沼町長)  
石碑 1994 平成 6年 9月   幌内開基100年記念 揮毫:板谷利雄(長沼町長)  
石碑 1996 平成 8年 9月   幌内神社鎮座百年之碑    
石碑 2005 平成 17年 6月 卜日 鳥居塚    
記念碑 ????         みどりの百景づくり    
忠魂碑 1919 大正 8年 9月   陸軍中将 田中義一書  
土俵跡              
メンヒル           長沼町史跡    

  

2-2 社頭
 
 国道に面して鳥居が立っている。鳥居は西面。
 社頭はわりと最近に面変わりした。平成16年(2004)夏、前面道路の国道337号線に歩道を整備することになり、道路拡幅のためセットバックして用地を国へ提供、これに伴って樹木の伐採や社号標・旗竿等の移設、制札の新設が行われた。その費用には土地の売却資金が充てられた。ところがその直後に台風によって鳥居が倒壊、翌平成17年(2005)にいまの鳥居が新設された。
 
 
 国内数百箇所の神社をまわってきたが、その中でも幌内神社は記録がしっかりしている度合いでは日本一ではないかと思う。伊勢神宮とか出雲大社とかのクラスは別格として、無住の旧村社としては異例の詳細さだ。たとえば、○年○月○日に誰某より雅楽のCD1枚寄贈とか、○年○月○日に拝殿の配管修理の事前打合せに誰と誰が立ち会ったとか、そういうのが全部記録として刊行されている。
 この国道歩道の拡幅工事では、境内地497.88uを国へ売却した。このときの土地代金は55万1003円(u単価約1106.7円)で、これに旗竿などの工作物移設費として906,260円、立木の補償として4,380,392円(ハリギリ2本、アカマツ2本、イチイ2本、カラマツ1本)、その他移転雑経費として126,622円となっている。総額5,964,277円のうち、7割強が立木の補償だというのはちょっと意外。土地代がやっすいのはまあ、北海道だし。契約では、更地にして国へ渡すという条件だったそうなので、樹木の伐採抜根処分費用は神社側負担だったようだ。
 

 都会のひとからすると、こんな田舎の土地に歩道つくるのに600万も税金を支出するなんて!って思うかもしれないけど、土地約150坪を600万と思えばやっすいのだ。北海道では冬になれば何メートルも雪が積もり、それを除雪するために道路脇には数メートルのスペースを必要とする。ここは国道で、しかも千歳空港と石狩平野を環状に結ぶ重要路線に位置づけられているので、冬季への備えとしてはたしかにスペースは必要なのだ。
 ところで神社側は、7月に国と契約書を交わし、8月にはいってすぐ工事に取り掛かってみると、予想外に社号標を1.5メートルほど移設しなければならないことがわかり、その基礎コンクリートを打設したりと、けっこう大変だったようだ。
 
 
 鳥居脇の大木はイチイ。北海道ではふつう「オンコ」という。
 本州の神社の神木といえば榊が定番だが、亜寒帯の北海道ではサカキは育たない。だから北海道ではしばしばサカキの代用としてオンコを使ってきた。(今は本州からサカキの枝を輸入する)
 このページの境内の写真では、ときどき真紅の赤いが写り込んでいる。これがオンコの実だ。
 オンコの実には猛毒があり、アイヌの人々はオンコの実からとった毒を毒矢に用いた。
 その毒は西洋でも古来から知られていた。オンコ(イチイ)のことをラテン語では「タクソス」(Taxus)といい、これは英語の「有毒」(toxic)の語源になった。
 イギリスなど、ヨーロッパ北部の寒冷地では、キリスト教会の境内に魔除けの神木としてオンコを植える。  

  

 
2-2-1 B社号標
 
 社号標は、平成16年(2004)年の国道拡幅にともない移動したもの。これは当初の工事の予定にはなかったのだが、着工していると移設が必要だとわかったそうだ。そんなわけで、社号標は後方へ1メートル20センチ、横へ1メートル移動し、基礎の嵩上げも行った。
 
 
幌内~社
北海道夕張郡長沼村幌内鎮座
昭和十六年七月七日建之
昭和16年=1941年
 
満州
支那
事變出征 
記念奉納者氏名
 満州事変は昭和6年(1931)、支那事変(=盧溝橋事件)は昭和12年(1937)。満州事変は日中戦争の前哨戦、支那事変は日中戦争本戦といったところ。
 この社号標が建立されたのは昭和16年(1941)7月7日ということだが、盧溝橋事件が昭和12年(1937)7月7日に起きているから、4周年みたいなタイミングだったのか。
 と勝手に想像していたら、神社史に答えが書いてあった。昭和16年に、幌内から支那事変(昭和12年)に出征した兵士が軍曹として無事に帰還したそうで、産土神に無事帰還を報告して神鏡を奉納し、この社号標を建立したそうだ。その人物の名前が、奉納者リストの1人目に刻まれている。  
 

 
 建立の半年後となる昭和17年(1942)2月には、一連の戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことが法律で決まり、「支那事変」という表現は消えることになる。
この年12月には真珠湾攻撃をやって太平洋戦争が始まる。

  

 
2-2-2 @制札(右)由緒書
 
 

由緒記

  北海道夕張郡長沼町ポロナイ一五一二番地鎮座
 

幌内神社

一、 御祭神 誉田別命[応神天皇]・豊受姫命・大宜津姫命
一、 御神徳 誉田別命は武の神として名高く、勝利祈願受験合格
出世開運、二柱の神は衣服、住居、五穀豊穣の守護神
として崇められている。
一、 由緒 明治二十七年 創紀以来開拓者が祠を建て開拓の達
成を祈願。明治三十年 誉田別命を奉斎「八幡神社」
と号し茲に御創始とされる。明治四十四年 大宣津
姫命・豊受姫命の二柱の神を合祀し、「幌内神社」と
改号、創立許可を受ける。大正十五年 本殿・幣殿
等の修復、現在の荘厳なる八幡造の御社殿竣工
昭和十九年村社に列格される。昭和二十八年 宗教
法人法による宗教法人 神社神道の神社として証さ
れる。平成八年 御鎮座百年臨時大祭を斎行。
一、 祭事  一月  一日 歳旦祭
 四月  六日 祈年祭・招魂祭
 九月  六日 秋季例大祭
十一月二十四日 新嘗祭
一、 建物 本殿・幣殿・八幡造拝殿・向拝・鳥居・石燈籠
狛犬・忠魂碑・社宝 八幡額 町文化財のメンヒル
一、 境内 ポロナイのほぼ中央に位置し、眼下には広大な田園風
景と樽前山系を一望する一〇、一一六、一二平方
米の土地には、開拓当時の楢の木、北限の檜を始め
各種の樹木が繁茂する壮麗なる境内を有する。
一、 氏子 幌内[十八区]一圓。 [平成十六年九月謹記]
 
 
 平成16年(2004年)は、幌内地区の開基110周年にあたる。そしてちょうどこのときに、全面の国道の拡幅のため神社の土地を売却、これによって社頭整備工事が生じて、制札左右一対(右の由緒書・左の制札)を整備した。
 神社史には、昭和18年(1943)に整備された旧制札左右一対があったことが記録されている。そちらには旧制札の全文も掲載されている。今回リニューアルされた制札の文面は、旧制札に一部加筆修正されたものだ。

 鳥居の話はさておき、この由緒書の内容は、他の文献と食い違う点が数か所ある。
相違点 『北海道神社庁誌』
平成11年
現地由緒書
平成16年
祭神 2柱 3柱
神号 神(〜のかみ) 命(〜のみこと)
豊受姫
合祀時期
明治43年 明治44年
改称 明治43年 明治44年
宗教法人化 昭和21年4月 昭和28年
社殿様式 流造 八幡造(拝殿)
境内面積 10,763u 10,116.12u
 まず、『北海道神社庁誌』では祭神は誉田別神と豊受姫神の2柱なのに対し、現地由緒書ではこれに大宜津姫命を加えた3柱になっている。大宜津姫命は『日本書紀』には登場しないので、そこらへんがこの差異の原因かも。
 八幡神社から幌内神社への改称時期も、1年の相違がある。これは「申請時期」と「認可時期」のどちらを採用するかの差違ではないかと思う。
 戦後に宗教法人化された時期は、由緒書では昭和28年とあるが、『北海道神社庁誌』では昭和21年4月。これは時期がずれすぎている。謎。
 社殿様式も違う。現地由緒書には「拝殿」と明記されているけれど、『北海道神社庁誌』のいう「社殿」は本殿のことなのだとすると、両者が食い違うのは説明できる。・・・あとで出てくるが、実際の拝殿は「八幡造」ぽくないんだけどもね・・・。
 境内面積の差については、理由は2つありそうだ。平成16年に前面道路の拡幅のため敷地を497.88u提供したので、まずその差がある。それでも149u計算が合わないのだけど、これは理由ははっきりはわからない。そもそも元の面積は古い登記に依拠してて正確な測量をやっていなかったのかもしれないし、あるいは道路拡幅のときになにかほかにも敷地分割があったのかもしれない。
 『北海道神社庁誌』では、境内面積を「3261坪(10,763u)」としている。逆算すると、同書は1坪=3.3uの近似値で換算していることになる。

 いちばんありがちなのは、古い時期の面積は、もともとの「1町」とかのガバッとした数値で、ごく最近になって実測したことで精緻な値に補正されたとかだ。

  

 
2-2-3 A制札(左)定書
 
 

一、 車馬ヲ乗リ入ルコト
一、 鳥類ヲ捕獲スルコト 
一、 樹木ヲ伐採スルコト 
一、 火気ヲ使用スルコト
  右条々無許可於境内令禁者也
 

幌内神社

 

竣工記念

 本体施工者
 伝統数寄屋造・一般建築設計施工

株求@工務店

奉納品(本体附属) 玉 垣
奉仕社号表・旗竿基礎移動

平成十六年九月四日

  さて、この年8月に国道のセットバックと、これに伴う社頭の諸工事が実施され、9月3日に完成。翌9月4日に、新装なった幌内神社のお披露目を兼ね、神社関係者や工事関係者を招き、制札や由緒記の修祓式を執行した。式が終わると10時から秋の例大祭だ。しかもこの年は幌内開基110年のアニバーサリーイヤーだった。

 ところが制札を整備したわずか4日後とんでもない事が!
 萩工務店は「しろくまホーム」の名前で長沼で営業中。

  

 
2-3 鳥居
2-3-1 F鳥居
 参道正面の鳥居は明神鳥居タイプ。新しい。
 神額も綱も新しいものに見える。
 
 裏にまわってみると、鳥居の脚部に文字があった。
奉献   第十八区
 幌内神社 
 協賛
為神社創建百十周年記念  平成十七年六月建立
 
 平成17年=2005年。ざっと築16年。神社の鳥居としてはピカピカの新品といっていい。にしても、開基110周年記念で社頭のもろもろを新調してから1年も経たずに鳥居を新しくしたとは・・・
 現地ではサッパリわからなかったが、実はこの鳥居、石でできているのではない。
 京都・ 井筒製の硬質樹脂製鳥居である。石に見えるのは、御影石調高級焼付塗装である。注連縄もポリプロピレンだ。モダン!

