群馬県 上野國
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かわすくね 
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村社
神饌幣帛料供進神社
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甲波宿禰神社
吾妻地方 吾妻郡 東吾妻町 箱島
 吾妻川流域には「甲波かわ宿禰神社」という名の神社が3社あり、このうち渋川市川島の甲波宿禰神社が本社とされている。残る2社はいずれもそこから勧請されたものだ。「かわ」という名が示すように川の神ハヤアキツが祭神で、火山の噴火の影響でたびたび氾濫して大被害を齎した吾妻川を鎮めるために祀られたもの、吾妻川を神格化したものとみられている。また、吾妻川南岸の川島・祖母島・箱島に「宿禰」関連の神社が配されているのは古代律令時代の名残りとする説もある。
参拝日 令和06年(2024)07月13日 作成日 令和06年(2024)10月14日 修正日 令和--年(----)--月--日
所在地 群馬県 吾妻郡 東吾妻町 大字 箱島 
 字 宮貝戸みやがいと 1136番地
格式 旧村社・神饌幣帛料供進神社
祭神 速秋津彦神・速秋津姫神
社史 創建不詳(口伝・延暦4年(785年))
境内 636坪(2102.47u)
社殿 拝殿・幣殿、本殿、境内社、花車庫
施設
文化財 甲波宿弥神社の彫刻・神輿(町指定重要文化財)
甲波宿弥神社の大ケヤキ(町指定天然記念物)
神職 無住
備考
 
基本情報
概観
所在地
略年表
祭神
神紋
御朱印
 
社頭
境内略図
アプローチ
社頭
石標
社号標
道祖神
 
 
境内
手水鉢
鳥居
石燈籠
狛犬
神倉
 
 
 
社殿
拝殿
幣殿本殿
彫刻
境内社
巨木
石祠群
 
 
神社史
箱島史
「かわ」
早良親王
小野金吾
神社整理
東神社
 
 
情報
諸元
年表
資料
周辺
リンク
参考文献
 

 
1 基本情報
1-1 概観
 箱島の住宅地に鎮座する古社。
 みんなだいすき、吾妻地方特有の石造小祠ラッシュもあるよ!
 

  

1-2 所在地
所在地
現表記 群馬県 吾妻郡 東吾妻町 大字 箱島 1136 番地  
旧表記 群馬県 吾妻郡 東村 大字 箱島 宮貝戸 1136 番地  
 
座標
緯度 北緯 36 32 47.64
経度 東経 138 55 38.81
標高 286m
住宅地からの比高 およそ−2メートル
地図リンク
※ゼンリン地図は建物が登録されていないと近隣の建物が表示される
 「甲波宿禰神社」という神社は3社ある。このうち、渋川市川島の甲波宿禰神社が最初に創建された「本社」で、ここ箱島と、渋川市行幸田の甲波宿禰神社はいずれも川島の「本社」から勧請分社されたものだという。
 また、祖母島には「武内神社」がある。「武内」は「武内宿禰」のことであるから、これも「宿禰」系の神社として仲間だとみる向きもある。
 川島甲波宿禰神社・祖母島武内神社・箱島甲波宿禰神社は、奇しくもみな「◯島」という名の地に位置しており、これは近郷の火山噴火の度に大氾濫を起こして甚大な被害が出る吾妻川を崇め鎮めるための神社だという説がある。武内神社は、一見すると吾妻川から少し離れているようにも見えるが、本来は吾妻川岸に鎮座していたものが、天明の浅間山の大噴火の際に起きた吾妻川の鉄砲水で流失し、現在地に移転再建されたもの。
郷帳 郷帳 郷帳 明治維新 市町村制 昭和の大合併 平成の大合併
和暦 寛文8 元禄14 天保5 明治22 昭和30 平成18
西暦 1668 1701 1834 1889 1955 2006
吾妻郡 岡崎新田 岡崎新田 岡崎新田 岡崎新田 東村 岡崎 東村 岡崎 東吾妻町 岡崎
箱島村 箱島村 箱島村 箱島村 箱島 箱島 箱島
五町田村 五町田村 五町田村 五町田村 五町田 五町田 五町田
奥田村 奥田村 奥田村 奥田村 奥田 奥田 奥田
新巻村 新巻村 新巻村 新巻村 新巻 新巻 新巻
*平成の大合併で吾妻町と合併し東吾妻町となる

  

1-3 略年表
和暦 西暦 歴史
宝亀 771 川島の甲波宿禰神社が創建
延暦 785 小野金善が箱島に配流される
小野金善が川島の甲波宿禰神社を勧請し、箱島に甲波宿禰神社を創建
         
寛文 1664 検地帳に「大明神」として記載 
享保 19 1734 「宿弥大明神」の鳥居建立
明治 1868 「甲波宿禰神社」に改号 社務所を焼失
大正 13 1924 神饌幣帛料供進神社に指定

  

1-4 祭神
 速秋津彦命はやあきつひこのみこと)・速秋津姫命はやあきつひめのみこと) 〔記:速秋津比古神・速秋津比売神・(はやあきつひこのかみ・はやあきつひめのかみ)〕、〔紀:速秋津日命(かはやあきつひのみこと)〕
 ハヤアキツヒコ・ヒメは川の神で、古事記では異名として「水戸神」(みなとのかみ)とも。
 古事記では、イザナギ・イザナミの男女神が、ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメの男女一対の神を生む。この両者が海と河を司る神を生む役割をイザナギ・イザナミから分担し、さらにアワナギ・アワナミなど8柱の神々を生む。
 日本書紀の神代上では、第四段でイザナギ・イザナミが日本列島を生み出したあと、第五段でさまざまな山川草木など自然物を生む。本書(本文)では海、川、山を生んだあと草の神と生んだとあり、海川山についての神名は登場しない。第六の一書で風の神シナトベト、食物の神ウカノミタマ、海の神たちワタツミ、山の神たちヤマツミ、水門みなとの神たちハヤアキツヒらを生んでいく。
 「水門みなと」というのは川海の出入りする場所を指し、「ハヤ」は美称的接頭辞で、「アキ」は「開き」の意。

  

1-5 神紋
不明
 

  

1-6 御朱印
 
※不明

  


 
2 社頭

  

2-1 境内略図
区分 西暦 和暦 文字 奉納者 備考
@ 標柱 1942 昭和 17年 7月 4日 壮丁一同建之 7名の記載あり
A 標柱 石工 磯井慶治 数名の記載あり
B 社号標 1934 昭和 9年 11月 村社甲波宿禰神社 大塚康平 陸軍特別大演習記念
C 道祖神 1765 明和 2年 道祖神 文字道祖神碑
D 手水鉢
E 石鳥居 1734 享保 19年 9月 吉祥日 宿禰大明~ 台輪鳥居
F 石燈籠           皇太子殿下御誕辰□□□
祝宴御召饌□□杯□□
   
G 石燈籠 1940 昭和 35年 11月 吉祥日  太田村 石工 □□□□ 正六位勅□□
橋爪喜代松獻□
※年代に疑義あり
H 狛犬 1938 昭和 13年 3月 吉日 □四位勲六等□□重郎    
I 狛犬           日支事変皇軍戦勝紀年    
拝殿                
  幣殿                
  本殿                
J 案内板           甲波宿禰神社の彫刻・御輿
町重要文化財
昭和48年3月23日指定
  境内社                
K 案内板           甲波宿禰神社のケヤキ    
  神倉                
  花車庫                
A 石祠群                
B 石祠群                
L 双体道祖神 1751 宝暦 元年          

2-2 アプローチ
 令和2年(2020年)夏に開通した上信自動車道の箱島バイパス。その高架橋の下。
 ここをくぐってゆくと目指す神社がある。
 カニがいた。山奥なのに。
 

  

2-3 社頭
 これが村社・甲波宿禰神社の社頭。
 遠くに見えるのは十二ヶ岳&小野子山。

  

2-4 石標
 正面参道の石段の左右の石標。
2-4-1 石標(右)
 標柱の背後の石垣がスパァと切り取られたような断面になっている。たぶんおそらくきっと、かつてはもう少し道路側まで石垣があったのに、道路の拡幅で石垣を切り取りセットバックしたのだろう。
西
 側面に文字が刻まれている。

昭和十七年七月四日壮丁一同建之
 昭和17年=1942年。干支は壬午。
 太平洋戦争真っ最中で、一ヶ月前の6月5日にはミッドウェー海戦で空母4隻・艦載機289機・兵員3057名を喪失し致命的な大敗、ただし大本営的には「空母喪失1、敵空母撃沈2で勝利」と発表。(奇しくも7月4日はアメリカの祝日だ。)
 「壮丁」というのは「成人男性=軍務に就ける者」の意味。

 裏側に相当する北面には

 奉納者と思しき人名が。
 一番右は「篠原文雄」、そこから「岩ア平八郎」、「真下正雄」、「田中實」、「大□浩」、「塩田政□」、「上原宗次」かな。
 市町村史誌類はたいてい、巻末の方にその村の出身者の戦死者リストがあって、『あがつま あづま』では戦死者だけでなく応召者のリストがある。箱島地区では「大塚」姓が多いようだし、「大□」は「大塚」かな。
 「篠原文雄」氏は昭和18年2月10日応召、昭和20年3月10日にフィリピンで戦死。
 「岩ア平八郎」氏は昭和18年1月10日応召記録があった。同年9月29日にパプアニューギニアのニューブリテン島で「岩崎八郎」氏の戦死記録があるが別人か。
 「真下正雄」氏は同年1月20日応召、翌昭和19年6月28日にパラオで戦死。
 「大塚浩」は昭和18年9月10日応召、翌昭和19年7月31日台湾の南、バシー海峡で戦死。調べてみると、輸送船「吉野丸」がその日、バシー海峡で潜水艦からの雷撃を受けて沈没、兵員2495名が戦死している。バシー海峡は日本の輸送船団が米軍潜水艦に撃沈されまくった「輸送船の墓場」だ。
 「塩田政雄」氏は昭和18年1月10日付で応召記録があった。
 東面には
 「奉献」の「奉」。
2-4-2 石標(左)
西
石工 磯井慶治
 。
 「報献」の「献」。
 北面。こちらにも複数の名前が刻まれている。

  

2-5 社号標
 石段の上には立派な社号標が屹立している。 
西
 「村社」の部分を、後で埋めたように見える。村社とかの近代社格制度は太平洋戦争終戦とともに消滅したし、近代社格制度そのものが戦争に直結している感もあったのだろう。
 昭和九年十一月陸軍特別大演習記念
 昭和9年=1934年。
 11月11日〜11月14日、北関東3県(群馬・栃木・埼玉)で、統帥権を有する天皇陛下を迎えて陸軍特別演習が行われた。
  □者 大塚康平 □
 昭和11年の箱島の消防役員リストに「大塚康平」氏の名があった。
 正五位高山昇謹書
 ググったけど誰だかはわからない。戦後に同姓同名の群馬県副知事がいるけれど、1936年頃の出生であり、明らかに年代が合わない。

  

2-6 道祖神
 石段の脇になにか石造物が。
 道祖神だ。
西
 東側面になにか文字が刻まれているっぽいけども、判読不可能。
 で、ここでチート。「上州の近世石造物(一)道祖神と道しるべ」をカンニング。
上野国の石造物
分類 道祖神 - 文字道祖神碑
法量 碑高(h) 73cm 年代 和暦 明和2年
碑幅(w) 32cm 西暦 1765
総高(s) 103cm 備考
備考
銘文
道祖神
備考 自然石
資料 「上州の近世石造物1」 道祖神 東村 No.16
     
       
 明和2年(1765年)のものだそうだ。
 昭和40年(1965年)の『あがつま あづま』には、場所は甲波宿禰神社の「入口右」、建立年月不詳とあった。「右」というのが、外から見てなのか内から見てなのかがわからないけれど、もしかすると道路拡幅のときに場所移動とかしているかもね。

  


 
3 境内
3-1 手水鉢
 石段を登った右手に
 手水鉢がある。蛇口があり、右手前には量水器もあるから、上水道が通じているようだ。
 鉢石は天然石だろう。
 正面の中央には何か文字が刻まれているような・・・
 「村」かな。
 でもその上には文字が見いだせない。
 なんとなーく、「村」の左下に縦書きで「氏子中」と彫られているような気もする。

  

3-2 鳥居
 正面の石鳥居。
 反りあり、貫あり、台輪あり、台輪鳥居かな。
 丈夫には額がある。
 宿禰大明~
 右の柱脚には
 享保十九寅年
 享保19年=1734年。干支は甲寅。
 左の柱脚には
 九月吉祥日
 
 
 
 
 
 

  

3-3 石燈籠
 7月なので紫陽花が咲いている。
3-3-1 石燈籠(右)
 向かって右側の石燈籠。
西
 てっぺんの宝珠。
 皇太子殿下御誕辰□□□
 祝宴御召饌□□杯□□
 「誕辰」(たんしん)というのは「誕生日」のことだそうだ。
3-3-2 石燈籠(左)
西
 紫陽花が生い茂っていて西面の撮影は不可能。
 南面。
 昭和十五□十一月吉祥
 まあ「昭和15年」(1940年)しかありえないんだけど、右の石燈籠の「皇太子殿下御誕辰」と合わせて考えるとちょっと悩ましい。
 この年代で「皇太子」というと、もちろん昭和天皇陛下しかありえない。昭和天皇夫妻には7人の子供がいたのだけど、1人目は大正14年生まれの照宮親王で、そこから4人目までみんな女の子だった。だから当時の国民は、将来の天皇たる男子の誕生を待ち望んでいたのだろう。後に平成天皇となる最初の息子が生まれるのは、昭和8年(1933年)のことだ。
 だけど、そこから7年後の昭和15年に「皇太子殿下御誕辰」で石燈籠を奉納するというのは、ちょっと年月が空きすぎている気がする。次男は昭和10年(1935年)に誕生しているけれど、それでも石燈籠の年とは5年の開きがあるし・・・。
 あるいは左右の石燈籠はもともと一対ではなかったのかも、とも考えられるけれど、にしては形状がまったく揃っている。
 ・・・下の方に、カンニングの結果を書いておく。
 北面。
 正六位 橋爪喜代松獻□
 勅□□
 「獻」は「献」の旧字体。まあ「献納」とかかな。
 西面。ちょっと判読が難しいけども
 太田村
  石工 □□□□
 だと思う。「太田村」ならば、現在の東吾妻町の母体のひとつ、旧太田村かな。
 『あがつま あづま』に掲載の石燈籠リストを参照すると、甲波宿禰神社の石燈籠として掲載されているのは1対だけで、
「昭和35年」「橋爪喜代松寄進」とある。
 「橋爪喜代松」を手がかりとすれば、この石燈籠がその掲載されているものだろう。ただ、年代が、資料内では「昭和35年」、実物の文字が「昭和15年」にしか見えないので、そこで20年もの齟齬がある。普通に考えると、「昭和三十五年」の「三」が脱落してしまったとしか考えられないんだけど、
 どこからどう見ても「三」が脱落したとは見えないんだよなあ・・・「十五」の下にヒビ割れがあって、そこの継ぎ目で文字が狂うならまだわかるけど、どうやっても「和」と「十」の間に文字が入りそうもない。
 でも傍証がもう一つあって、右の石燈籠にあった「皇太子殿下御誕辰」の文字の件なんだけど、昭和35年2月に平成天皇の長男(現在の令和の天皇陛下)が生まれているので、それだと時期がぴったり合致するのだ。
 もちろん、昭和35年時点では平成天皇はまだ「皇太子」なので、「皇太子殿下御誕辰」は「皇太子が生まれました」ではなく「皇太子に子供が生まれました」という意味になる。
 これも併せて考えると、やっぱり昭和35年が正解なのだろうか・・・うーん?

  

3-4 狛犬
 拝殿の手前には狛犬一対。
3-4-1 狛犬(右)
 まずは向かって右の狛犬。
 阿吽の「阿」形。
 なかなかコワモテだ。
西
   
 真横から見ると頭部が四角い。
 台座の東側には「奉」。
 西側には文字が刻まれている。
 昭和拾参年
 参月吉日
 その左にもう一列、文字が刻まれているけども判読が難しい。
 □四位勲六等□□重郎
 かなあ。
3-4-2 狛犬(左)
 向かって左の狛犬、阿吽の「吽」形。
西
 
 日支事変皇軍戦勝紀年
 「日支事変」は戦前日本と中国との間の戦闘行為を指す語で、該当する事象が複数ある。この石燈籠一対は昭和13年(1938年)3月の奉納だから、常識的に考えれば昭和37年(1937年)7月の盧溝橋事件から始まった戦争のことだろう。7月の事件勃発当初は「北支事変」と報じられたけども、8月には戦場が中国全土に拡大し、「支那事変」と呼ぶようになった。ほかに「日華事変」ということもあったそうだ。
 現代の国語辞典では「紀年」というのは「カレンダー」の意味になる。でもそれだとこの狛犬では意味が通らない。戦勝を願う「祈年(祈念)」なのか、戦勝を祝う「記念」なのか、まあおそらくきっとたぶん後者の意味で「紀年」と刻んだのだろう。

  

3-5 神倉
 メインの参道は、鳥居から左に90度曲がるけども、正面にも建物が見えている。 
 神蔵のようだ。 
 その脇には大きな石がある。でも銘的なものは見当たらず。 
 西から眺めると別の入口があり、「箱島 花車庫」と書かれている。 
 たぶんこの中に、重要文化財になっている御輿があるのだろう。 
 文献資料には、「御輿は天正3年(1575年)作」とある。天正年間とはまた随分古い。歴史的には、その頃はこの地方を制していた武田軍が長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗して武田家の家運が傾いた頃。
 御輿は東吾妻町の重要文化財指定を受けていて、その説明文によると安永4年(1775年)作という。天正3年からはちょうど200年経過している。それでもだいぶ古いことには変わりないのだけど。

  

3-6  

  


 
4 社殿
 北側から見た拝殿−幣殿−本殿。
4-1 拝殿
 まずは正面、東側から。 
 拝殿正面。
 昭和40年(1965年)『あがつま あづま』によると、拝殿は
  ・間口 四間四尺四寸 ≒ 8.57m
  ・奥行 二間四尺五寸 ≒ 5.00m
  ・萱葺
  ・権現造
 ということなんだけど、目の前の社殿は屋根は銅版葺きだし、寸法もまるで違う。
 昭和53年(1978年)『吾妻郡社寺録』では
  ・間口 3間
  ・奥行 2間
  ・入母屋造・平入・銅板葺・千鳥破風・向拝軒唐破風
 とあり、これはいまの拝殿のようだ。
 ということは、昭和40年から53年のあいだに建て替えがあったわけだ。残念ながらそのときのことを書いた資料は未発見。

 甲波宿禰神社
    平成十二年三月吉日
    群馬県知事 小寺弘之
 平成12年=2000年。
 
 両サイドには、古い額が掲げられている。
 これは文字が消えかかっていてほとんど見えないけれど、ここが甲波宿禰神社だとわかっているから文字も「甲波宿禰神社」だと読める。
 左にも何か書かれているが、ちょっと読めないなあ。
 こちらははっきりと「甲波宿禰神社」と読める。
 拝殿の正面右には説明書きがある。

 甲波宿禰神社
 祭 神    速秋津比古命  速秋津比当ス 
 例祭日    三月十五日  九月二十九日
 由緒 沿革
 宝亀二年(七七一年)延喜式上野十二社の一つ、川島の甲波宿祢神社が創建されましたが本社はそれより後 延暦四年(七八五年)早良親王の謀反に組したためこの地に流されたという小野金善が川島鎮座の甲波宿祢神社から勧請したといわれます
 中世になっては白井城主長尾氏の崇敬が厚く長尾景春が神宝として太刀一振を献上し社殿の修築をしたといわれます 祭典は往古は万福寺住耺が奉仕していましたが明治になってから神官奉仕となりました 尚当神社は古昔は正一位宿祢大明神といわれましたが明治元年神祗官布告によって甲波宿祢神社と改称されました
 宝物は神鏡 太刀 神輿(天正三年作と伝えられる)があります
 表鳥居に享保十九年 宿祢大明神とあり社殿は当時のものです
 拝殿の石立瑞柱の獅子十二頭 屋根下の鶴 鴨居の龍の彫刻 格天井に画かれた狩野派の絵画等いずれも貴重な文化財です 尚 明治初年社務所の火災で残念ながら古記録すべて焼失しました 
 

 

  

4-2 幣殿・本殿
 北側面。
 北西から。幣殿部と本殿覆屋が見える。
 真っ赤な覆屋のなかに本殿があるはずだけど、外からでは本殿全体は見えない。
 と思ったら、窓ガラスの向こうに、本殿がみえる。こういう仕組みになっているのはあまりない気がする。
 西から。
 南西側。
 

  

4-3 彫刻
 境内の東端に、なにか板が立っている。
 
 甲波宿禰神社の彫刻・御輿
 (町重要文化財 昭和48.3.23 指定)
 甲波宿禰神社の創建は古く、延暦4年(785)といわれている。
 拝殿の木鼻の唐獅子の彫刻は、ケヤキの木地を生かした優れたものである。側障子の彫刻は、一枚ケヤキに彫刻を施したものである。
 御輿(みこし)は安永4年(1775)の作で、秋の祭典にかつがれる。
 