  

2-3-2 ㉕鳥居塚
 境内の左側、参道からは少し離れた木々の間に、ちょっと不思議な形のモニュメントが一基ある。

鳥居塚

 由緒
 昭和二十四年氏子中協賛により建立
奉献の明神型鳥居が、平成十六年九月八日
台風十八号日本列島縦断日本海を北上
暴風圏に入り(札幌最大瞬間風速
五十一米)風圧に勝てず未曾有の爪痕を
残し倒壊五十五年の役目を終える
その砕かれた石山軟石鳥居の永久の
休み場として埋蔵
 史跡 鳥居塚と号す
        平成十七年六月卜日

幌内神社

 平成16年(2004)9月に北海道を襲った台風18号「ポプラ台風」は、その暴風によって、台風に不慣れな北海道に大きな被害をもたらした。
 沼沢地を埋め立ててつくられた長沼の町は低平な地勢で、風を遮るものがない。そこを暴風が吹きぬけ、町内だけで54箇所の建物が全壊した。そして風は町の東の端の馬追丘陵にぶつかって荒れ狂った。その結果、幌内神社の鳥居が倒壊したのだった。
 歩道に土地を提供し、社頭をきれいに整備して、開基110年の祭礼を盛大にやったのは平成16年9月4日。台風来襲はそのわずか4日後だった。当時の記録によれば、従前に道路に面していた大樹を伐採したことで、これまで奥で守られていた木々が新たに道路に面することになり、強風に耐えられずに境内の樹木にも被害が出たそうだ。

 倒壊した旧鳥居は、昭和24年(1949)に改築された石造大鳥居だった。「石山軟石」というのは、札幌市南区の石山で産する石のこと。建立時期は戦後間もない頃で、物資不足で相当な苦労があったそうで、その労苦を偲び後世に伝えるためにこうした塚を築いたとのこと。旧鳥居の形式については資料により少々の差異があり、「明神形」とするものと「八幡形」とするものがある。明神型と八幡型はよく似ているのだが、明神鳥居は一番上の笠木がちょっと反っているのに対し、八幡鳥居は一番上の笠木の反りがない。
 北海道はもともと台風の少ない地方で、たまーにでかい台風が、温帯低気圧に堕ちないまま北上して津軽海峡を越えると、台風が珍しい道民はちょっとテンションあがるのだ。でもたいてい、大したことは何も起きずに終わる。 
 だが、平成16年(2004年)の台風18号は、九州・瀬戸内地方に大きな被害を出したあと、日本海を北上しながらさらに勢力を強め、9月8日には北海道の西側をかすめて宗谷海峡に達した。札幌でも風速50.2メートルを記録し、北海道大学の名物だったポプラ並木を薙ぎ倒したので、北海道ではこの台風を「ポプラ台風」と呼んでいる。 
 古い鳥居を新しくすることはよくあるし、台風で鳥居が倒壊するというのもたまにはあるだろう。だけど、倒壊した鳥居をこうして残し弔うというのは珍しいのではないかなあ。まして、これを史跡とするのはなかなかレアじゃないかなあ。。
 

  

2-4 参道
2-4-1 参道と石碑群
 社殿前の石段まで、およそ100メートル。境内には多数の石碑がある。手前から順番に詳しく眺めるとなかなか先に進めないので、ここではひとまず社殿へ向かって先を急ごう。
 この石燈籠一対(T)はMN「石燈籠」参照。昭和63年(1988)建立と、比較的新しい。全体的に損傷もほとんどなく、角もカッチリ。
 石燈籠の陰になるところには、手水鉢O(大正11年)とK神苑大石(昭和42年)がある。
 
 
 さきほどよりも背丈のある石燈籠一対(U)PQがみえてきた。これは大正2年(1913)製で、幌内神社の境内のなかでは最も古い時期のもののひとつだ。

  

 
2-4-2 ㉗土俵(跡)
 石燈籠PQを過ぎたあたりの参道の右側に、土俵の痕跡がある。
 土俵の跡として残っている起伏は、O型ではなくC型またはΩ型、馬蹄形の気がする。大正時代の中頃は、ここで村の学生や青年団が剣術や銃剣術を習ったという。
 祭りのときは、広大な境内を利用して、障害物競走とかをやっていた。春季祭では、境内地内で学校や青年団が模擬演習を行い、神社前で白兵戦や行進を実演したという。
 
 現在の境内面積は、往時の4分の1ほどになっている。戦前は土地の寄進が相次いで、明治の終わり頃には6町歩(約60,000u≒18,000坪)の広大な社地をもっていた。戦前だから、神社が農地を所有して小作農に貸し付けており、そこからのあがりは神社の収入になっていた。終戦のときにGHQによって国家神道が廃止され、こうした農地所有制度も禁じられ、土地は没収されて農地解放のときに自作農に与えられたそうだ。
 
 上側から眺めると、C型の窪地に見える。手前の高い側には排水溝もある。

  

 
2-4-3 石段
 まもなく、石段に行き当たる。その左右には、石段を守護する狛犬一対が鎮座する。狛犬は昭和12年(1937)奉納。
 「石段」と表現してしまったけど、正確にはコンクリート製。昭和2年(1927)に整備されたもの。それ以前はどうだったのかは直接伝わらないが、おそらく石段だったのだろう。
 石段のうえには石燈籠一対(V)㉑㉒。大正2年(1913)4月の銘がある。『続幌内神社史』(2006)内では、銘どおり大正2年建立と記すページと、明治34年の建立と書くページがある。どちらにしても、ふつうに見学できるものとしては、境内で一番古いものだ。
 

  

2-5 社殿
 拝殿は大正15年(1926)改築のもの。ざっくり築95年ということになる。向拝付・入母屋造、幣殿とあわせて20坪5合(約67.77u)。向かって左にはスチール物置がみえる。この写真ではわかりにくいが、向かって右には灯油タンクが半分みえている。
 現在の社殿は、何度かの増築、移築、改築を経た姿だ。
 明治27年(1894)に当地ポロナイに開拓者が入植、彼らは神社建立を立案し、資金を集めた。明治29年(1896)に建築に着手し、まもなく小祠が完成した。確実な記録があるわけではないが、幌内の住民による推定では、このとき営まれた小祠は現在の公民館のあたり(いまの社殿よりも100メートルほど南西)にあったのではないかという。

 
 社殿をほぼ真横から眺めるとこんな感じ。北海道ではポピュラーな形式だが、後方の本殿の全体を覆う格好で建屋があるので、外からは本殿を眺めることはできない。その本殿部分の基礎は土盛りされており、もともと地面が少し高い位置に本殿があっただろう。
 こう見ると、拝殿、幣殿、本殿部の繋がり方がわかる。
 裏から見ると「本殿」収納部の形状がよくわかる。

 明治33年(1900)に、新たに向拝柱造の「外祠宮」が建立された。これも当初は公民館の敷地付近にあったと推定されている。現在は、社殿内に移されている。
 
 
 鈴とその緒(三色布網掛・六角桐付・奉納彫刻入房本麻造り)は、昭和47年に奉納されたもの。奉納者は札幌市の松本成吉という人物で、もとのポロナイ在住者。神社からは祭具奉納の感謝状を送った。
 
 
 

  

2-6 摂末社
 現地には摂末社を思わせるものはなく、文献にも摂末社に関する記述はない。「無し」ということだろう。

 摂末社ではないのだが、同じポロナイ地区(18区)にはかつて「秋葉神社」があった。創建は明治30年(1897)と、幌内神社に匹敵する古さだ。勧請を行ったのは、ポロナイ地区への最初の入植者の一人で、幌内神社の創建にも関わった、中野軍助という青森県出身者。斎主は千歳神社の社司、溝口五左ェ門だから、これも幌内神社と一緒。秋葉神社は、戦後の昭和31年(1956)にお隣の17区へ移転、勇立地区の八幡神社と合併し、現在は真生神社として祀られている。

  


 
3 文化財
3-1 石狛犬
 石段の手前に狛犬一対。
 向かって右が「阿」、左が「吽」の正位置だ。
 
 
 

  

 
3-1-1 R狛犬(右)「阿」型
 こちらは右側の狛犬。
 
 
 顔は割と怖い。この角度で見ると、耳がヤギの巻角みたいで、古代キリスト教の悪魔像みたいでエクソシストのオーメン。からだの模様が666になってそう
西
 
 真横から見ると案外寸詰まり
 このアングルだとお尻に*があることがよくあるんだけど、今回はなし!
 
 急にガチなこと言うけど、前脚と後脚の長さが違いすぎる。これだとまともに立つことも歩くこともできないやつ。二本脚で直立歩行するなら話は別。
 これはただの傷なのか、それとも何か文字を刻んであるのか、わからない。
昭和十二年四月建之
大阪大熊組
 「大阪」の右上に「、」があって「犬」みたいになっている。ほんとうに犬なのか、何かの悪戯なのか。たぶん「大阪」だろうと思うけど、判断がつかない。
 

  

 
3-1-2 S狛犬(左)
 左側の狛犬。「吽」タイプ。
 
 
 右側の「阿」が目を剥き牙を露わにして相手をあからさまに威嚇してくるチンピラ風情なのに対し、こちらの「吽」からは知性を感じる。なんとかヒトの言葉が通じそうだ。
西
 
 
 
 
昭和十二年四月建之
大阪大熊組
 昭和12年=1937年。

 こちらにははっきりと「大阪大熊組」と書かれていた。やはり「阿」の「犬阪」はイタズラか何かだろう。
 

  

 
3-1-3 狛犬の詳細
 
 「大阪大熊組」というのは、文字通り近畿の大阪市にある「大熊組」という企業。そこの大熊清衛門という方が奉納者だそうだ。清衛門は、大正2年の石燈籠の寄進者にも名を連ねている。なんでわざわざ大阪から狛犬を奉納したのかというと、この大熊さんの父親が、明治末期にこの神社の総代の長だった御仁。その長男が大阪に出て起業したのが大熊組なんだそうだ。

 『幌内神社百年史』や『続幌内神社史』によると、この総代長の名は「大熊竹次郎」。明治43年から44年まで一年間総代を務めた人物で、神社が公認を得た明治44年5月18日の文書で氏子総代として名を連ねている。神社の土地の登記簿を確認すると、大正2年(1913年)3月31日の登記時には、神社総代の筆頭として大熊竹次郎の名がある。

 ところが『続』には大熊「桑」次郎と記しているページもある。きっと誤植だろう。『百年史』には、明治末の大熊竹次郎氏とは別に、大正末の大正15年に役員だった「野村桑次郎」という人物がいる。なにか混ざってしまったような予感。

  

 

3-2 石燈籠
 幌内神社の境内には3対の石燈籠がある。
 (T)石階段の上、拝殿の前。㉑&㉒。大正2年(1913)4月のもの。
 (U)参道の中ほど。P&Q。大正2年(1913)9月のもの。
 (V)参道の入口側。M&N。昭和63年(1988)6月のもの。
 
3-2-1 ㉑石燈籠T(右)
 
西
大正二年四月
冨士長次郎
石田善次郎
 ※大正2年=1913年
石工
栗山
 

  

 
3-2-2 ㉒石燈籠T(左)
奉納
 こちらの石燈籠は、いちど竿の部分で折れたのを接いであるようだ。
 しかも2箇所で破断したように見える
 裏から見ると、モルタルで接いだのがわかる。
 ※2022年7月に訪問した他サイトを見ると、この石燈籠がまた壊れている様子がわかる。
 一箇所はさらに欠け、脱落している
 
未開地壱万坪
 寄附人
 平沖又作
 明治三十五年
 この石燈籠は明治35年製なのではなく、もっとあとになってから建立したもので、「明治35年に土地の寄付をした」ことを後世に伝えているそうだ。
大正二年四月
大熊竹次郎
平沖又作
 この大正2年(1913)4月が実際の石燈籠の奉納日なんだそうだ。大熊竹次郎は、狛犬のところででてきた人物。かつての幌内神社氏子の総代であり、狛犬を奉納した大熊清衛門の父である。名前の文字の一部が水色になっている。昔なにか彩色をしていたのか、それともイタズラか。
 

  

 
3-2-3 P石燈籠U(右)
 
 
 
 
 この石燈籠は、「地域住民協賛」で建立されたもの。名が刻まれている人物のうち何人かは、「明治28年に最初に幌内地区に入植した人」として、入植記念碑にも名が見える。
 

  

 
3-2-4 Q石燈籠U(左)
     
大正二年
九 月
  建之
 

  

 
3-2-5 M石燈籠V(右)
 
 こちらの白御影石の燈籠一対は、参道の入り口に近いところに置かれている。見るからに、前の2つの石燈籠とくらべて「真新しい」感じがある。
     
昭和六十三年六月
米寿祝
 この石燈籠は、神社の参詣者からすると最初に目にする石燈籠だけど、社殿からみれば一番離れた場所にある。かつて大正時代に石燈籠2対を境内に置いたときに、今後石燈籠を追加する場合には、礼儀として、本殿から遠ざかる場所に(参道的には入口側に)置くよう、旧役員のあいだで申し合わせがあったそうだ。

 昭和63年(1988)の奉納ということは、ほかの2対の石燈籠が大正2年(1913)製だから、石として75年の差がある。現在令和4年(2022)では、この石燈籠もすでにざっと築34年だから、「真新しい」く見えるというのはちょっとアレだし、75年の50%以上経過しているのだから、もっとこう、歳月を感じさせる朽ち方をしていてもわるくないと思うのだが、ピッカピカである。石材が違うのかも。この石燈籠は白御影石。
 

  

 
3-2-6 N石燈籠V(左)
 
     
東本願寺札幌別院
華講員
明治三十四年生
堀井秀吉
 明治34年=1901年
 奉納年の昭和63年=1988年
 差し引きすると、満年齢だと87歳にしかならないようだけど、米寿のお祝いだそうだから、数え年で88歳ということなんだろう。奉納者は、かつて幌内神社の役員を27年間務めた方だそうだ。このあと9月に宮司から感謝状が送られたとのこと。
 

  

 
3-2-7 神苑大石
 石灯籠のとなりにある巨石は神苑大石と呼ばれている。
 この大石は、昭和42年(1967)に田島家から奉納されたもので、日高の穂別で産した穂別石。田島家は、大正時代から昭和にかけて、田島弥三郎が幌内神社の役員を務めた。その息子の田島敏夫が札幌へ転出することになり、記念に奉納した。
 

  

 
3-3 手水鉢
 境内には手水鉢が2基あった。
 幌内神社の境内には3対の石燈籠がある。
   
3-3-1 ㉓手水鉢T
 社殿前の石段を登ったところ、神木の横にある手水鉢。
 
 
大正十二年四月
横田藤十郎
八十一才
 大正12年(1923)4月。ざっと100年ものだ。よく「風雨に曝され」というが、北海道の場合、冬場の凍結と融解のほうが、石にはダメージを与えるだろう。
 彫られている字を見る限り「大正二年」(百歩譲って十一年)と読んでしまうのだが、『続幌内神社史』によると12年なんだそうだ。「横田」姓の方は幌内神社のあちこちに出てくるので、開拓者の一人なのだろうし、おそらく地元の記録では年齢も判っているだろうから、逆算すれば建立年は確かめられるのだろう。
 
 水は水道から供給されていることがわかる。これは昭和45年(1970)9月16日に整備されたもので、隣接する長浜牧場の敷地内のボーリング揚水施設から好意で分水させてもらい、水道管は氏子総出で土を掘り埋設したそうだ。水は隣接する公民館にも利用されている。
 水道の左側のこれがなんだかわかるだろうか。
 亜熱帯の本州地域の皆さんは知らないかもしれないが、亜寒帯の北海道ではどこの家庭にもあるごく当たり前のもの。冬場に水道管が凍結して破裂するのを防止するための水抜きレバー(吸気弁)だ。
 冬が近づくと、このレバーをくりっとあげる。そうすると水道管は根っこのところから止水されるので、あとは蛇口をあけて、管に残った水だけを排出してしまえばいい。
 

  

 
3-3-2 O手水鉢U
 参道の中ほどにあるのがこちらの手水鉢。
 こんな感じで石燈籠N(昭和63年)の陰の、少しひっこんだ位置になっている。
 石材は「登別赤石」。ググってもよくわからなかった。登別というぐらいだから、きっと温泉で有名な登別産なのだろう。「赤」くはみえない(緑にみえる)けども。
 斜めに写っているようにみえるが、実際、傾いているのだ。
 側面や背面は鮮やかな緑の苔むし。
 
 
在住二十五年記念
   牧野善之助
   大正十一年八月三十一日
 牧野姓の人物は幌内史・幌内神社史にほとんど見当たらない。大正11年(1922)に「在住25年」ということは、明治30年(1897)前後に入植したということ。ポロナイ地区の開基元年が明治28年(1895)。
 調べてみると、この牧野善之助氏は長沼町の中心市街地方面の住人なんだそうだ。入植25年記念の寄贈をしようとしたのだが、大正11年時点では、長沼中心市街にある長沼神社はまだ正式創立前で、幌内神社が長沼町で唯一の公認神社だった。そんなわけで、わざわざ12kmも離れた幌内神社に手水鉢を奉納したとのこと。
 社殿前の㉓手水鉢Tを一年遅れで幌内民が奉納したのは、遠方の部落のヨソモノが幌内神社初の手水鉢を奉納したのをみて、「しまった!わすれてた!」と思ってのことじゃないだろうか。だから、わずか1年差で手水鉢があり、あとから地元民によって奉納されたほうを社殿前に置いているのではないかなあ。妄想だけど。
 

  

 
3-4 石碑類
 幌内神社の境内は石碑の宝庫。数え方にもよるけども10基を超す。その大半はポロナイ地区の開基○周年記念の石碑で、開拓以来の住民の団結の堅さを物語っている。
3-4-1 E開村25周年記念碑
 社頭、大鳥居と並んで目立つところにある大きめの石碑は、開村25周年の碑。大正8年(1919)建立。
 この左の石碑がそれ。
 建立から100年が経っており、字を読むにはやや苦労する。字が難しいのと摩耗との両方の意味で。
 石碑の右上は、いちど欠けたのを接いで補修してある。

本道拓殖之振興計國家之富強而在於増進衆庶之安寧幸福矣
夙招來移民遂行是經畫者實不対干此意往昔幌内部落樹林鬱
蒼委於熊羆之跋扈荒蕪不毛之地明治二拾八稔廣嶋縣人新谷
他人造平野菊藏兼澤辨吉福井縣人縫田與藏福岡縣人片小田
伊吉石川縣人久保與三次郎冨士長次郎矢嶋佐吉富山縣人吉
田宅次保井仁太郎徳嶋縣人武田民藏青森縣人中野軍助三上
權太宮城縣人谷勝次郎等相前後而移住千辛萬苦忍交通之不
便耐物資之缺乏勤倹力行専従於開墾之事爾来見住民之増加
克和衷協同勉於風紀之改善興人心之作興而擧優秀之治績以
樹子孫百年之計者洵可謂先達諸士之功労偉大矣當行開拓弐
拾五稔記念祭叙其大要刻之於碑長所以傳於後昆也

大正八年九月一日 北海道廳支廳長 正六位勲五等 増田彰 撰書

(意訳)
本道の拓殖の振興を計るのは、国家の富強に在るとともに、衆庶の安寧と幸福を増進する。
早くからの移民の招来の遂行は、これ計画の成果、此の意味にほかならない。
往昔、幌内部落は、樹林は鬱蒼とし、クマが跋扈し、荒れ果て雑草が生い茂る痩せた地だった。
明治28年、広島県人の新谷他人造・平野菊蔵・兼沢弁吉、福井県人の縫田与蔵、
福岡県人の方小田伊吉、石川県人の久保与三次郎・冨士長次郎・矢島佐吉、
富山県人の吉田宅次・保井仁太郎、徳島県人の武田民蔵、青森県人の中野軍助・三上権太、
宮城県人の谷勝次郎、福島県人の斉藤辰次郎、等が相前後して移住した。
千辛万苦を忍び、交通の不便や物資の欠乏に耐え、勤倹力行し、開墾の事に専従した。
爾来、住民の増加を見ることになり、よく和衷協同し、
風紀の改善と人身の作興に勉め、優秀の治績を挙げた。
以って、子孫百年の計を樹立した者はまことに先達諸士の功労偉大というべし。
開拓25年記念祭を執行するにあたり、その大要を述べ、これを碑に刻み、
長く後昆に所伝する。

大正八年九月一日 北海道庁空知支庁長 正六位勲五等 増田彰 撰書
 現代のセンスからすると新谷「他人造」という名前は何かの間違いじゃないかと思うが、ちゃんと他の石碑類にも名を刻まれており、間違いではないのだ。これは新谷他人造たにぞうと読むんだそうだ。「しんたにたにぞう」だとタニタニ続きで「新谷谷造」になってしまうので、違う字をあてたのだろうか。
 
 
 これが大正8年に開基25周年の碑を建立した時の地区住民の名。
 最初の15人のうち、縫田與蔵、冨士長次郎、新谷他人造、矢島佐吉の4名の名はそのまま残っている。「谷口勝次郎」ではなく「小谷勝次郎」がいるのだが、これは別人なのか・・・?ほかの名は見当たらない。亡くなったのか、新天地に向かったのか、あるいは開墾の厳しさに転出したのか・・・
 

  

 
3-4-2 G開拓60週年紀念碑
 「週」も「紀」も誤変換じゃあないんだよ・・・
 今、「周年」「記念」と書くのがふつうで、小学校の国語の時間に「週年」「紀念」と書いたら馬鹿な教師が大喜びで「はい間違い〜」と小踊りするはず。そいつらに「本を読め、勉強しろ」と言ってやりたい。
 大鳥居のある社頭の正面、「幌内神社」の社号標の蔭になってしまっている小さめの石碑
 横から見るとこんな感じで、石碑がいくつも横に並んでいる。(広角レンズの端の方に写り込んだのを切り出してるので、みんな斜めってみえる)
 白い石碑と、そのすぐとなりに円柱形の石碑がぴったりと建っている。これが開拓60周年の記念碑で、左の白い方が記念碑本体、右の円柱は多くの名前が彫られている。
開拓六十週年紀念碑
 台座が黄色く塗装されたみたいにみえる、これはなんなんだろう。何かの塗料が経年劣化で黄色く見えるようになっているのか?それとも苔とかがこういう色合いになっていくのか?
昭和廿九年九月建之
 昭和29年(1954)9月。長沼町十八区(=幌内)の開基60年。開基元年は明治28年(1895)なので、1954-1895=99になるんだけど、1895が「1年目」だから、1954は60年目。
長沼町 田中
 