 少し前に書いたように、この拝殿は昭和40年(1960)から53年(1978)のあいだに建替なり改築なりがあった、ということなんだけども、彫刻類はこれからご覧いただく通り、到底昭和40−50年代のものとは思えない。少なくとも近世のものだ。ということは、いろいろ移築したのだろうか。
 拝殿正面中央、唐破風部の装飾。
 鶴。
 正面向拝のすばらしい組物と
 龍。 
 木鼻の唐獅子。
 側部には象。
 虹梁まわり。
 
 正直な話、わたしは彫刻とかの審美眼も知識もゼロなのだ。「なんかスゲー」ぐらいしか感想が出てこない。だから側障子の写真も撮り忘れたのだ・・・
 
 
 拝殿正面、向かって右上には、棟札×1、絵馬×2、絵馬だったもの?×1が確認できる。が、文字はほぼ消えかけていて、内容の確認は不可能。 
 これはまあ「奉納」「大願成就」はわかる。
 読めません。
 読めません!
 拝殿南面にも額が1枚あったけども、文字を読める状態ではない。
 『あがつま あづま』には甲波宿禰神社の絵馬1枚、奉納額2枚が掲載されている。
 絵馬は明治22年(1889年)9月奉納の「武運長久祈願の図」。この頃なにか軍事的な出来事があったかと思ったけど、これといって思い当たるものはない。
 奉納額は、(1)嘉永5年(1852年)の俳句額、(2)明治23年(1890年)5月奉納の俳句額の2点。嘉永5年のものは、俳句額としては旧東村内では一番古いものだそうだ。

  

4-4 境内社
 社殿の北側、拝殿に向かって右に、もう一棟の社殿がある。 
 、 
 正面(東面) 
 、 
 右側面(北側) 
 後方(南西から) 
 左側方(南から) 
 甲波宿禰神社の本体が朱塗りされていたのに対し、こちらは緑錆的な、ブルーグリーンが印象的。 
 なにかしらの文字を探したが、見つけられなかった。 
 

  

4-5 巨木
 すでにさんざん映り込んでいるように、境内には巨大な木が立ち並んでいる。 
 こういうのをどう写真に撮ればいいのか、さっぱりわからない。 
 広角レンズを縦に構えても全然収まらないし。

 本社殿と境内社の社殿のあいだ、 
 この巨木の前に、一本の杭的なものが。 
  
 東村
 名木十選
 甲波宿禰神社のケヤキ
 昭和48年(1973年)3月23日に東村の天然記念物に指定されている。
 樹齢は500年程度とのことなので、1400年代後半の植樹ということになり、長尾景春が太刀を奉納した頃ということになる。
 なお「500年」というのが天然記念物指定当時の値なのだとすると、今時点ではそこからさらに50年経っていることになる。 
 神社探訪狛犬見聞録・注連縄の豆知識(2010年)やこちらのサイト(2016年)によると、この境内社の右側方、
 この画像の右に写っている木が「東村名木十選 甲波宿禰神社のコナラ」として指定されて、標柱もあったようだけど、2024年7月時点では柱がなくなっている。

  

4-6 石祠群 
 境内西側、吾妻地方名物の石祠群です。
 にしてもこの数よ・・・
 一瞥した時点で、1基づつ写真を撮る気力はうしなわれた

4-6-1 A群
 じゃあ行ってみよう、点呼!
 
 まず出だしから、最初の「?」のところに敷石のみあって、その上になにもない。何かあったのだろうか。 
 2-10 
 10-19 
 14-23
 画像的には重複もあるけども、アングルが違っているのでカウント間違いの確認用。 
 18-27 
 23-30 
 28-37 
 33-42 
 42-48 
 48の右は植栽がこんもりしていて、たぶんきっと枝のなかにはなにもない。
 49の人は、屋根部分がとれて左側に置いてある。
 50-51のあと、52-54には、植栽の枝のなかに何か石があるんだけども、これがそれぞれ別の1基×3なんだか、なにか1基が3分割されて置いてあるのか、わからない。 
 55-56はいわゆる石製小祠ではなく、なにかしらの石碑ぽい石造物。きっと庚申的ななにか。 
 56の右は少し植栽の切れ目がある。 
 ちょっとわかりにくいんだけど、56の右は植栽がこんもりあって、そのあと57-59がある。
 60からはB群が西から東へ並んでいる。 
 位置関係はこんな感じ。 
 こうみると、南から北へ並んできた〜59と、西から東へ並ぶ60〜の向きが違うのがわかる。 


4-6-2 B群
 B群は、西から東へ、60から。 
 62は石製小祠ではなく、なにかしらの石碑状のもの。 
 62-71。
 66はツタ的な植物が絡まっているけど、なにかしらの石碑状の石造物。 
 ラスト、65-71。70もなにかしら石碑状のもの。 
4-6-3 リスト
 
種(形) 種(推) 名称 年(和) 年(西) H W D S 文字  備考 文献
? 敷石                   台座のみ  
1 石祠                      
2 石祠                      
3 石祠                      
4 石祠                      
5 石祠                      
6 石祠                      
7 石祠                      
8 石祠                      
9 石祠                      
10 石祠                      
11 石祠                      
12 石祠                      
13 石祠                      
14 石祠                      
15 石祠                      
16 石祠                      
17 石祠                      
18 石祠                      
19 石祠                      
20 石祠                      
21 石祠                      
22 石祠                      
23 石祠                      
24 石祠                      
25 石祠                      
26 石祠                      
27 石祠                      
28 石祠                      
29 石祠                      
30 石祠                      
31 石祠                      
32 石祠                      
33 石祠                      
34 石祠                      
35 石祠                      
36 石祠                      
37 石祠                      
38 石祠                      
39 石祠                      
40 石祠                      
41 石祠                      
42 石祠                      
43 石祠                      
44 石祠                      
45 石祠                      
46 石祠                      
47 石祠                      
48 石祠                      
49 石祠                   屋根部脱落  
50 石祠                      
51 石祠                      
52                      
53                      
54                      
55 石碑? 庚申碑?               青面金 「青面金剛」の庚申塔と推定  
56 石碑?               大師    
57 石碑? 庚申碑?                    
58 石碑? 庚申碑?                    
59 石祠                      
60 石祠                      
61 石祠                      
62 石碑? 庚申碑?                    
63 石祠                      
64 石祠                      
65 石祠                   2段台座あり  
66 石碑? 庚申碑?                    
67 石祠                      
68 石祠                      
69 石祠                      
70 石碑? 庚申碑?                    
71 石祠                      

4-6-4 個体

 まずは52〜54

 うーん、3基が六神合体しても何になるのかわからない。


 続いて55

 文字は「青面金」が判読できる。これはもうどう考えても「青面金剛」の庚申塔。
 問題は、「剛」はどこへ行ってしまったのか。地面に埋まっているようには見えない。もっと大きな石だったのが砕けてしまったのではないかなあ。

 これは56

 「大師」かな。ということは「弘法大師」だったはず。

 これは57

 はいわかりません。

 58

 なにか文字が刻まれているけれども、たぶんサイズ的には1文字ぐらいだ。元はだいぶん大きな石だったのだろう。

 62

 「庚申□」。これも本来の姿はもっと大きかったはず。

 66

 これは植物が生い茂って、石造物の詳細がわからない。

 70

 これは石の状態が悪いのではなく、私の学がないために文字が読めない。「庚申□」なような気がする。

4-6-5 情報
 文献資料からの断片情報。どれがどのbノ該当するのかはわかりません>< 
上野国の石造物
分類 道祖神 - 双体道祖神
法量 碑高(h) 52 年代 和暦 宝暦元年
碑幅(w) 27 西暦 1751
総高(s) 62 備考
備考
銘文
宝暦元年
備考
資料 「上州の石造物(一)」 道祖神 東村16
     
       
上野国の石造物
分類 庚申塔 -
法量 碑高(h) 年代 和暦 不詳
碑幅(w) 西暦
総高(s) 備考
備考
銘文
庚申尊
備考
資料 『あがつま あづま』 庚申塔
     
       
 うん。情報が少なすぎで役に立たない>< 

4-6-6 道祖神
 石造物群の隣というか、脇に双体道祖神が1基置いてある。  
  
 かなり摩耗していて、像のディテールは失われている。  
 なにか文字が刻まれているようだけど、さっぱりわからない。
 なんか 一 二 一 二 にしか見えない。   
上野国の石造物
分類 道祖神 - 双体道祖神
法量 碑高(h) 52cm 年代 和暦 宝暦元年
碑幅(w) 27cm 西暦 1751
総高(s) 62cm 備考
備考
銘文
宝暦元年
備考
資料 「上州の石造物(一)」 道祖神 16
『あがつま あづま』 道祖神    
       

  


 
5 神社史
 社伝によると、甲波宿禰神社の創建は延暦4年(西暦785年)だという。 
 朝廷で早良さわら親王を中心とする陰謀事件が起きて、それに巻き添えになった「小野金善」という人物が上野国吾妻郡へ遠流され、彼が甲波宿禰神社を創建したのだと伝わる。
5-1 箱島史
 「箱島」という地名が史料に登場する最古のものは南北朝時代の言及で、吾妻川北岸を指して「北筥嶋」(北箱島)と表記したもの。北岸が「北箱島」ならば、南岸のこのあたりは「南箱島」だっただろう、と推定されている。
 南箱島では、県道の工事に関連して6基の古墳が確認されており、古代人が住んでいたことはわかっている。
 それがどうであったにせよ、5世紀末から6世紀初頭の榛名山の大噴火とそれに伴う大火砕流によって、榛名山北麓の文明は粉砕された。その後、北関東は荒廃し、ヤマト政権の軍門にくだったと考えられている。このあたりには「牧」と呼ばれるウマの飼育場となった。 
 その榛名山の大噴火で誕生したのが伊香保温泉だ。『万葉集』には、伊香保温泉へ行く道すがら詠まれた和歌が収録されている。 
 具体的な故事となると奈良時代末期に遡る。
 延暦4年(785年)に、都(当時は長岡京)から小野金善という人物が配流されてきて、万福寺に住んだという。
 その時点で「万福寺」があったというからには、すでにこの辺りはそれなりの定住者がいたということだろう。
 そしてこの小野金善が、甲波宿禰神社を創建した人物だ。 

  