  

 
3-4-3 H開拓60週年紀念現住者氏名
 開基60週年紀念碑のすぐ隣に近接して建っている、円筒形・凝灰岩的な石碑。円筒の周囲ぐるりに名が刻まれている。
開拓六拾週年紀念現住者人名
 

  

 
3-4-4 D開拓70年記念石
 社頭の鳥居の左隣にある石碑は開基70年記念碑。
開拓七十年記念石
 長沼町長
  中川清 謹書
 
竿石寄贈人
 武田繁
昭和三十九年九月
建之
 この記念石碑は昭和39年(1964)に建立された。この年の北海道は、春から初夏にかけて低気圧が張り出し、初夏から秋まではオホーツク海の高気圧が張り出し、歴史的な冷害に見舞われた。水稲は93%、マメ類が80%以上が不作となるなど、農業の被害総額522億円と記録されている。そんなわけで70周年を記念するにも多くの農家は費用を賄えず、神社の資産から3万円を支出して記念行事一切を質素に執行したとある。
 台座になっている大石は、この石碑建立のためにわざわざ馬追山の山麓にあった自然石を搬出したもので、およそ1.9トンの重量がある。運搬も地元の有志によって行われた。寄贈者は千歳市在住の人物となっている。
 竿石は地元の畑から出土したもので、メンヒルと呼ばれるアイヌ時代の墳墓か何かの遺物だそうだ。武田家で庭石にしていたものを供出し、これに栗山町の石工が文字を刻んで碑とした。
 これも石の上部が一度折れ、接ぎ直したようにみえる。
 

  

 
3-4-5 I幌内開基80周年記念碑
 幌内開基
 八十周年記念 
  阿達忍謹書
 阿達忍は幌内地区の功労者。昭和15年から長沼町議、昭和22年(1947)から昭和38年(1963)まで4期にわたり長沼町長を勤めた人物。石碑が建立された昭和49年(1974)時点では公職を退いている。
幌内開基80周年記念奉賛会
昭和49年11月吉日建之
施工 苫小牧市鈴木石材店
 開基80周年となる昭和49年(1974)、9月20日の例大祭で記念式典が営まれた。
 

  

 
3-4-6 J幌内開基90周年記念
 
幌内開基
九十周年記念
長沼町長 村山敏文謹書
 
 裏面は第18区(=幌内地区)の現住者名
 
幌内開基90周年記念奉賛会
昭和59年10月吉日建之
設計施工 広島町小川石材店
 開基90周年の記念祭は昭和59年(1984)10月10日に営まれた。この年に社殿前の石燈籠の台座の補修や、本堂向拝所の柱の交換も行われた。
 

  

 
3-4-7 L幌内開基100年記念碑
 参道を挟んで左右に「百年」碑が並ぶ。2碑が記念する年はビミョーに違っていて、左は「神社の鎮座100年」、右は「集落の開基100年」だ。建立年は右のほうが2年早い。
 

風雪百年

長沼町長 板谷利雄謹書

 これは平成6年(1994)の幌内開基100周年の記念碑。
 
幌内開基100年記念
幌内の開拓は明治二十八年新谷他人造
氏外十数名の入植に始まる
以来多くの先人達が昼なお暗い原生林
と茫漠たる馬追原野の開墾に鍬をふる
いたび重なる冷害水害にもめげず厳寒
の風雪にも耐えて実り豊かな幌内の地
を築き上げました
百年を迎えた今日蔬菜の一大生産地と
なり山すそを見れば乳牛の群れが悠々
と草をはみはるか眼下を眺めれば黄金
波うつ稲作地帯となりました
ここに開基百年を迎えるにあたり繁栄
の基礎を築かれた先人の偉業を讃え
御労苦を偲び更に二世紀に向けて無限
に飛躍せん事を部落住民一同誓い
記念碑を建立する
  平成六年九月
    幌内開基百年記念奉賛会

設計施工 広島町 有限会社小川石材工業

 

  

 
3-4-8 K幌内神社鎮座百年之碑
 幌内神社の前身、八幡神社の社殿が完成して創建されたのは明治30年(1897)のことだった。平成8年(1996)年は、9月6日に「御鎮座百年臨時大祭」として盛大な祭礼が営まれた。『続幌内神社史』には当日の様子が5ページにわたって詳述されている。花火、稚児行列、公民館(18区会館)の落成記念式典、社殿屋根の葺替え、役員の表彰など多くのセレモニーが行われた。
 
 
幌内神社の歴史を顧みれば、明治二十七年十二月に移住者等が
神社創建の計画を立て永続資金を募り、境内地の選定確保造成
等に着手、ホロナイの略中央に位置し、柏の巨木が繁茂する原
生林に覆われ、長都沼・馬追沼と馬追原野の各所に点在する大
小の沼を眼下に見下ろし、遥か近隣の村落と札幌山系を一望す
る土地を選び社殿を建立明治三十年守護神として譽田別神を奉
斎し八幡神社と号し、茲に御鎮座された。
明治三十五年平沖又作氏より神社用地として三町歩(二九、七
五一平方米)余の寄附を受け、更に三町歩余の土地を求め、拝
殿を建築。境内外地共管内屈指の広大な土地を有する神社とな
った。明治四十三年本殿改築、豊受姫神を合祀し、幌内神社と
社号を改め、明治四十四年五月創立許可を受け無格社の社格を
得る。大正十五年御本殿・幣殿・拝殿の改築を行い、現在の荘
厳なる御社殿が完成され、昭和十九年九月目出度く村社に列格
される。終戦を迎え、昭和二十一年四月宗教法人法による神社
神道の神社として承認され、神社本廳に所属した。昭和二十六
年九月自作農創設特別措置法に伴い、社有地は一〇、七六三平
方米となり現在に至る。
本日茲に幌内神社御鎮座百年臨時大祭と奉祝行事が十八区会館
落成式と共に盛大に挙行されました事は、これ偏に歴代宮司の
御尽力と厳しい自然と戦い開拓に力を注がれた先人の方々と歴
代区役員を始め神社役員並に氏子・崇敬者の皆様が敬神崇祖の
誠をもって一致団結し神社と幌内の興隆に尽くされた賜であり
篤く謝意を表するものであります。この鎮守の社は神々と共に
先祖の御霊が遊び給う処であり、人々の心の拠り所として安ら
きを請い願い、今後如何なる変貌が有ろうとも先人の偉業を汚
す事無く祭祀を継承しこの慶びを契機として幌内の更なる発展
と各位の御健勝を祈念申し上げます。
平成八年九月吉日

幌内神社 宮司 菅原邦夫謹書

 

  

 
3-4-9 Cみどりの百景づくり
 
みどりの百景づくり
登録第33号 屋敷林 境内林
 「みどりの百景づくり」は長沼町が景観行政の一環として推進していた、緑ある風景を記念した碑。平成8年(1996)に開始し、個人の庭とかも対象だったのだが、目標の100件を超えてしまって、今はやっていない。
 

  

 
3-5 忠魂碑
3-5-1 ㉖忠魂碑
 神社境内の南の角に忠魂碑がある。
 忠魂碑の前方の草が丁寧に刈られていて、神社の参道とは別のアプローチになっている。土地の登記簿や公図の上では神社境内敷地と一体(一筆)ではあるけども、見かけ上は別の敷地のようにもみえる。この手の忠魂碑ではしばしばあることだけど、戦前は神社と一体でよかったものが、戦後の状況下では神社と一体では塩梅がよろしくないといって、少し離れた場所になっていたりする。
忠魂碑
陸軍中将 田中義一 書
大正八年九月建之
 この忠魂碑は大正8年(1919)9月、幌内地区の開基25年記念のときに、在郷軍人会らによって建立された。揮毫の田中義一陸軍中将は、明治43年に在郷軍人会を創設した人物で、大正8年当時は陸軍大臣だった。(のちに陸軍大将、立憲政友会総裁となり、総理大臣にも任命された。)
 忠魂碑の建立以後、毎年の例大祭では、幌内から出征して戦没した兵の遺族を招いて招魂祭を執行したという。
 戦没者として名を刻まれた人物でいちばん古いのは、「明治37年(1904)11月30日」戦死の陸軍歩兵上等兵の方。没地は「金州赤坂山」。つまり、日露戦争の重要な局面だった旅順要塞戦の二〇三高地の戦いだ。この戦闘では、北海道の旭川を拠点とする「北鎮部隊」(第七師団)が投入された。
 「金州」というのは中国北東部・遼寧省大連にある地域名で。「赤坂山」は二〇三高地の頂上から北東に数十メートルの地点。中国名を「老虎溝山」とよぶ。日本軍は、旅順港内に立て籠もるロシア艦隊を砲撃するため、旅順港を眼下に見下ろす二〇三高地の奪取に固執した。何の策も持たなかった指揮官は、機関銃を備えた山上のロシア軍要塞に向けて、正面から兵をただ突撃させた。この戦いで日本兵5000名が戦死、12,000名が負傷した。戦闘が始まってから4日目、指揮官は側面を狙って赤坂山(老虎溝山)方面に兵を送った。彼らは赤坂山の占拠に成功したのだが、なぜか司令部はそこに増援を送らず、せっかく占領した赤坂山をロシア軍に奪い返されてしまった。なぜ援軍を送らなかったのかは諸説あり不明である。
 結局、日本軍は12月5日にようやく二〇三高地の奪取を達成した。作戦成功の理由は諸説あるが、ロシア軍側にも補給の問題があったことを一因として挙げる研究者が多い。冬に行われたこの戦いでは、ロシア兵の食糧事情がわるく、新鮮な野菜の不足からビタミン欠乏に陥った兵の多くが壊血病に罹患したのだという。日本兵の食糧事情もロシアと変わらなかったのだが、日本軍は大豆を発芽させてモヤシをつくり、それでビタミンCを確保した。ロシア文化にはモヤシを栽培してビタミンをとるというのがなかったのだという。

 その次に名がある方は、綱に隠れて彫字は見えないが、「明治38年(1905)9月5日」戦死の補充兵陸軍輜重輸卒(補給部隊)の人物。没地は「清国盛京省𠯫叭屯」。「盛京」というのは現在の瀋陽市(札幌市の姉妹都市)のことで、戦史に興味がある日本人にわかりやすくいうと奉天のことだ。でも「𠯫叭屯」がどこなのかわからない。現代中国語では「瀋陽市」は「沈阳市」と書くそうで、なかなかわからん。明治38年9月5日は、日露戦争終結のポーツマス条約の締結日。その日に戦死するというのは気の毒だ。
 
 その次からは、戦没した日付順ではなくなっている。
 この面の左端には、昭和6年(1931)11月18日に満州チチハルで戦死した方の名がある。時期的には満州事変勃発(9月18日)から2ヶ月にあたり、関東軍はこの翌日(11月19日)にチチハルを占領した。
 この面の右端には、昭和15年(1940)3月30日に日中戦争(支那事変)で亡くなった方。ここから先は、いわゆる太平洋戦争の戦没者がずらーっと並ぶ。中国各地、東南アジア各地、マーシャル諸島、ガダルカナル、沖縄、本州西南海、などさまざまだ・・・。
 

  

 
3-6 史跡
3-6-1 ㉔メンヒル(長沼町文化遺産)
 社殿の右側に、地面から何かニョロニョロ4、5本生えている。
 大きさも形も不揃いだが、なにか明らかに人工的なもの。

メンヒル(立石)

俗に船つなぎ石といわれているが、実は縄文時代後期の人達の墳墓に使用したものらしい。この石は、支笏湖付近の安山岩等で馬追丘陵では産出しない。

長沼町教育委員会

 これはアイヌの遺構で、いわゆる墓碑ではないかと考えられている。
  「メンヒル」という呼称自体はケルト語で「長い石」を意味する。イギリスの先史時代の遺跡(ストーンヘンジ)とかにあるやつだ。世界的には、先史時代から青銅器時代あたりまでに墓標としてみられるもの。だがこれは何の意味があったのかは判っていない。まあ世界では墓標だし、アイヌもそうじゃね?ぐらい。
 この細長い形状は、多少は人為的に加工したとしても、基本的には概ね自然の状態でこういう石だったと考えられている。この辺りでこういう石が出るのは支笏湖の湖畔や湖底にある、火山噴火によってできた柱状節理であり、この石も遠い昔に支笏湖方面から運ばれてきたのだろうとみられる。
 どこかで、幌内神社のメンヒルの置き方は表裏が逆だ、みたいな話をみかけた気がするがよくわからない。
 これらの立石(メンヒル)は、ポロナイ開拓地から出土したもの。大正2年(1913)、境内の整備充実を行うにあたり、青年会から部落内のメンヒルを保存するべきという意見が出て、ここに陳列保存した。平成になって、メンヒルは長沼町の文化遺産に指定された。
 
 ここから6キロほど南に行くと、「キウス周堤墓群」と呼ばれるアイヌの墳墓遺跡があり、国の史跡に指定、世界文化遺産にも登録されている。そちらは最大75メートルもある環状の築堤が多数確認されていて、紀元前1200年ごろのものと推定されている。こちらのメンヒルは遺跡というよりは遺物という感じだが、キウス周堤墓群もこのあたりの湖沼岸に築かれたものだ。
 

  


 
4 歴史
4-1 郷土史
4-1-1 蝦夷地の巨大沼
 元禄時代に作成された北海道の地図を見てみよう。
 現在の主な地名を書き込むとこんな感じになる。
 中央に描かれた大きな湖を拡大すると
 川の上流に「ゆうばり」(夕張)、南東に「志こつ」(シコツ)と記されている。「シコツ」は現在の千歳のこと。(シコツはアイヌ語で「大きな窪地」の意味だというが、日本語の「死骨」に通じて縁起悪いべさ、ということで、縁起の良い「千歳」という地名がつけられた。)
 そして湖の真ん中には、「ぬま四里四方」と書かれている。「四里四方」をマジと解釈して面積を算出すると、15.7km×15.7km=246平方km、これは霞ヶ浦の1.5倍の大きさであり、日本で2番めに大きな湖ということになる。これが、明治時代のはじめ頃まで長沼にあったという巨大湖だ。「長沼」という地名は、この湖に由来するという。

 江戸時代末期の安政4年(1857年)、松浦武四郎が蝦夷地を探検した。武四郎は、石狩川を船で遡ってこの巨大湖に入り、対岸の馬追丘陵の裾野の岸辺に降り立った。そしてその地を「ポロナイ」と記録した。

  

 
4-1-2 ポロナイ開基は千歳から
 明治の中頃、この巨大湖の湖岸で開拓者の入植が始まった。まず、明治20年(1887年)に湖の北岸に最初の開拓者が入った。これが長沼町の開基とされている。この地に入ってきた人たちはもっぱら石狩方面からやってきたので、湖の北岸は石狩国夕張郡の管轄となり、由仁に戸長役場が置かれた。
 それから7年後の明治27年(1894年)に、千歳村から湖の南西岸のポロナイに最初の開拓者が入った。これがポロナイ地区の開基である。石碑のところにあったように、「実際の最初の入植」は明治27年だったのだけど、そのときは入植地の様子見程度だったようで、実質的な本格的な入職は翌明治28年(1895年)だったそうだ。そして彼らによって「開基元年は明治28年ということにしよう」と決められた。ポロナイ開拓地は、彼らの出自によって胆振国千歳郡千歳村の番外地となった。
 
 

  

 
4-1-4 ポロナイ開基の15人
 明治22年(1889)、沼沢地の南側に、胆振国千歳村から三川村・由仁村へ至る細道(通称「千歳道路」)が拓かれた。拓かれたといっても、「獣道に等しい」ものだったという。
 明治27年(1894)12月、この道を辿って、千歳村からポロナイへの最初の入植者がやってきた。だから入植当時のポロナイは、「千歳村番外地」と称していた。翌明治28年(1895)春になって、彼らは明治28年を「幌内開基元年」ということにした。最初の入植者は15名だったと伝わる。
 この15名は全員、名前が残っている。彼らの名は開村25周年の記念碑に刻まれている。2名は姓名に脱字があり、1名はまるごと欠けているけれど。彼らのうち11名は明治27年時点での年齢も判明しているが、残る4名は戸籍がなく年齢不明だ。

 広島県 新谷他人造(21)・平野菊蔵・兼沢弁吉
 福井県 縫田与蔵(30)
 福岡県 方小田伊吉(40)
 石川県 久保与三次郎(44)・冨士長次郎(38)・矢島佐吉(21)
 富山県 吉田宅次郎(31)・保井仁太郎(26)
 徳島県 武田民蔵(37)
 青森県 中野軍助(46)・三上権太(48)
 宮城県 谷口勝次郎
 福島県 斎藤辰次郎

 厳密に言うと、最初の入植者は15「名」ではなかったかもしれない。もしかすると彼らの一部は家族持ちで、15「戸」だったかもしれない。あるいは12月という入植時期を考えると、家族は千歳村に残し、翌春に家族を呼び寄せたかもしれない。だがいずれにしても、名前が残っているのは15名だけだ。
 

  

 
4-1-5 ポロナイは千歳か、長沼か
 上で書いた通り、現在の長沼町のほぼ全域は「巨大沼」で、千歳川と夕張川が蛇行していた。明治のはじめに北海道の行政がスタートしたときは、この巨大水域が胆振国千歳郡(=千歳川流域)と石狩国夕張郡(夕張川流域)の境界と定められていた。
 この地域でも開拓がはじまるということになると、胆振国千歳郡と石狩国夕張郡との境界をどこに引くか、というのが問題になってきた。北海道庁はひとまず、全域を四角く区切って座標を示し、南北については「零号」より北側を夕張郡長沼村、「零号」より南側を胆振国千歳郡千歳村の管轄とした。
 長沼の最初の開拓は、巨大沼の北岸・石狩国夕張郡の方面から始まった。仮の役場はとりあえず、隣村の由仁に置かれた。由仁には既に鉄道が通っていたからだ。北岸の入植者たちは、農産物を売るとかのよそへ行く用事があるときは、馬追山脈を越えて由仁へ行き、そこから鉄道で岩見沢経由で札幌に行くのだった。
 少し遅れてポロナイを開基した15人は、千歳村から船でやってきて南岸のポロナイ地区に入植した。ポロナイ地区は零号より南側(座標的には南9号〜南10号)に位置しているし、最初の入植者たちは千歳から船で水域を渡ってきたので、ポロナイは千歳村の管轄だった。だから最初期には「千歳村番外地」と称していた。
 明治の中頃になると、長沼の広い範囲が開拓され、由仁村から独立した自治体とする気運が高まった。すると、零号線より南側の「千歳村番外地」を長沼村に含めるかどうかが論争になってきた。いっときは、北側の夕張郡側と南側の千歳郡側で別々の村にするという運動まで起きたが、明治35年に南北をあわせて夕張郡長沼村とすることで決着がついた。
 しかしその後も、長沼村中心部とは地理的に隔絶されていたし、ポロナイ地区は千歳村との結び付きが強く、「長沼村」とは一線を画して独立した気風を維持したという。現代の長沼一帯は、長沼中心市街地を起点として正方形の区割りを行った条里制のように、道路が規則正しく並んでいるが、幌内地区はこの「条里制」になっていない。
 

  

 
4-2 年表
和暦 西暦 事項 一般史 情報源
嘉永 6 (1853) 7 8 ペリー来航
安政 4 (1857)         松浦武四郎が、長都沼・馬追沼を渡り、対岸ポロナイに上陸    
慶応 4 (1868)         戊辰戦争  
明治         明治天皇即位  
        箱館戦争終結    
2 (1869)         北海道開拓使設置、北海道開拓が本格化  
4 (1871)         北海道神社改正(北海道内での神社行政の開始)    
8 (1875)         千歳の稲荷神社(主祭神豊受姫大神)が郷社に列格    
                     
20 (1887)         長沼開基(北長沼)    
22 (1889)         千歳村から三川・由仁への道路(千歳道路)が開削    
                     
25 (1892)         夕張郡由仁村の外村として「長沼村」設立    
27 (1894) 7 25 日清戦争勃発    
27         千歳村からポロナイへの最初の入植者15名。千歳村番外地と定める。  
12     ポロナイ入植者が小祠を営む(幌内神社の濫觴)
  『幌内九十年史』
    ポロナイ入植者が神社建立を計画   『幌内九十年史』
(旧)『長沼村史』
『北海道神社庁誌』
28 (1895)         ポロナイ入植者たちが、この年を「ポロナイ開基元年」とすることを決める    
        長沼村に戸長役場を設置    
  29 (1896) 2     入植者が神社建立のため永続資金を募る   『長沼町九十年史』
(旧)『長沼村史』
4     入植者たちにより小祠建立、「八幡神社」と号す(無願神社)(※異説あり)   『幌内神社百年史』
2 誉田別命を奉斎し、「八幡神社」と号す(※異説あり)   現地由緒書
(新)『長沼村史』
『長沼町の歴史 上巻』
『北海道神社庁誌』
30 (1897)         誉田別命を奉斎、「幌内神社創設起源」とする(※異説あり)   『幌内神社百年史』
        初代社掌として、千歳村稲荷(千歳神社)神主の溝口五左ェ門を招聘   『続幌内神社史』
                     
32 (1899) 2     神社予定地として三町十八歩(約29,811u)を購入   (旧)『長沼村史』
33 (1900)         向拝柱造の外祠宮を建立。現在は社殿内に本殿として安置。   『続幌内神社史』
                     
35 (1902) 2 15 拝殿を建立、上棟式を執行。建築位置は、現在の国道に面する付近。   『幌内九十年史』
『続幌内神社史』
『北海道神社庁誌』
        平沖又作が、土地一万坪(約33,322u)を寄進   『続幌内神社史』
現地石燈籠台石
                     