5-2 「かわ」を祀る3社
 現在、吾妻周辺には「甲波宿禰神社」という名の神社が3社ある。渋川市川島の「甲波宿禰神社」、ここ東吾妻町箱島の「甲波宿禰神社」、それに渋川市行幸田の「甲波宿禰神社」だ。
 「甲波」は「かわ(かは)」と読み、「川」に通じる。祭神も水にまつわる速秋津神だ。
 各社の伝承によると、3社のうち最も古いのは渋川市川島の甲波宿禰神社で、宝亀2年(771年)9月29日の創建という。
 その後、この川島の甲波宿禰神社を勧請して、箱島の甲波宿禰神社と行幸田の甲波宿禰神社が創建されたという話だ。
 最初の川島の甲波宿禰神社は、現在は渋川市川島の小高い丘に鎮座しているのだが、往古は吾妻川の河川敷にあったという。それが天明3年(1783年)の浅間山大噴火のときに発生した吾妻川の大氾濫で流失し、現在地に再建されたものだ。いま、旧鎮座地にはいくつかの石碑が立てられている。
 河川敷に水の神を祭神とし、「かわ」の名をもつ神社が祀られていたのは、吾妻川の氾濫をおさえるためだったと考えられている。
 ここ箱島の甲波宿禰神社も、同じように吾妻川の氾濫を鎮めるために勧請されたのだろうということだ。

  

5-3 早良親王
 箱島の甲波宿禰神社を創建したのは「小野金善」という人物だったという。彼は、都で起きた早良親王の陰謀の巻き添えで上野国に流されてきたのだと伝わる。
 飛鳥時代の672年、天智天皇(中大兄皇子なかのおおえのおうじ)が崩御した。すると後継をめぐって争いが起きる。天智天皇の子の大友皇子おおとものおうじ(弘文天皇)と、天智天皇の弟の大海人皇子おおあまのおうじ(天武天皇)が戦い、後者が勝利した。壬申の乱だ。
 この結果、しばらくは天武天皇の系統が天皇位を継いでゆくことになる。
 ※41代持統天皇と43代元明天皇は、いずれも女性で天武天皇系の妃なのだけど、どちらも天智天皇の娘。
 45代聖武天皇には男子がなかったため、女子の46代孝謙天皇として即位した。まもなく、彼女は「母の介護」を理由に退位し、遠縁で天武天皇系の47代淳仁天皇が即位する。だが政治の実権は上皇となった前・孝謙天皇とその腹心の藤原仲麻呂が握ったままだった。
 やがて母は没するのだが、介護疲れで孝謙上皇は倒れてしまう。これを看病したのが仏僧の道鏡。病気から快方した孝謙上皇は、藤原仲麻呂を遠ざけて道鏡を寵愛するようになってしまう。
 孝謙上皇は、淳仁天皇を廃して自分が再び皇位に就こうとしたとか、道鏡に皇位を譲ろうとしたとか、いろいろな「説」がある。ともかく、天平宝字8年(764年)に「淳仁天皇と結託した藤原仲麻呂が反乱を起こした」ということで藤原仲麻呂は討伐され、淳仁天皇も廃位された。(藤原仲麻呂の乱)
 孝謙上皇は重祚して48代称徳天皇となり、その下で道鏡は権勢をほしいままにした。宝亀元年(770年)に48代称徳天皇が後継者がないまま崩御すると、重臣が集まり、天智天皇系の光仁天皇が49代天皇として即位することを決めた。道鏡は追放された。
 光仁天皇は天智天皇系だったのでもともと皇位につく見込みはほとんどなく、むしろ天武天皇系の後継者たちから命を狙われかねない立場だった。だから若い頃は酒に溺れたふりをして暗愚を装っていたという。 
 その次男が早良親王だ。早良親王にも皇位継承の見込みはほとんどなく、それでいて命を狙われる立場だったので、11歳にして出家し東大寺に入れられた。
 ところが781年、兄の山部王が50代桓武天皇として即位すると、早良親王は32歳にして東大寺から還俗させられて皇位継承者の地位に据えられた。20年のあいだ学究の道に勤しみ、東大寺内でもそこそこ位が昇ってきていた彼にとっては、もしかすると不本意だったかもしれない。
 兄の桓武天皇は、天武天皇系の影響力が色濃い平城京からの遷都を決断、山城国(京都府)に長岡京を造営させた。ところが延暦4年(785年)、その造営工事の責任者だった藤原種継が暗殺された。
 遷都への反対勢の犯行だったとされ、大勢が捕らえられ、首謀者として早良親王も投獄された。皇位簒奪を企てたという疑いもかけられた。なんで皇位簒奪のために藤原種継を暗殺する必要があったのかは謎で、濡れ衣だったと言われている。
 早良親王と藤原種継のあいだにはかねてより対立があったともいう。その頃の桓武天皇は、政務は早良親王にまかせていたのだが、早良親王は「佐伯今毛人さへきいまけびと」という人物が優秀だとして参議に取り立てた。ところが藤原種継はこれに異を唱え、桓武天皇に直談判してこの人事を中止させたという。佐伯氏や大伴氏は当時の有力氏族の一派であり、藤原氏との対立があった。
 捕縛された者の多くは斬首された。大伴氏の大勢が犠牲になった。歌人として有名な大伴家持は、この事件の1ヶ月前に没していたが、大伴氏のトップにいた人物であり、墓を掘り返して遺体を罰した。皇族だった早良親王は罪一等を減ぜられ、淡路島への流罪が決まった。が、早良親王は幽閉されているうちに死んだ。絶食による餓死だったということになっている。
 その後、長岡京への遷都が実施されたのだが、次々と天皇家に不幸が起き、大雨、洪水が多発する。陰陽師の占いにより、早良親王が怨霊となって祟っていると判明した。そこで桓武天皇は早良親王の供養を行うとともに、呪われた長岡京を捨て、あらたに平安京を造り遷都することにした。 

  

5-4 小野金善
 さて、藤原種継殺人事件では多くの公卿が斬首された。一部は流罪となった。
 流されたうちの一人に「小野金善おののかねよし」なる人物がいたそうだ。「いたそうだ」というのは、中央の史料にはその名はなく、どこの何者かもわからない。架空の人物かもしれない。
 信憑性は乏しいが、小野金善は桓武天皇の子だった説がある。大伴家持ほどの人物すら、すでに死んでいたのに墓を暴かれ、多くの有力貴族が死刑となったのに、小野金善は斬首されずに流罪で済んだということは、相当の皇族だったのだろう、ということで出てきた話だ。
 近世に書かれた『我妻記』という文書にも「小野金善は桓武天皇の皇子」と書かれているそうだが、『あがつま あづま』は、それは間違いだと指摘している。
 『我妻記』
 「小野朝臣金善卿は桓武天皇の皇子なり、上野国南箱島茅貝戸に流入御下り後、北の長者(北箱島、今の小野子)え御移り成られ、長者の娘於通又染葉の君を妻とせらる。
 我妻や小野子の里は寒からじ、布尾南に北をおもえば
 と。後に御免をこうむり、禁中え御帰洛なされ候なりと。」

 延暦4年(785年)、小野金善が上野国に遠流されてきた。上記の『我妻記』や旧・東村の明治時代の郷土誌では、小野金善の住んだ地は「茅貝戸」と伝わる。いま甲波宿禰神社の所在地の小字は「宮貝戸」で、そこから南西に隣接する地区が「茅貝戸」だ。
 箱島村の字茅貝戸にはかつて「万福寺」という寺院があって、そこに小野金善が8年住んだという。3年とする資料もある。
 万福寺はのちに甲波宿禰神社の別当寺(神社を管理する寺)となった。しかし火災で焼失、字上宿に移転した。しかしそこでもまた火災に罹り、古記録を失ったという。万福寺は明治の廃仏毀釈のときに廃寺となった。
 坂上田村麻呂の奥州征伐(延暦15年/796年)のなかに、上野国の兵を率いた小野金善も部隊長として加わっていたとか、その軍功で吾妻郡の郡司に任じられたとかいう話もある。
 配流された延暦4年のうちに、小野金善は箱島に神社を創建した。川島の甲波宿禰神社を勧請したのだという。
 これが箱島に関する最古の歴史だということになっている。

  

5-5 明治10年の神社整理
 明治に入ると吾妻地方でも神仏分離と小神社の整理統合が進められた。
 明治10年(1877年)7月には、箱島村の小神社が「移転」により甲波宿禰神社に集められた。
 神社を整理するときには、一般的に「統合」とか「合祀」という術語を用いる場合もあるけども、この神社の場合には「移転」という表現をする。これだと、場所は移ったけど神社としては相変わらず単独の神社として存続しているよ、というニュアンスなのかな?
 このとき同時に、仏教系の堂宇は1つを残してすべて廃止になった。
 で、小神社・堂宇があった土地はすべて売却した。このとき売ってできたお金は、学校設置の資金になったそうだ。 
 『あがつま あづま』に掲載されている廃止になった神社堂宇は下記の通り。
社堂地学校附属地御払下願
明治十二年
 
大字  小字  番地 神社堂宇名  土地面積   
箱島 赤沢   738 十二神社 0・28  
箱島 橋倉  994 伊勢社 1・10  
箱島 橋倉  995 天神社 1・11  
箱島 諏訪ノ久保 1433 諏訪社 9・00  
箱島 諏訪 1437 虚空蔵堂 1・00  
箱島 諏訪 1551 薬師堂 9・14  
 たぶん、面積の「1・10」は「1反10畝」のことで、平米に換算すると1982uになると思う。 
 同じ旧東村の岡崎地区に鎮座する榛名神社では、明治時代移行の神社統合の記録が割とはっきり残っている。それに比べると、ここ甲波宿禰神社の合併の記録は情報に乏しい。明治初期に社務所を焼失したことや、形式上のこととはいえいちど三甲原神社に統合されたことが影響しているのかもしれない。
 昭和4年(1929年)と昭和40年(1965年)の文献資料では、境内末社を「58社」としており、あちこちの情報源もそれを踏襲しているようだ。下の表のとおり、たぶん数え方としては木造社殿のある「境内社」を1、そのほかの小祠を57、合計58という数え方のようだ。
 一方、4-5-3のリストにあるように境内の石製小祠はおそらく61基あるし、立派な境内社が1棟あるので、どこかで数が合わない気がする。あるいは、石祠のうちの何基かが「神社」ではなく「庚申塔」なのかも。
 下の地図は『あがつま あづま』の小字リストを基に小字地名を落とし込んだものだけど、完全ではない。一部の小字名は地番はわかってもその地番がどこなのかわからないので大雑把な位置を示すだけだ。また、この小字表には出てこない地名(「行座」とか)もあり、また同書内にも小字リストに登場しない地名の言及もあるので、いずれにしても完全版ではない。
 「◯貝戸」(◯がいと)という地名はこの地方に北関東、とくにこの地域特有のもので、谷戸地形(谷が開けるところ)につけられているようだ。
 甲波宿禰神社の近辺には「宮ノ前」「宮貝戸」などの小字があるほか、「三島平」は三島神社、「諏訪ノ久保」は諏訪神社、「十二の下」は十二神社の存在を想像させる。
神明宮 祭神 所在 合併時期 備考
  @ 神明宮? 天照皇大神
菅原道真公
字 橋倉 M10.7 「移転」  
  @ 神明宮? 建御名方命 字 諏訪ノ久保 M10.7 「移転」  
  @ 神明宮? 大山祇命ほか 字 赤沢 M10.7 「移転」  
伊勢宮 3社        
  1 伊勢宮? 天照大神 字 行座 M10.7 「移転」  
  2 伊勢宮?   M10.7  
  3 伊勢宮?   M10.7  
賽神社 3社        
  4 猿田彦命
  5    
  6    
山神社 17社      
  7 山神社 大山祇命 字 三島平 M10.7 「移転」  
  8 山神社   字 赤沢 M10.7 「移転」  
  9 山神社   字 橋倉 M10.7 「移転」  
  10 山神社   字 嶌ノ木沢 M10.7 「移転」  
  11 山神社   字 足利保 M10.7 「移転」  
  12 〃?   M10.7 「移転」  
  13 〃?     M10.7 「移転」  
  14 〃?     M10.7 「移転」  
  15 〃?     M10.7 「移転」  
  16 〃?     M10.7 「移転」  
  17 〃?     M10.7 「移転」  
  18 〃?     M10.7 「移転」  
  19 〃?     M10.7 「移転」  
  20 〃?     M10.7 「移転」  
  21 〃?     M10.7 「移転」  
  22 〃?     M10.7 「移転」  
  23 〃?     M10.7 「移転」  
稲荷神社 10社        
  24 倉稲魂命 字 宿 M10.7 「移転」  
  25   字 行座 M10.7 「移転」  
  26   字 鳴沢 M10.7 「移転」  
  27   M10.7 「移転」  
  28   M10.7 「移転」  
  29   M10.7 「移転」  
  30   M10.7 「移転」
  31   M10.7 「移転」
  32   M10.7 「移転」   
  33   M10.7 「移転」  
水神  2社         
  34 水波女命 字 赤沢 M10.7 「移転」  
  35    
春日社           
  36   天児屋根命      
八幡社 2社        
  37   誉田別命 字 森 M10.7 「移転」  
  38          
大鳥社(大神社) 5社        
  39   日本武尊 字 竹ノ尾 M10.7 「移転」  
  40     字 足利保 M10.7 「移転」  
  41          
  42          
  43          
秋葉社 3社        
  44   埴山媛命 字 三島平 M10.7 「移転」  
  45          
  46          
三島神社        
  47   大山祇命      
諏訪神社        
  48   建御名方命      
八坂社(秋葉社) 2社        
  49   素戔嗚尊      
  50          
多賀社           
  51   伊弉諾尊      
菅原社          
  52   菅原道真公      
琴平社          
  53   金山彦命      
吾妻社 2社          
  54   日本武尊      
55          
阿夫利社        
  56   日本武尊      
御嶽社          
  57   国常立尊      
 一番上の「神明宮」に関しては、名称こそ「神明宮」だけども、天照大御神のほかに大山祇命・建御名方命・菅原道真公も合祀しているので、山神社・諏訪神社・天神社(菅原社)の性格も兼ね備えているのだろう。

  

5-6 幻の東神社
 国は神道政策の基本的な考え方として、江戸時代までの迷信を排除し、1村1神社とすることを目指していた。そして、その神社は、しかるべき格式を備えるものとすべきとした。たとえば、境内の面積、建物・設備、神社の資産、崇敬者数、などの数値目標を設定し、一定の水準に達したものを「村社」「郷社」などと格付けを与えた。また、これを実現するため、所定の基準に未達の神社は廃止すること、その跡地が荒廃しないように植樹すること、などを求めた。
 旧東村に相当する奥田村・新巻村・五町田村・箱島村・岡崎村では、この指針にしたがい、明治10年に神社の整理合併を実施、箱島村には甲波宿禰神社だけが残った。
 泡沫小神社を整理せよという国の神社統制は、明治21年(1888年)の市町村制施行でいっそう強化され、明治35年(1902年)には「神社整理に関する訓令」が出て、明治37年(1904年)、明治40年(1907年)にもより厳しい命令を出した。
 この結果、こうなった。
明治12年(1879年) 明治30年頃 明治末期
村名 神社名 境内社数   神社名 社格   神社名 社格
岡崎 広場 稲荷神社 2 稲荷神社 無格社    
岡崎 日向 大山祇神社 1 大山祇神社 無格社    
岡崎 大久保 榛名神社 5 榛名神社 村社 榛名神社 村社
岡崎 中組 諏訪神社 5 諏訪神社 無格社    
岡崎 柏原 八幡神社 5 八幡神社 無格社 八幡神社 無格社
箱島 宮貝戸 甲波宿禰神社 58 甲波宿禰神社 村社 甲波宿禰神社 村社
五町田 明ヶ畑 七社神社 33 七社神社 無格社 七社神社 無格社
五町田 金原 稲荷神社 6 金原稻荷 無格社 金原稻荷 無格社
五町田 三島森 三島神社 12 三島神社 村社 三島神社 村社
五町田 高橋 大山祇神社 21 大山祇神社 無格社 大山祇神社 無格社
五町田 武沢 大山祇神社 13 大山祇社 無格社 大山祇社 無格社
奥田 萩原 諏訪神社 0 諏訪神社 無格社    
奥田 マミ穴 山祇神社 0 大山祇神社 無格社  
奥田 宮貝戸 白鳥神社 11 白鳥神社 村社 白鳥神社 村社
奥田 宮貝戸 菅原神社 0 菅原神社 無格社  
奥田 宮貝戸 山祇神社 0 大山祇神社 無格社  
奥田 宮貝戸 諏訪神社 0 諏訪神社 無格社  
新巻 柳沢 菅原神社 14 菅原神社 村社 菅原神社 村社
新巻 明神神社 0 神明宮 無格社    
新巻 菅原 飯綱神社 0 飯綱社 無格社    
 神社名だけみると、岡崎村は明治12年に5社を2社まで合併したのに対し、五町田村は5神社のままなので、五町田村が国の政策をまじめに推進しなかったように見えるかもしれない。
 が、「境内社数」に着目していただくと、五町田村の5神社は明治12年の時点で境内社数が6〜33と相当あり、明治12年以前にそうとう合併を進めたことがわかる。これに比べると、岡崎村はそもそも神社数が少なかったことがわかるし、奥田村や新巻村では、合併先が一箇所だけに限られていたことがわかる。箱島村は、明治12年の時点で、村内に58あった小神社をぜんぶ1箇所に集約済なので、えらい。よくやった。
 ところが、国の基準では、神社が格式ある状態を維持するために必要な資金を賄えるよう、「神社の財産」も問われていた。この当時は、「神社の収入は、最低限でも80円以上あること」と定められていた。
 上の表のうち、岡崎村は、村社・榛名神社は782円で余裕でクリア、無格社八幡神社も170円で楽々クリア。奥田村の白鳥神社は81円でギリギリだけど、貯金が914円あってセーフ。
 しかし箱島村の甲波宿禰神社と、五町田村の5神社と、新巻村の菅原神社は、財産収入80円に満たなかった。このためこれらの神社は単独での存続が不可能と判定を受け、合併するよう要求された。
 というわけで明治40年(1907年)4月、3村合同で群馬県知事に神社の合併の申請を出した。新神社名は、東村の神社なので「東神社」とすることにした。
 ところがこれが却下された!神社名の「東神社」がダメなので再考して再申請しろ、ということだった!だって、群馬県だけでも「東村」という村は5つもあるし、いまのご時世「東神社」を名乗るのは「穏やか成らざる趣を以て、再考方の御達しあり」ということだった。
 地元で話し合いを行い、「やっぱり『東神社』がいいでーす(^^)」と再申請を出すが、ダメだった!そらそうやろ。「じゃあいいでーす」ってなるわけないやろがい。
 そこで地元はいよいよマジで話し合いの結果、三島神社の「三」、甲波宿禰神社の「甲」、菅原神社の「原」をとって、「三甲原神社」の名前で申請を出したところ、8月9日付で許可がおりた。ヤケクソみたいな割と最低のネーミングセンスだけど、当時の村民も「ちっうるせーな、クソみたいな名前で出したらあ!」みたいな気分だっただろうし、申請を受けた県庁の役人も「逆切れみたいな名前で申請出しやがって、腹立つからその名前で許可したる、ざまあみろ」みたいな気持ちだったのではないだろーか!
 こうして、五町田村の「三島神社」が「三甲原神社」に改名して再出発することになった。三島神社を存続母体としたのは、そこが東村役場の目の前にあったからだ。新生NEW三甲原神社は、毎年3月15日に例祭をすることになった。
 だが誰もそれを守らなかった!三島神社は、箱島村や新巻村の住民にとっては遠すぎた。それぞれの村にはそれぞれの伝統があり、これを一箇所に集約して一新しろというのは、非現実的だった。祭典、祭礼は一度も実施されなかったという。(大祭のときでも、それぞれの村の小学生を三甲原神社まで歩かせるのは無理でしょ、という理屈だった。)
 そこで箱島村では、明治42年(1909年)に、合併を取消す申請を出した。「なかったことに」ということだったのだが、これは許可されなかった。
 その後、年数をかけて合併前の各神社の財産を増やし、それぞれが単独でも基準をクリアするようになった。
地区 神社名 社格 財産収入 預金 土地 その他資産  備考
箱島 甲波宿禰神社 村社  90円余   600円 畑1町1反6畝15歩
(約1.15ha)
   
五町田 三島神社 村社  90円余 4,427円 畑1反6畝15歩(約0.16ha)
山林2畝29歩(約0.03ha)
  村内の5社を1社に集約
新巻 菅原神社 村社 255円余 1,600円   国債  
 大正9年(1920年)3月18日、「三甲原神社」を解散して、以前の3神社に戻すよう申請が出された。手続論としては「合併変更」で、明治の合併時に遡って合併方式を変更し、三島神社だけが村内の5社を1社にします、という理屈のようだ。これが翌大正10年(1921年)5月31日付で許可となり、正式に「甲波宿禰神社」は再び箱島地区の村社となった。

  