37 (1904)         日露戦争開戦  
9     二〇三高地戦  
                     
38 (1905)       横田孫市らが八幡神社鳥居の社額を奉納(現在は拝殿内に保存)   『続幌内神社史』
9 5 日露戦争終結  
                     
                     
43 (1910)         奥の院(本殿)を建立、祠宮を納める。(この奥の院は、のちに現在地へ移設。)   『続幌内神社史』
『北海道神社庁誌』
『幌内九十年史』
        豊受姫命、大宜津姫命を合祀(※異説あり)   『続幌内神社史』
9     神社用地を買い増しすると共に、神社改築資金を募る   (旧)『長沼村史』
12 1 神社の創立出願   (旧)『長沼村史』
(新)『長沼村史』
        豊受姫命を合祀(※異説あり)   現地由緒書
『北海道神社庁誌』
        幌内神社に改称。(※異説あり)   現地由緒書
『北海道神社庁誌』
44 (1911) 5 18 創立許可を得る。(※異説あり)   『続幌内神社史』
『幌内九十年史』
    幌内神社に改称。(※異説あり)   『続幌内神社史』
『幌内九十年史』
    無格社に列格。(※異説あり)   『続幌内神社史』
    大宜津姫命を合祀(※異説あり)   現地由緒書
    社殿改築に着手   (旧)『長沼村史』
        六寸丸型の御神鏡を御霊代として奉納   『続幌内神社史』
        平沖又作が、土地三町一畝十八歩(約29,911u)を寄進   『続幌内神社史』
8     鈴木牧場支配人の山口若松より、土地三町四畝十五歩(約30,198u)を購入   『続幌内神社史』
(旧)『長沼村史』
    社殿落成   (旧)『長沼村史』
45 (1912) 5     創立許可を得る。(※異説あり)   『北海道神社庁誌』
(旧)『長沼村史』
    無格社に列格。(※異説あり)   『北海道神社庁誌』
    幌内神社に改称。(※異説あり)   (旧)『長沼村史』
                     
大正 2 (1913)         拝殿(明治35年建立)を改築、5坪(約16.53u)。   『続幌内神社史』
5     社殿の右に立石(メンヒル)を陳列保存。   『幌内九十年史』
『続幌内神社史』
9     石燈籠一対(㉑㉒)奉納、現在社殿前に位置。   『続幌内神社史』
『幌内九十年史』
現地石燈籠台石
    石燈籠一対(PQ)奉納、現在表参道中間に位置。   『続幌内神社史』
『幌内九十年史』
現地石燈籠台石
         
                     
3 (1914)         第一次世界大戦勃発  
                     
7 (1918) 11 11 第一次世界大戦終結  
8 (1919) 9 1 幌内開拓二十五記念碑を建立   『続幌内神社史』
『幌内九十年史』
忠魂碑を建立   『続幌内神社史』
『幌内九十年史』
現地忠魂碑碑文
                     
10 (1921)         境内地に隣接する土地五畝歩(約496u)が山城与三吉から寄進される   『続幌内神社史』
11 (1922) 8 31 手水鉢一基(㉓)を奉納(長沼在住二十五年記念) 。現在社殿前に位置。   『続幌内神社史』
『幌内九十年史』
現地手水鉢
12 (1923) 4     手水鉢一基(O)を奉納(81歳長寿記念)。現在参道中央に位置。   『続幌内神社史』
『幌内九十年史』
                     
   
14 (1925) 10 5 神社敷地寄附の功労者として、平沖又作が北海道神宮から表彰を受ける   『続幌内神社史』
15 (1926) 4 7 神殿・幣殿・拝殿改築(現存社殿)の上棟式を斎行   『続幌内神社史』
『幌内九十年史』
        幌内神社の神職担当が千歳神社から長沼神社に移管   『続幌内神社史』
昭和 2 (1927) 5     表参道社殿前の階段を改修、コンクリート製となる   『続幌内神社史』
『幌内九十年史』
                     
6 (1931)         満州事変  
                     
                     
11 (1936) 2 26 二・二六事件  
12 (1937) 4     狛犬一対(RS)を奉納。参道石段下に位置。   『続幌内神社史』
『幌内九十年史』
現地狛犬台座
7 7 支那事変勃発  
                     
14 (1939) 9 1 第二次世界大戦勃発(ドイツがポーランドへ侵攻)  
                     
16 (1941)         御神鏡(丸寸丸型・雲台付クローム鏡)奉納。支那事変からの無事帰還記念として。   『続幌内神社史』
7 7 社号標建立。満州事変出征記念として。    『続幌内神社史』
12 8 日米開戦(真珠湾攻撃)  
                     
18 (1943) 7 1 大鳥居の両側に由緒記・制札を建立   『続幌内神社史』
                     
19 (1944) 狩衣・白衣・御稚児着5着を奉納   『続幌内神社史』
9 20 村社に列格   『続幌内神社史』
10     神饌幣帛料供進神社に指定   『続幌内神社史』
    秋祭りを村社昇格奉告祭として執行   『続幌内神社史』
20 (1945) 5     ドイツ降伏  
8 15 日本降伏  
12     GHQの神道指令(国家神道・社格の廃止など)    
        奉納されていた創作額(古銭で鳥居を象ったもの)が盗難   『続幌内神社史』
21 (1946)         神社本庁設立    
        宗教法人法に拠る宗教法人となる(※)   『長沼町の歴史 上巻』
『北海道神社庁誌』
                     
                     
24 (1949)         大鳥居(石造・明神型)建立(現存せず)   『続幌内神社史』
        社殿柾葺屋根の葺き替え   『続幌内神社史』
                     
                     
26 (1951)         自作農創出特別措置法により、社有地のおよそ3分の2を供出、境内敷地が10,763uとなる   『北海道神社庁誌』
                     
27 (1952) 3 4 十勝沖地震。大鳥居に亀裂    
28 (1953) 3     宗教法人法に基づく宗教法人と認証、登記を実施。   『続幌内神社史』
    神社本庁に所属   『続幌内神社史』
29 (1954) 9     幌内開基60周年記念碑(GH)を建立   『続幌内神社史』
現地石碑碑文
        神殿の幕・祝詞屋の幕を奉納   『続幌内神社史』
                     
                     
33 (1958)         社殿柾葺きをトタン張りに葺き替え   『続幌内神社史』
                     
                     
37 (1962)         本染め幟(祭典用、大小各2旒)を奉納   『続幌内神社史』
38 (1963)         札幌神社を北海道神宮へ昇格させるための協力委員に任命、協賛金を支出   『続幌内神社史』
39 (1964)         開基70周年記念碑建立のため、台石を馬追山から搬出   『続幌内神社史』
9     幌内開基70周年記念碑(D)を建立 北海道冷害 『続幌内神社史』
現地石碑碑文
        祭典用幟旗旗竿固定用の鉄製アングルを設置   『続幌内神社史』
                     
42 (1967)         神苑大石を奉納(田島家・移住記念)   『続幌内神社史』
                     
                     
45 (1970)         隣接する長濱牧場の湧水を分水し、拝殿前の手水所と地区会館へ水道管を敷設   『続幌内神社史』
                     
46 (1971) 4     幌内長楽会により境内にライラック、八重桜、ナナカマドを植樹   『続幌内神社史』
47 (1972)         拝殿向拝所の鈴及び鈴の緒が奉納される   『続幌内神社史』
48 (1973)         拝殿用の座布団40枚が寄進される   『続幌内神社史』
49 (1974)         板張り床の拝殿用に、畳24枚が寄進される。これにより暖かくなったという   『続幌内神社史』
11     幌内開基80周年(I)の石碑を建立   『続幌内神社史』
現地石碑碑文
51 (1976) 1     元旦祭用の神饌御神酒一斗(18リットル)を奉納   『続幌内神社史』
7 20 社殿大改修に先立ち、遷座祭を奉斎し、御霊代を長沼神社へ遷座   『続幌内神社史』
8     社殿(祀宮・拝殿)の改修・境内整備(御神紋入天幕・外幕・内幕、電話線整備、参道砂利敷き等)完了。現在の社殿。   『続幌内神社史』
9 2 社殿落成奉告祭    『続幌内神社史』
6 正遷座祭を斎行し、御霊代を戻す   『続幌内神社史』
    祀宮の前飾り猫足六角型吊燈籠一対奉納   『続幌内神社史』
52 (1977)         吊燈籠(銅製・春日型)が奉納される(金婚式記念)   『続幌内神社史』
        御神紋入社名旗が奉納される   『続幌内神社史』
        拝殿暖房用の煙突が寄進される   『続幌内神社史』
4     吊燈籠と社名旗の奉納者それぞれに感謝状   『続幌内神社史』
53 (1978)         社殿内調度品として金幣が奉納される   『続幌内神社史』
9     金幣の奉納者に感謝状   『続幌内神社史』
        社殿に照明用電気工事を実施   『続幌内神社史』
54 (1979)         拝殿内に錦旗(日月旗・錦地五色瑞雲柄織・両面仕立・金玉・千段巻竿・枠台・黒塗・本金鍍金錺金具付)が奉納される   『続幌内神社史』
9     錦旗の奉納社に感謝状   『続幌内神社史』
55 (1980)         祭典用の大幟旗(本染大幟旗)を一対(二流)作成   『続幌内神社史』
56 (1981)       祭典用の大幟旗一対及び固定用の台を作成   『続幌内神社史』
4     大幟旗の製作者に感謝状   『続幌内神社史』
57 (1982)       昭和27年(1952)の十勝沖地震で損傷(亀裂)していた大鳥居の大修理工事を実施。損傷部を鉄板で囲む補強。   『続幌内神社史』
        表参道の両側に縁石を敷設   『続幌内神社史』
9 24 隣地との境界確認を実施   『続幌内神社史』
        鳥居修理の実施者に感謝状    
58 (1983)         前年の境界確認に基づき、神社用地が隣地へ越境していた部分(149u)を、隣地所有者から神社へ寄附   『続幌内神社史』
        重要書類保管用の耐火金庫1基が寄贈される   『続幌内神社史』
        土地の寄附者や物品の寄贈者にそれぞれ感謝状   『続幌内神社史』
59 (1984)         由緒記・制札を補修   『続幌内神社史』
        本堂向拝所の柱及び燈籠一対の修繕   『続幌内神社史』
60 (1985)         大鳥居の社名額の大修理   『続幌内神社史』
        幟旗旗竿の固定台および忠魂碑玉垣の鉄部を塗装   『続幌内神社史』
                     
                     
63 (1988) 6     石燈籠一対(MN)が奉納される(米寿記念)   『続幌内神社史』
        創作額(硬貨で作った明神鳥居)を奉納   『続幌内神社史』
平成 (1989)         拝殿向拝所の本坪鈴を新調   『続幌内神社史』
2 (1990)         注連縄2連を奉納   『続幌内神社史』
3 (1991)         神社社屋に損害保険をかける   『続幌内神社史』
                     
                     
6 (1994)         座敷用の箒2本が寄進される   『続幌内神社史』
9 4 幌内開基100周年記念碑(L)を建立   『続幌内神社史』
                     
8 (1996)         祠宮(本殿)前に座礼用三段物案(神饌を供える卓)を奉納   『続幌内神社史』
        祠宮(本殿)前内陣に雪洞朱塗菊座台付置燈籠一対を奉納   『続幌内神社史』
        祠宮(本殿)用紫本染御神紋・社紋入白抜天竺木綿織神前内幕幕房付1張を奉納   『続幌内神社史』
        社殿前庭両側に五色吹流し2播奉納   『続幌内神社史』
        祠宮(本殿)の屋根の千木を交換   『続幌内神社史』
        創建100年記念碑(K)を建立   『続幌内神社史』
9 8 御鎮座百年臨時大祭を奉斎    
                     
10 (1998)         祭事用大幟旗の旗竿一対・竿固定台付を奉納   『続幌内神社史』
        昭和57年実施の大鳥居の補強部に亀裂を発見し、再補強   『続幌内神社史』
11 (1999) 1 20 宗教法人幌内神社規則を再策定   『続幌内神社史』
        大鳥居の大注連縄(前垂鼓胴大根型麻色・合成繊維製)1連を寄進   『続幌内神社史』
        篝火台(足付鉄製黒色耐火塗料使用火袋二尺五寸)1台製作   『続幌内神社史』
        物置(イナバ金属製MBX30)1棟・基礎工事   『続幌内神社史』
        拝殿内の水道工事(流し周り整備)・浸透枡・壁鏡1面   『続幌内神社史』
        拝殿内暖房用灯油ストーブ・灯油タンク整備   『続幌内神社史』
        桜苗木を補植   『続幌内神社史』
        参道の照明設置用ポール12本を製作   『続幌内神社史』
12 (2000)         創作額(昭和63年奉納)の腐食のため改修   『続幌内神社史』
        社屋周辺の防腐剤塗装、拝殿外灯工事   『続幌内神社史』
13 (2001)         由緒記・制札2棟の屋根トタンの葺替   『続幌内神社史』
        拝殿床下基礎地束・石段欄干の補修・防腐剤塗装   『続幌内神社史』
        本殿正面虹梁(化粧梁)に朱漆塗装   『続幌内神社史』
        拝殿内装工事(壁代・朽木摺布筋片面仕様茶摺テトロンタフタ袷仕立)、障屏具   『続幌内神社史』
        大鳥居の社額の補修   『続幌内神社史』
        境内樹木の損傷部の治療   『続幌内神社史』
        何者かに本殿の扉を破損される   『続幌内神社史』
        防犯灯の整備   『続幌内神社史』
        殿内調度品の新調(緋毛氈・門帳・御簾)   『続幌内神社史』
14 (2002)         神社沿革および歴代神官・役員芳名を扁額とする   『続幌内神社史』
        祠宮(本殿)の大床の破損修復・内装白布張替え工事を行う   『続幌内神社史』
        大鳥居前と忠魂碑前に防犯用の鎖を設置。ほか防犯灯改装など防犯工事を施す   『続幌内神社史』
15 (2003)         おみくじ用の箱・絵馬掛け台を奉納   『続幌内神社史』
2     神社規則を一部改定   『続幌内神社史』
7     創建以来の神器・石碑を撮影したパネルを奉納   『続幌内神社史』
9     裏参道の本殿南側に砂利敷駐車場を整備(ダンプ10台分の砂利など資材は寄進による)   『続幌内神社史』
11     座布団10枚・座布団カバー40枚を新調   『続幌内神社史』
12     雅楽演奏用のミニコンポ・CDを購入、設置用の棚を製作奉納   『続幌内神社史』
    暖房のためサーキュレーター2台を購入   『続幌内神社史』
    祠宮(本殿)前の六角吊り燈籠一対を幣殿へ移設   『続幌内神社史』
    初詣用にコンクリート階段に敷く絨毯マットを寄進   『続幌内神社史』
16 (2004) 1 1 祭礼用斎衣(三紋社紋・衿社名入り交織白地有紋紐付小忌衣)6着寄進    『続幌内神社史』
    衣装収納具を製作   『続幌内神社史』
7     前面道路(国道337号)拡幅のため、境内地497.88uの売却と、当該部の立木・工作物の補償について、国(札幌開発建設部)と契約締結   『続幌内神社史』
8 3 道路用地内の立木・工作物の伐採・移転工事のため御霊移しの儀を執行   『続幌内神社史』
5 旗竿基礎工事・社号標移設工事   『続幌内神社史』
9 立木伐採工事   『続幌内神社史』
9 3 旗竿移設、由緒記・制札の新築建立   『続幌内神社史』
4 秋の大祭・幌内開基110年奉告祭、境内工作物の清め・入魂奉告祭を執行   『続幌内神社史』
8 台風18号により大鳥居倒壊、境内立木折損   『続幌内神社史』
18 神社役員会を開催し鳥居再建を検討    『続幌内神社史』
10 2 台風に因る倒木を撤去、神社総代会で鳥居再建案を決議   『続幌内神社史』
11 23 新嘗祭   『続幌内神社史』
24 新嘗祭奉斎をテレビ局(札幌テレビ放送(STV))が取材。翌年5月に放送   『続幌内神社史』
作業手袋1ダースを寄進   『続幌内神社史』
    倒壊した大鳥居の社額を本殿向拝所正面に移設   『続幌内神社史』
12     長沼町十八区(幌内地区)総会で鳥居再建の支援を要請、150万円の資金援助を得る   『続幌内神社史』
17 (2005) 1 1 元旦祭   『続幌内神社史』
4     公有地の測量・所有権移転手続   『続幌内神社史』
6 タオル地手拭い15枚を寄進   『続幌内神社史』
5 桜・松・オンコの苗木を寄進   『続幌内神社史』
25 新鳥居建立の地鎮祭執行、由緒記・制札に玉垣奉納   『続幌内神社史』
28 倒壊した旧鳥居を「鳥居塚」とするため基礎工事を実施   『続幌内神社史』
6 4 新鳥居が到着、建立   『続幌内神社史』
16 新鳥居の貫・楔接合部にシリコンコーキングを施工   『続幌内神社史』
7   鳥居塚を建立   『続幌内神社史』
3 表参道の縁石補修資材の寄進・補修工事を実施   『続幌内神社史』
新鳥居に新調の注連縄を張る   『続幌内神社史』
17 新鳥居と鳥居塚の銘板を設置   『続幌内神社史』
24 新鳥居と鳥居塚の入魂式を執行   『続幌内神社史』
10     前面道路拡幅部に歩道新設工事   『続幌内神社史』
11     本殿大何処に擬宝珠勾欄付玉垣を新設   『続幌内神社史』
18 (2006) 3     『幌内神社史』編纂   『続幌内神社史』
    拝殿扉の補修・鈴緒を設置   『続幌内神社史』
4     鈴緒(三色染麻三本撚六角桐枠)を奉納   『続幌内神社史』
7     セキュリティ装置・鍵を破壊され、賽銭箱を荒らされる   『続幌内神社史』
8 23 賽銭箱に神紋社紋の彫刻を実施   『続幌内神社史』
9 6 秋季例大祭を御創祀110年記念大祭として執行   『続幌内神社史』
11 22 『新幌内神社史』刊行   『続幌内神社史』
             
             
             
             

  

4-3 神社由緒
 幌内神社が創立された年は、形式上は3つある。
 北海道の神社行政上の幌内神社の正式創立許可は、明治44年(1911)。この行政上の「正式創立許可」は、基本的に、神社の規模や設備施設が十分に整わないと認められない。だから実際には、創立許可の前から神社は存在していて、時間をかけて社殿や境内、施設の充実をはかり、それが十分なレベルに達したところで申請を出すのだ。
 というわけで現地では、正式許可が出る前の幌内神社の実際の「創始」は、明治30年(1897)ということになっている。このとき創始された神社は誉田別命を祭祀する「八幡神社」で、これがのちに「幌内神社」に改称した。「ことになっている」というのは、これにさきがけて、前身となる小祠があったということ。
 幌内地区への入植は明治27年(1894)に先鞭がつけられ、そのときに簡素な小祠が結ばれた。これが八幡神社の濫觴であり、幌内神社の本当の起源ということになる。
4-3-1 前身・八幡神社
 幌内神社は、その前身を「八幡神社」という。
 さらにその前身となる小祠があったともいうが、詳しい記録がなく、また乏しい資料のあいだに異同があり、はっきりしない。
 いずれにしても、ルーツは明治30年頃にさかのぼり、幌内地区に入植してきた開拓者たちが、入植とほとんど同時に社を構えたという。入植に先鞭がつけられたのは、実際には明治27年(1894年)の12月頃だと伝わるが、彼らは翌「明治30年(1895年)をポロナイ開基元年とする」ことに決めた。おそらくここらへんの事情が原因で、資料により神社の創建時期に1年前後のズレが生じているようだ。

  

 
4-3-2 神社の濫觴は諸伝あり、不明瞭
 最初のポロナイ入植者たちは、入植直後になにか簡素な祠を構えて、入植地の信仰の祈願所と定めたらしい。
 「らしい」とあやふやなのは、このあたりの記述は資料毎の食い違いがあって、明確ではないのだ。明治27年12月の時点で、何らかの祠的なものが物理的に存在していたとする資料もあれば、その時点では神社建立の計画だけだった、という資料もある。
 

  

 
4-3-3 食い違う証言・八幡神社に先駆けた小祠の存在?
 幌内神社の前身・八幡神社には、さらに先駆的な小祠があったらしい。
 一説では、その小祠が設置されたのは明治27年(1894年)の暮れ、すなわちポロナイ地区に最初に入植者が入ったのと同時期だったという。彼らは千歳村からやってきたので、千歳村の千歳神社から分霊を携えてきて、それを祀ったのが濫觴だ。ただしそのときに物理的に祠があったのかどうか、そこらへんが不明瞭。あったという資料と、この時点では神社建立の計画だけだったという資料がある。
 ところで「千歳村の千歳神社」と書いたが、正確には、明治27年の時点では千歳神社は郷社「稲荷社」(稲荷神社)と称していた。これが「千歳神社」に改称するのは大正6年(1917年)のこと。祭神のところにも書いたように、当時は「稲荷社」だった千歳神社は、祭神が豊宇気比売命(豊受姫)ただ1柱だったそうで、そこから「八幡神」(誉田別命)を分霊勧請することは不可能だったはずだ、という説がある。だから、なにか八幡神を祀るような先駆的な小祠とか、なにか信仰の依代的なもの ― 紙や木板に何か書き記したものとか ― があったのではないか、という推測にいたるのだ。
 『幌内九十年史』(昭和59年)には、明治27年12月に、「御神霊を観講し、爾来社殿敷地境内を造成、基本財産造成を計りたり」とある。そのうえで、「創立」は明治30年とする。
 

  

 
4-3-4 防火の信仰
 開拓の最初期は原生林を切り拓くために火入れをすることがあり、うっかりすると神社に燃え移る危険があった。だから万が一に備えて、幌内神社の御神体を別の場所に遷してあったという。これを担ったのは野沢與四三郎という人物で、神社の北隣りの土地所有者だった。明治35年の神社世話人のなかにその名がある。御神体の遷座先は、同じポロナイ地区にある秋葉神社だった。(秋葉神社は、火除の守護神である秋葉大権現を祀る神社。)
 

  