 
6 情報
6-1 諸元
名称
異表記 甲波宿祢神社
古称 正一位宿弥大明神
古称 宿弥大明神
旧称 宿祢神社
所在
経緯度 北緯 036 度 32 分 47.64 秒
東経 138 度 55 分 38.81 秒
現所在 群馬県 吾妻郡 東吾妻町 大字 箱島 1136番地
地名地番 群馬県 吾妻郡 東吾妻町 大字 箱島 字 宮貝戸 1136番地
旧表記 群馬県 吾妻郡 東村 大字 箱島 字 宮貝戸 1136番地 
注記
電話番号 0279−75−4684
祭神
主祭神 速秋津彦命、速秋津姫命
沿革
創建 不詳
口伝 延暦4年(785年)頃
境内
面積 636坪36(2103.67u)(1978『吾妻郡社寺録』)
社殿
本殿 一間社(1.22m×1.22m)・入母屋造・銅板葺・向拝軒唐破風付
本殿上屋
拝殿・幣殿 正面3間×側面2間・入母屋造・平入銅板葺・千鳥破風・向拝軒唐破風付
境内社  
倉庫  
摂末社
境内社
境内合祀
境内末社 58社
社格
近代社格 (旧)村社
神饌幣帛料供進神社(大正15年(1926)3月26日指定)
現代 宗教法人甲波宿弥神社
祭礼
春祭 3月15日(1978『吾妻郡社寺録』)
4月15日(2022町資料)
夏祭  
秋祭 9月29日(1978『吾妻郡社寺録』)
9月最終土曜日(2022町資料)
備考  
氏子
世帯数 215戸(1978『吾妻郡社寺録』)
   
文化財
町指定
重要文化財
甲波宿弥神社の彫刻・神輿
(指定日:昭和48年3月23日)
町指定
天然記念物
甲波宿弥神社の大ケヤキ
(指定日:昭和48年3月23日)
交通
鉄道 JR吾妻線「小野上」駅から約1.5km(車3分)
バス 東吾妻町コミュニティバス・湯中子線「箱島」バス停より約330m(徒歩5分)
「箱島」ICから約390m(車1分)
情報源
主要文献
『上野国神社明細帳11碓氷郡・吾妻郡・利根郡・佐位郡』 1879
『上毛吾妻郡神社小誌』 1915
『群馬縣吾妻郡誌』 1929
『あがつま あづま』 1965
『吾妻郡社寺録』 1978
『群馬県百科事典』 1979
『日本歴史地名大系10』 1987
『角川日本地名大辞典』 1988
『群馬新百科事典』 2008
『令和元年版吾妻郡神社要項』 2019
「群馬県近世寺社総合調査報告書−歴史的建造物を中心に−神社編」 2022

  

6-2 年表
※本表は旧暦・新暦の日付の換算を考慮していない。
和暦 干支 西暦 事項 情報源
約50万〜25万年前 榛名山・赤城山の誕生  
約225,000年前 古榛名山のカルデラ湖(古榛名湖)生成  
約 42,000年前 古榛名山が大噴火、現榛名湖の誕生  
約 35,000年前 日本列島での旧石器文化の確実な証拠  
約 31,000年前 榛名湖の噴火、榛名富士・蛇ヶ岳の生成  
約 20,000年前 榛名山の噴火、相馬山の生成  
約 20,000年前 日本列島特有の旧石器文化の普及  
約 16,000年前頃 縄文時代はじまる  
約 10,000年前 榛名山の噴火、水沢山の生成  
     
神武帝元年 辛酉 紀元前660年 神武天皇即位年とする(皇紀元年) 戦前皇国史観
         
崇神天皇48年 辛未 紀元前611年 豊城入彦命(上毛野氏・下毛野氏の祖)が東国を治める  
         
    57         「漢委奴国王」印 『後漢書』「東夷伝」 
景行天皇40年 庚戌 110         日本武尊が碓日の坂を経由して上野国を去る  
景行天皇55年 乙丑 125     彦狭島王が東山道15国の都督として下向するも、道中病死し上野国に埋葬 『日本書紀』
景行天皇56年 丙寅 126         御諸別王(豊城入彦命の3世孫)が東国を治める 『日本書紀』
応神天皇15年 甲辰 284         荒田別・巫別(両者とも上毛野氏の祖)が百済に使者として派遣される 『日本書紀』
この頃             毛野国が上毛野国と下毛野国に分割となる  
仁徳天皇53年 乙丑 365         上毛野氏の一族、田道が新羅に派遣され、新羅軍を破る  
仁徳天皇55年 丁卯 367         田道が蝦夷と戦い敗死  
                 
紀元前3〜5世紀頃 弥生時代はじまる  
    489         榛名山北部で大噴火、二ツ岳の生成  
  丁亥 507 継体天皇即位  
    525〜550 榛名山北部・二ツ岳で大噴火、榛名山北部吾妻地方の文明が壊滅、毛野国衰退  
宣化天皇03年 戊午 538         仏教伝来(552年説あり)  
用明天皇02年 丁未 587         仏教派の蘇我馬子が神道派の物部守屋を滅ぼす  
推古天皇09年 辛酉 601         新羅の間諜・迦摩多が上毛野国に配流  
推古天皇35年 丁亥 627         信濃国から蠅の大群が襲来  
舒明天皇09年 丁酉 637         上毛野君形名が蝦夷反乱を討伐  
大化 乙巳 645     大化の改新  
丙午 646         榛名山大噴火 岡崎方面で大被害  
                  この頃に吾妻郡設置か  
斉明天皇04年 戊午 658         有馬皇子の変に際し、守大石らが上毛野国に配流  
    660         「南箱島」村を「新定利」「箱島」「五町田」の3村に分割 『あがつま あづま』 
天智天皇02年 癸亥 663         上毛野君稚子が新羅征伐の将に任じられる  
天武天皇元年 壬申 672         壬申の乱  
天武天皇13年 甲申 684         上毛野君が朝臣の姓を賜る  
大宝 辛丑 701 21 「大宝律令」成立  
癸卯 703 17 上野国で疫病 『続日本紀』
和銅 庚戌 710 10 平城京遷都  
辛亥 711 上野国に多胡郡を設置 多胡碑
壬子 712 28 『古事記』成立  
養老 庚申 720 21 『日本書紀』完成
天平年間 729 〜 749 『万葉集』に子持山を詠んだ歌が掲載  
天平 13 辛巳 741         榛名山二ツ岳噴火  
天平宝字4年 庚子 760 26 上野国で飢饉、朝廷が救援 『続日本紀』
天平宝字8年 甲辰 764 10 20 上毛野朝臣馬長が上野国司となる 『続日本紀』
神護景雲2年 戊申 768 掌膳采女佐位朝臣老刀自を上野国国造に任じる 『続日本紀』
宝亀 辛亥 771 29 川島の甲波宿禰神社創建  
天応 辛酉 781         桓武天皇が即位  
延暦 乙丑 785 23 藤原種継暗殺事件
28 暗殺事件の首謀者として早良親王幽閉  
        小野金善が箱島へ流罪となる  口碑伝説
        小野金善が甲波宿禰神社を創建 口碑伝説
庚午 790         上野国など14国で飢饉  
10 辛未 791         坂上田村麻呂の征討開始 小野金善が吾妻七氏を率いて従軍との伝承 『中之条町誌』
13 甲戌 794 10 22 平安京遷都  
 
弘仁 辛卯 811 15 上野国が「上国」から「大国」に格上げ 『日本後紀』
天長 丙午 826 上野国が親王任国となる 『類聚三代格』
承和 甲寅 834 21 阿保親王が上野国国司となる 『続日本後紀』
乙卯 835 29 伊香保神が名神社となる 『続日本後紀』
嘉祥 庚午 850 12 甲波宿禰神が官社となる 『文徳実録』
貞観 壬午 862         吾妻郡擬少領上毛野坂本朝臣真道の名が文書に記載 『政事要略』 
丁亥 867 20 貫前神に従四位上、赤城・伊香保神に正五四位下、甲波宿禰神に従五位上など 『三代実録』
元慶 庚子 880 25 貫前神に従三位、赤城・伊香保神に従四位上、甲波宿禰神に従四位下、稲裏地神に従五位下など 『三代実録』
仁和 乙巳 885         上野国で班田制が崩壊  
延喜 13 癸酉 913         『延喜式』に上野国9牧記載 「市城牧」「治尾(沼尾?)牧」が当地域か  
延長 丁亥 927         『延喜式』巻9・10「神名帳」成立  
天慶 己亥 940         平将門の乱  
天暦 丁未 947         市代牧から「白波」など名馬を朝廷へ献上  
永承 辛卯 1051         前九年の役  
永保 癸亥 1083         後三年の役  
保元 丙子 1156         保元の乱  
平治 己卯 1159         平治の乱  
                     
文治 乙巳 1185 24 壇ノ浦の戦い、平家滅亡  
建久 壬子 1192 12 源頼朝が征夷大将軍となる  
                     
康元 丙辰 1256     上野国守護の安達泰盛が評定衆に加わる  
11     長尾景煕が白井荘を与えられ、白井城を築城  
文永 11 甲戌 1274 10     蒙古襲来(文永の役)  
弘安 庚辰 1280         一遍上人が上野国に来訪  
辛巳 1281     蒙古襲来(弘安の役)  
        浅間山噴火  
乙酉 1285 11   霜月騒動 上野国守護安達泰盛と上野国の御家人が破れ、北条得宗家が上野国守護となる  
永仁 戊戌 1296         『上野国神名帳』に吾妻郡13座を所載  
建武 甲戌 1334         建武の新政  
    後醍醐天皇が護良親王・新田義貞・楠木正成らに足利尊氏討伐を命じる  
延元 丁丑 1338         新田義貞が越前国で討死(建武4年)  
観応 庚寅 1350         観応の擾乱(〜1352)(正平5年)  
       
                     
応永 乙亥 1395 24 上杉憲定が上野国守護となる  
                     
23 丙申 1416         上杉禅秀の乱  
                     
永享 10 戊午 1438         永享の乱 足利持氏と上杉憲実が対立 長尾景仲が関東管領上杉憲実を白井城に移す  
享徳 年  甲戌 1455         享徳の乱はじまる(〜1483) 関東管領上杉憲忠が暗殺される  
応仁 丁亥 1467 26 応仁の乱はじまる  
文明 癸巳 1473         塩谷氏と大野氏が争う  
                  この頃、吾妻33番観音が成立という  
丙申 1476         長尾景春の乱 関東管領上杉顕定に叛く  
                  長尾景春が太刀一振を奉納  
12 庚子 1480         吾妻方面の諸将が平井城・上杉顕定に服属  
14 壬寅 1482 11 27 都鄙和睦 享徳の乱の終結  
18 丙午 1486         京都常光院の堯恵が草津温泉・伊香保温泉に逗留 北国紀行
文亀 壬戌 1502         連歌師の宗祇が伊香保温泉に逗留 宗祇終焉記
永正 庚午 1510     上杉顕定討死 養子の上杉憲房が白井城に入る  
10 癸酉 1513     箕輪城長野憲業が大戸浦野氏を攻略を榛名山に祈願 榛名山文書
                     
享禄 庚寅 1530 11 箕輪城長野憲業が吾妻で討死 業正が後継  
天文 15 丙午 1546         河越夜戦 関東管領上杉憲政が北条氏康に大敗し平井城へ退く  
20 辛亥 1551         北条氏康が上野国へ侵攻、平井城上杉憲政を破る  
21 壬子 1552 10 上杉憲政が平井城を出奔、越後国上杉謙信を頼る  
弘治 丁巳 1557 『上野国神名帳』の写本が現存  
永禄 庚申 1560 29 上杉謙信が上野国へ侵入  
辛酉 1561     上杉謙信が北条氏の相模国小田原城を包囲  
21 箕輪城主長野業正が没し、業盛が後継となる  
丙寅 1566     上杉謙信、沼田城から吾妻郡方面攻略  
    武田信玄が箕輪城の長野氏を滅ぼす  
        武田氏麾下の海野氏が吾妻方面の郡代に任ぜられる  
12 己巳 1569         北条氏と上杉氏が和睦、上野国は上杉氏領となる  
元亀 辛未 1571         武田信玄配下の真田氏が上野国白井城を攻略  
壬申 1572         武田家が白井城を攻め落とす  
        このころ、武田軍が箱島に拠点を築いたか  
癸酉 1573 12 武田信玄没  
天正         上杉謙信が上野国白井城を攻略  
乙亥 1575 21 長篠の戦い 武田氏の勢力衰える 吾妻方面の将兵多数討死と云う  
        神輿の製作年と伝わる  
丙子 1576         真田昌幸が岩櫃城に入城  
己卯 1579         武田勝頼と上杉景勝が和睦し、上野国は武田家・信濃国は上杉家と定める  
庚辰 1580 23 真田昌幸による沼田城攻略  
     
武田勝頼が真田昌幸を沼田へ帰城させる  
10 壬午 1582 11 武田勝頼が天目山で自害、武田氏滅亡  
23 織田信長が上野国を滝川一益に与える  
本能寺の変  
        天正壬午の乱(上野国などを巡る徳川・北条・上杉氏の争乱)  
    北条氏が大戸方面から吾妻郡へ侵攻  
12 29 徳川家康と北条氏直が講和(天正壬午の乱終結)  
11 丁亥 1583 豊臣秀吉、九州平定  
15 丁亥 1587 近衛前久が草津温泉で湯治  
17 己丑 1589 21 秀吉が上野国沼田を北条家へ、名胡桃城を真田家へ仕置  
12     吾妻合戦  
18 庚寅 1590     中之条古城が落城  
秀吉による小田原攻めに伴い、上野国の北条方の諸城も攻略  
        徳川家康により本多康重が白井城に入り白井藩(2万石)創始
五町田・箱島・岡崎の3村は白井藩に編入
 
15 真田信幸が沼田に入り沼田藩創始
新巻・奥田の2村は沼田藩に編入
 
      吾妻郡の諸城を破却  
文禄 壬辰 1592         朝鮮出兵(文禄の役)  
慶長 庚子 1600 15 関ヶ原の合戦  
        本多康重が上田城合戦の武功により岡崎藩5万石へ移封  
11     松平康長が白井藩2万石へ移封 白井城は牧野康成に委任  
壬寅 1602         白井城が焼失、松平康長は下総国古河藩へ転封、白井藩は廃藩天領となる  
                     
元和 乙卯 1615     大坂夏の陣  
         
丙辰 1616         西尾忠永が白井2万石に入る(白井藩の復活)  
戊午 1617         本多紀貞が白井1万石で入封  
         
癸亥 1622         本多紀貞が死没、白井藩廃藩 旗本領に分割  
         
寛文 甲辰 1664         検地帳に社地の記録  
         
天和 辛酉 1681         沼田藩真田信直が改易
新巻・奥田2ヶ村が天領となる
 
         
癸亥 1683         岡崎新田・箱島・五町田の3ヶ村が天領となる  
 
元禄 庚午 1690         吾妻33観音札所再興  
享保 19 甲寅 1734     鳥居建立、「宿弥大明神」の銘  
明和 乙酉 1765         境内道祖神の建立  
安永 乙未 1775 御輿の制作年
天明 癸卯 1783 浅間山大噴火(天明の浅間焼け)  
文化 丙寅 1806         10年に一度の豊作となる  
文政 年  乙酉 1825 18 異国船打払令  
10 丁亥 1827         現在の東村一帯が岩鼻代官所(現在の高崎市南部)の管轄となる  
嘉永 壬子 1852     句額奉納  
癸丑 1853 ペリー、浦賀に来航   
安政 甲寅 1854 25 吾妻川の通船許可  
日米和親条約、下田・箱館を開港  
戊午 1858 19 大老井伊直弼、独断で日米修好通商条約を締結  
文久 辛酉 1861 11 10 和宮降嫁、中山道を通過  
                     
慶応 丁卯 1867 10 14 徳川慶喜が大政奉還を上奏   
年  戊辰 1868 鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)  
          神仏分離令  
明治 明治改元  
    別当院(社務所)を焼失  
         「甲波宿祢神社」に改号  
己巳 1869     版籍奉還  
辛未 1871 14 廃藩置県  
11 10 大区小区制施行  
        社格制度創設  
12 太陰暦から新暦に切り替え(12月3日が明治6年1月1日となる)  
25 市制・町村制施行  
壬申 1872 11     群馬県で地蔵・観音像・庚申塚・十三夜塔・馬頭観世音などの撤去命令が出る  
10 丁丑 1877 村内諸社を境内へ移転  
11 戊寅 1878 22 郡区町村編制法を領布  
        箱島・五町田・岡崎3ヶ村の連合役場を五町田に設置  
17 甲申 1884 25 上野=高崎間に鉄道開業、式典に明治天皇行幸   
        新巻・奥田を加えた5ヶ村連合となる  
         
22 己丑 1889 町村制により、5ヶ村が合併して吾妻郡東村となる  
    絵馬奉納(「武運長久祈願」)  
23 庚寅 1890     句額奉納  
27 甲午 1894 25 豊島沖海戦(日清戦争開戦)  
28 乙未 1895 17 下関条約(日清戦争終結)  
29 丙申 1896 29 郡の再編により、吾妻郡設置  
31 戊戌 1898 徳冨蘆花「不如帰」連載開始(伊香保温泉が舞台)  
35 壬寅 1902 30 日英同盟  
37 甲辰 1904 10 ロシアに宣戦布告(日露戦争開戦)   
38 乙巳 1905 奉天会戦はじまる(第七師団派遣)  
ポーツマス条約(日露戦争終結)  
40 丁未 1907     郡内で神社の合併が盛んになる  
    甲波宿禰神社(箱島村)、五町田村の5神社、新巻村の菅原神社の計7神社を合併し、五町田村の三島神社に統合する旨、群馬県知事に申請  
28 7神社の合併後の神社名を「東神社」とするよう再申請  
7神社の合併後の神社名を「三甲原神社」とすることで申請許可  
42 己酉 1909         箱島村が「三甲原神社」を解散して元に戻す申請をするが不許可  
21 浅間山噴火  
12 浅間山噴火  
10 17 鯉沢(渋川)=中之条に鉄道敷設  
12 前橋=渋川間に電鉄開業  
43 庚戌 1910 12 25 浅間山噴火  
                     
44 辛亥 1911 浅間山噴火  
12 浅間山噴火  
45 壬子 1912 30 明治天皇、崩御  
大正 1912 30 日  大正改元   
甲寅 1914 28 第一次世界大戦勃発  
11 10 大正天皇即位大礼  
         
己未 1919 28 ベルサイユ条約締結(第一次世界大戦終結)  
庚申 1920 18 三甲原神社を解散し元に戻すよう「合併変更願」提出  
11     渋川=中之条間の鉄道が電車となる(長野原線)  
10 辛酉 1921 31 三甲原神社の「合併変更願」(解散)が許可となる  
上越南線・高崎=渋川間開業  
12 癸亥 1923 関東大震災  
13 甲子 1924 18 神饌幣帛料供進神社に指定  
15 丙寅 1926 18 草津電鉄(草津=軽井沢)開通  
12 25 大正天皇崩御  
昭和 1926 〃  昭和改元  
           
戊辰 1928 11 10 昭和天皇即位大礼  
庚午 1930 12 浅間山噴火
辛未 1931 上越線全通  
18 柳条湖事件(満州事変開始)  
甲戌 1934 社号標建立(陸軍特別大演習記念)
 
12 丁丑 1937 日中戦争開戦(盧溝橋事件)  
13 戊寅 1938     狛犬奉納(「日支事変皇軍戦勝紀年」)  
14 己卯 1939 ドイツがポーランドへ侵攻(第二次世界大戦開戦)  
15 庚辰 1940 11 10 紀元二千六百年記念行事  
16 辛巳 1941 12 真珠湾攻撃(太平洋戦争開戦)  
17 壬午 1942 参道前の石標奉納  
19 甲申 1944 ノルマンディー上陸作戦  
10 20 レイテ沖海戦  
20 乙酉 1945 国鉄長野原線・渋川=長野原間の開通(現在の吾妻線)  
ドイツ降伏  
15 終戦の詔  
12     GHQの神道指令(国家神道・社格の廃止)  
21 丙戌 1946 農地改革  
24 己丑 1949 31 キティ台風 群馬県内で死者42名  
 
28 癸巳 1953 町村合併法制定(昭和31年9月末までの時限立法)、町村合併相次ぐ  
     
30 乙未 1955         神武景気  
     
33 戊戌 1958 11 10 浅間山噴火  
34 己亥 1959 14 浅間山噴火  
39 甲辰 1964 11 長野原=草津間に草津有料道路が開通  
 
40 乙巳 1965 12 吾妻川支流に草津温泉廃水の中和用の品木ダム完成  
46 辛亥 1971 国鉄吾妻線開業  
辛亥 11 28 上越新幹線起工  
48 癸丑 1973 23 彫刻・御輿が東村の重要文化財に指定
56 辛酉 1981 12 23 上越新幹線の中山トンネル貫通  
57 壬戌 1982 11 15 上越新幹線の大宮・新潟間で営業開始  
60 乙丑 1985 14 上越新幹線が上野駅へ乗り入れ  
乙丑 10 関越自動車道全通  
64 己巳 1989 昭和天皇崩御  
平成 1989 平成改元  
12 庚辰 2000     扁額奉納(群馬県知事 小寺弘之)   
16 甲申 2004 浅間山噴火  
18 丙戌 2006 27 東村と吾妻町が合併し東吾妻町となる  
31 己亥 2019 30 平成天皇が譲位  
令和 令和改元  
                     