 
4-3-5 ライバル・長沼神社との公認取得合戦
 すでに書いたように、開拓初期の長沼方面は、沼の北岸に開拓者が空知方面から入り、南岸には千歳方面から入植者が入った。このため、北側は空知国夕張郡の管轄になり、由仁村に役場が置かれた。一方南岸のポロナイは、胆振国千歳郡千歳村の番外地の扱いだった。北の空知側では長沼神社が創建され、南の千歳側では幌内神社が創建された。開拓が進むと、沼地が埋め立てられてゆき北部と南部がつながると、北部と南部の管轄をどうするかでもめるようになった。全域を長沼村の管轄とする意見と、南側を千歳村の管轄とする意見が対立、まもなく長沼村を独立自治体として編成する方針が定まると、ポロナイ地区の帰属先をめぐる論争になったそうだ。この争いは結局、全域を長沼村に移管することで決着をみた。その後も、千歳に起源をもつポロナイ地区は、長沼村中心地区とは一線を隔てていて、独立した気風を維持したという。
 その頃、ポロナイ地区の八幡神社(幌内神社)と、長沼市街地の長沼神社とのあいだで、どちらが北海道神社庁から公認社格を獲得するか、競争になった。当時の日本は、国家神道の権威を保つため、泡沫神社には公認を与えず、1町村には1村社を定めるという基本則を定めていた。だから「長沼村の村社」となれるのは、どちらか1社だけなのだ。 (実際のところ、だだっ広い北海道では、この原則はいくらか緩和されていた。)
 公認社格を得るには、神社の社殿、境内、財産、氏子組織などを所定の規模以上に整備する必要がある。そもそも幌内神社も長沼神社も未だこれを満たしておらず、「村社」どころか、その格下の「無格社」の格付けすら認められていない、「無願神社」だった。だから最初の目標は「無格社」格付けの取得だった。
 『幌内九十年史』によれば、神社を司っていた溝口五左衛門に対し、神社総代の大熊竹次郎は相当なハッパをかけたそうだ。お百度参りをしろとか、北海道神社庁にいくときは神社の礼装を着用していけとか、「激励叱咤」があったという。結局、明治44年5月18日付で(年月日には資料によりズレが有る)、幌内神社が長沼村で初めての公認神社(無格社)として格を得られる運びとなった。この報せを大熊邸に届けたときの溝口五左衛門は、「踊りながら」大熊の家に入ってきたと伝わる。また、当時の長沼村長橋本茂右衛門は、「大熊に負けたぁ!」と悔しがったという。
 

  

 
4-4 人物伝
4-4-1 歴代神職
職名 芳名   備考
初代 社掌 溝口五左ェ門  明治30年 (1897) 大正6年 (1917) 千歳神社神主
2代 社司 野村茂定 大正6年 (1917) 大正12年 (1923) 千歳神社神主
3代 社司 近藤義雄 大正12年 (1923) 大正15年 (1926) 千歳神社神主
4代 社掌 佐藤作蔵 大正15年 (1926) 昭和2年 (1927) 長沼神社初代神主
5代 宮司 菅原勝見 昭和3年 (1928) 昭和63年4月 (1988) 長沼神社2代神主
6代 宮司 菅原邦夫 昭和63年5月1日 (1988) 平成16年9月30日 (2004) 長沼神社3代神主
7代 宮司 菅原秀男 平成16年11月1日 (2004)     長沼神社4代神主
 ※初代の溝口五左ェ衛門については、「五左衛門」「五右衛門」など、異表記・表記ゆれがある。

  

 
4-4-2 溝口五左衛門(初代社掌)
 溝口五左衛門は、幌内神社の創建時からの初代社掌(1897-1917)だ。
 その名前は資料によって表記ゆれがあり、「五左衛門」「五左エ門」「五左ェ門」などと記されている。なかには「五右衛門」「五ェ門」などと書いたものがあるのだが、さすがに誤植だろう。
 溝口五左衛門はもともと千歳神社(当時の名称は稲荷神社)の神主だった。明治27年(1894)に、千歳村の住民がポロナイ地区の開拓へ出発するときに、千歳神社の分霊を授けたという。そして彼らがポロナイ入植を果たし、新神社を創建すると、その社掌を引き受けた。
 溝口五左衛門は、神社総代の大熊竹次郎に背中をおされ、幌内神社の公認取得のために奔走した。そしてついに明治末に、長沼村の神社としては初めて公認を得て、「無格社」の格付けを受けた。大熊から溝口へは相当な圧力がかかっていたといい、この知らせを大熊のもとへ届けるとき、溝口は「踊りながら」大熊宅に入ったと伝わる。このとき、長沼市街地の長沼神社と公認格付け取得を争っており、長沼神社を推していた長沼村長橋本茂右衛門は「大熊に負けた!」と叫んだという。

 五左衛門の銅像が千歳市内に建っている。
 

  

 
4-4-3 歴代役員
 幌内神社の社史や地区史あたりには、創建時から現在に至るまでの総代・役員リストが顔写真つきで掲載されており、ここで紹介するのは容易だ。
 なんだけど、さすがに平成20年以降の人物をここに書き出すのは、個人情報とかどうなんだという気がするので、やめておく。まあ、明治や大正の人ならセーフじゃないかとか、境内の石燈籠や石碑をみれば平成の人物の実名がバンバン彫られているわけだし、セーフとアウトの線引はむずかしい。
 というか、よその地域と比較しても、長沼町は個人情報のコントロールがガバガバだ。平成20年代後半に刊行された地域本とかでも、全世帯の入植以来の全家族構成・実名&写真・近況入りで「うちの長男は昨年大学入試に失敗した」「父は酒浸りの生活を送っていて、去年入院した」とか書いたのが公共図書館で自由に貸出できたりしちゃってて、いまどき大丈夫かと心配してしまう。
 おそらく開拓以来、地区で協力しあってきたという150年の歴史があるからこうなるのだろう。きっとこれが安心できる社会なんだろうと感じるが、ヨソモノが勝手に公開していいことではないと思うので自重する。
 

  

 
4-5 公民館
 神社のすぐ隣が第十八区会館になっている。 

  


 
5 地誌
5-1 自然誌
 

  

5-2 周辺の名所
 

  

5-3  
 

  

5-4  
 

  

5-5  
 

  


 
6 情報
6-1 諸元
名称 古称 幌内神社
古称  
異説  
古称
所在 経緯度 北緯 042 度 56 分 11.11秒
東経 141 度 43 分 25.08秒
地名地番 北海道夕張郡長沼町字ポロナイ1512番
旧表記
郵便番号 069-1464
現住所 北海道夕張郡長沼町字ポロナイ1512番地
電話 01238-8-2504(長沼神社社務所)
祭神 主祭神 誉田別命
豊受姫命
大宜津姫命※
祭神
注記 ※資料により、誉田別命・豊受姫命の2柱とするものと、大宜津姫命を加えた3柱とするものがある
起源 明治27年(1894)※(口伝)
社史 創建 明治29年ないし30年(1896-1897)「八幡神社」として創建※
公認 明治44年ないし45年(1911-1912)※
起源・創建・公認とも資料により1年の異同がある
境内 面積 3,261坪(約10,763u)
社殿 本殿 流造・三坪三勺・上屋付
明治33年(1900)建立と推定
大正15年(1926)改築
幣殿・拝殿 向拝付・入母屋造
本殿を納めた上屋を含め25坪(82.5u)
備考
摂末社 末社 なし
境内社 なし
社格 旧社格 村社
神饌幣帛料供進神社
祭礼 春 祭  4月16日
例 祭  9月20日
新嘗祭 11月24日
備考 『北海道神社庁誌』(平成11年(1999))では9月20日の例祭のみ記載
氏子 世帯数 75世帯(1999年)※
崇敬者数 30名(1999年)
注記 氏子数は、大正5年(1916)で105名、昭和11年(1936)で120戸、昭和37年(1962)で230戸、平成11年(1999)で75世帯
文化財 史跡 メンヒル(アイヌ遺跡)
史跡 鳥居塚(旧鳥居)
交通   JR北海道・千歳線「千歳」より約16.3km(車25分)
  JR北海道・室蘭線「三川」より約8.2km(車17分)
情報源  
『北海道神社庁誌』 1999
『長沼町の歴史』上・下 1962
『長沼町九十年史』 1977
『ながぬま一二〇年のあゆみ 長沼町開基120年記念』 2007
『日本歴史地名大系1』 2003
『角川日本地名大辞典』 1987 ×
『開基九十周年記念 幌内史』 1984
『開基一〇〇年記念 ほろない史』 1995
『幌内神社百年 幌内神社百年史』 1997 
『幌内開基百十年記念幌内史』 2005
『(続)幌内神社史 鎮守創建百十年の軌跡』 2006

  

6-2 リンク
サイト 題名 リンク 日付
北海道神社庁 北海道の神社 幌内神社  
       
蝦夷ヶ島大神社 北海道内の神社巡り 幌内神社  
       
神社と狛犬見て歩き   幌内神社/北海道長沼町(Horonai Shrine,Hokkaido Japan) 2012/08/26
神社訪問記 北海道の神社 幌内神社 (北海道〈空知〉長沼町) 2018/11/01
北海道の神社&旅日記 ☆幌内神社(長沼町)☆ 2018/12/19
石屋の神社探訪 轄a口石材工業 幌内神社 2019/05
神社お寺御朱印巡り   幌内神社(北海道夕張郡長沼町幌内) 2021/08/02
2ラス (Youtube動画) 幌内神社 2022/07/26
       
       

  

6-3 参考文献
書名 刊行年 編著 出版 備考
『北海道神社庁誌』 平成24 1999 編:北海道神社庁誌編輯委員会 北海道神社庁  
『角川日本地名大辞典1北海道』
上下巻
昭和62 1987 編:「角川日本地名大辞典」編纂委員会 角川書店
『日本歴史地名大系1北海道の地名』 平成15 2003 編:平凡社地方資料センター 平凡社  
           
『長沼村史』 大正05 1916 著:太枝連蔵 長沼村  
『長沼村史』 昭和11 1936 編:長沼村史編纂部 長沼村  
『長沼町の歴史』
上下巻
昭和37 1962 編:長沼町史編さん委員会 長沼町  
『長沼町九十年史』 昭和52 1977 編:長沼町史編さん委員会 長沼町  
           
『開基九十周年記念 幌内史』 昭和59 1979 編:林義次 夕張郡長沼町十八区
幌内開基九十周年奉賛会
 
『開基一〇〇年記念 ほろない史』 平成07 1995 著:遠山秀康 長沼町第十八区  
『幌内開基百十年記念幌内史』
幌内神社百年史
平成17 2005 編:加藤正夫 夕張郡長沼町十八区
幌内開基百十周年奉賛会
 
『幌内神社百年』 平成09 1997 編:町村勉 幌内神社  
『(続)幌内神社史』
鎮守創建百十年の軌跡
平成18 2006 編:(幌内神社総代長)澤井彰 宗教法人幌内神社  
           
           
「地神碑に祀られる神々」 平成11 1999 著:池川清 池川清  
「ながぬま 記念碑・顕彰碑・史跡等解説一覧」 平成20 2008 編:長沼町教育委員会 長沼町  
           
           
           
           
           
             
 
 

  


 
 

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