 

  

6-3 資料
6-3-1 1664(寛文4年)寛文検地
白井領箱島村寺社水帳
寛文4年 1664年
 

除地反別

場所

大明神免      

   

廿九

甲波宿祢大明神
3反29歩 ≒  3071u
諏訪大明神免      

   

弐拾九

すわくぼ
2反29歩 ≒  2079u
伊勢名神免        

二十一

はしぐら
7畝21歩 ≒  763u
三島大明神免          

二十九

三島平
3畝29歩 ≒  393u
虚空蔵免      

 

足利保
1反7歩 ≒  1685u
観行院寺内          

弐拾八

宿裏、屋敷
2畝28歩 ≒  290u
不動免      

三十一筆
9反8畝2歩 ≒  9725u
天神免          

十四

天神
8畝14歩 ≒  839u
十二社免          

廿

赤沢
8畝20歩 ≒  859u
名主免 屋敷    

廿六

太郎八
1反3畝26歩 ≒  1375u
常使免          

二十八

 
7畝28歩 ≒  786u
右の通り寺社領先規により、つけ来りの由惣百姓の訴えにつき、今度検地水帳を除き此の如く別帳に之を記す者也。  
  寛文四季 甲辰 九月 岡上 次郎兵衛  
 

  

6-3-2 1879(明治12年)『上野国神社明細帳』
 明治初期に編纂の『上野国神社明細帳』。
上野國吾妻郡箱島村鎮座
     鎮守 宿祢神社
  間口三間半 奥行弐間半
3間半 ≒  6.36m
2間半 4.54m
    拜殿 間口弐間 奥行三間半  
    神楽殿 間口三間半 奥行五間
5間 ≒  9.09m
  鳥居
  祭神 速秋津比賣神、勧請年記 不詳、社号改替等無之  
  神位 無之  
  祭日 九月十九日  
  社地 竪弐拾五間 横弐拾五間 古今沿革無之
25間 ≒  45.4m
  勅願所  宸翰 勅額 御撫物 御玉串献上等も無之  
  社領除地現米高 壱石四斗壱升  
  造営普請之儀氏子ニテ仕来候   
 







末社







八坂大神
八幡大神
稲荷大神
猿田彦大神
春日大神
住吉大神
日本武神社
秋葉大神
 
    摂社





諏訪神社
宮  間口弐尺 奥行三尺
祭神 建南方神
神位 無之
祭日 七月廿七日
社地 東西三拾間 南北弐拾壱間
2尺 ≒  60.6cm
3尺 ≒  90.9cm
30間 ≒  54.5m
21間 ≒  38.2m
    摂社





伊勢大神
宮  間口弐尺五寸 奥行三尺
祭神 天照大御神 豊受大神
神位 無之
祭日 九月十六日
社地 東西弐拾間 南北拾弐間
2尺5寸 ≒  75.8cm
3尺 ≒  90.9cm
20間 ≒  36.3m
12間 ≒  21.8m
    摂社





天神社
宮  間口弐尺 奥行弐尺
祭神 菅公
神位 無之
祭日 正月廿五日
社地 東西弐拾間 南北拾三間
2尺 ≒  60.6cm
20間 ≒  36.3m
13間 ≒  23.6m
    摂社





十二神社
宮  間口弐尺五寸 奥行弐尺
祭神 大山祇命
神位 無之
祭日 正月十二日
社地 東西拾間 南北拾七間
2尺5寸 ≒  75.8cm
2尺 ≒  60.6cm
10間 ≒  18.2m
12間 ≒  30.9m
    摂社





三嶌神社
宮  竪三尺 横三尺
祭神 溝咋姫命
神位 無之
祭日 正月十二日
社地 竪弐間 横三間
3尺 ≒  90.9cm
2間 ≒  3.63m
3間 ≒  5.45m
  社領除地現米高 三斗五升  
  社中復餝神職 元別當寺僧にて、福泉 肇  
  社中人員 弐人 内 男壱人 女壱人  
  岩鼻県迠 拾里  
 「神位」「無之」の部分は、原典では、『「一 神位(削除) 無之」』と書いてある。かっこ込で原典通り。
 また、「社領除地現米高」が2回書いてあるのも原典通り。意味はわからない。

  

6-3-3 1915(大正4年)『上毛吾妻郡神社小誌』
 手元の同書、このページだけ落丁!

  

6-3-4 1920(大正9年)「合併変更願」
   村社三甲原神社は明治40年8月9日附3第308號を以て、本村大字箱島村社甲波宿祢神社、同村大字新巻村社菅原神社同村大字五町田無格社七社神社、同大山祗神社同金原稲荷神社同大山祗社を大字五町田村社三島神社に合併し三甲原神社と改称の儀、御許可相成候に付、直ちに各神社氏子惣代人協議の上日時を定め合併祭執行の旨各社氏子え通知に及び候ところ、大字箱島村社甲波宿祢神社の氏子に於ては種々なる事情を申し立て、合併延期を求め、ために合併祭は自然無期延期のやむをえざる事に相成り、其後時々協議を重ね候へども、各大字を異にせるを以て夫々事情を有し指令通り合併儀は到底覚束なく遂に各大字元村社をして維持方法を設定し、祭祀崇敬の実をあげたく、各神社氏子一同の希望にもとづき合併変更願に及び候次第にて、合併の指令相受け候しより十有三年間各神社共従前の通り春秋の祭典は勿論、その他の大祭小祭共夫々相当執行致し、亦慣例により氏子中に出生者ありし家にては初宮詣りその他新年元旦又は入退営兵士は勿論氏子一般時々参拝し、氏神に対する氏子の意志は全く合併の指令前と同様に之れあり候。
 近年小学校にては職員生徒を引率して大祭当日各生徒のぞくする氏神に参拝し、敬神思想の向上を計りつつあり候次第にて、社殿などの破損或は屋根替等は各氏子の負担にて行い来りおる次第にて名実相伴はず神社の尊厳保持上並に敬神思想涵養上、放任致しがたく候に付、維持方法を設定し、合併を変更し神社の尊厳を高め益々敬神の実をあげ、国風に副い奉らんとする希望に御座候条、元大字箱島村社甲波宿祢神社、及元大字新巻村社菅原神社は従前の通り存置し、大字五町田村社三島神社は、同大字無格社七社神社、同大山祗神社、同金原稲荷神社同大山祗神社を合併し、祭神同一なるものは之を合霊し、旧社号を復活して村社三島神社も改称し、祭祀崇敬致したく候条、何卒特別の御詮議を以て合併変更の儀御ききとどけ相成度、本件御指令の上は別紙調書の維持方法確立いたし候条、社掌氏子惣代並元甲波宿祢神社氏子代表者、元菅原神社氏子代表者連署を以て此段願候也。
  大正9年3月18日 
  県知事 大芝惣吉殿   

  

6-3-4 1929(昭和4年)『群馬縣吾妻郡誌』
 昭和4年(1929年)『群馬縣吾妻郡誌』によると
村社 甲波宿禰~社
   本社は東村大字箱島村字宮貝戸一一三六にあり、境內六百三十四坪、氏子九十四戶あり。
  祭~
速秋津彦神    速秋津姫命 
    境內末社 五十八社
~明宮 天照皇大~。大山祇命。建御名方命。菅原道真公。
明治十年七月、該村字橋倉より天照皇大御~、菅相公、字諏訪久保より建御名方命、字赤澤より大山祇命等移轉せり
伊勢宮 三社   天照皇大御~
明治十年七月該村字行座より移轉せり
 
塞~社 三社   猿田彦命
 
山~社 十七社   大山祇命
明治十年七月該村字三島平赤澤橋倉北平嶌ノ木澤、足り保等より移轉す
 
稻荷~社 拾社   倉稻魂命
明治十年七月該村字宿行座鳴澤等より移轉す
 
水~社 二社   水波水命
明治十年七月該村字赤澤より移轉せり
 
春日社   天兒屋根命
 
八幡社 二社   譽田別尊
明治十年七月該村字森より移轉せり
 
大~社 五社   日本武尊
明治十年七月該村字竹ノ尾足り保より移轉せり
 
秋 葉 三社   埴山姫命
明治十年七月該村字三島平より移轉せり
 
三島~社   大山祇命  
八坂社 二社   素盞嗚尊  
菅原社   菅原道真公  
吾妻社 二社   日本武尊  
御嶽社   國常立尊  
諏訪社   建御名方命  
多賀社   伊弉諾尊  
琴平社   金山彦命  
阿夫利社   日本武尊  
 
  由緒 不詳。
    社殿 本社は間口一間一尺二寸奥行一間三尺七寸にして、本殿上屋あり。拜殿は間口一間四尺奥行二間四尺五寸にして~庫は間口一間四尺奥行二間一尺なり。  

  

6-3-5 1965(昭和40年)『あがつま あづま』
 甲波宿弥神社
   東村大字箱島字宮貝戸一一三六
  祭神 速秋津彦命、速秋津姫命
  本社 板葺権現造 
間口 一間一尺二寸 
奥行 一間三尺七寸
上屋、茅葺権現造
 
  拝殿 茅葺権現造
間口 四間四尺三寸
奥行 二間四尺五寸
拝殿及向拝の彫刻は美しい。
  神庫 板葺
間口 一間四尺
奥行 二間一尺
 
  境内 六三六坪  
  境内社 五十八社
  神明宮 屋根茅葺権現造  
    天照皇大神、大山神命、建御名方命、菅原道眞
    明治十年七月、 字橋倉から天照皇大神、菅原公、
     諏訪久保から建御名方、
       赤沢から大山祇命等移転す。
  伊勢宮 3社
    天照大神
    明治十年七月、 字行座より移転。
  賽神社 3社  
    猿田彦命
  山神社 17社  
    大山祇命
    明治十年七月、 字三島平、赤沢、橋倉、嶌ノ木沢、足利保から移転。
  稻荷神社 10社  
    倉稲魂命  
    明治十年七月、 字宿、行座、鳴沢等から移転。
  水神 2社   
    水波女命    
    明治十年七月、 赤沢から移転
  春日社    
    天児屋根命    
  八幡社 2社  
    誉田別命    
    明治十年七月、 字森から移転
  大鳥社 5社  
    日本武尊    
    明治十年七月、 字竹ノ尾足利保から移転
  秋葉社 3社  
    埴山媛命    
    明治十年七月、 字三島平から移転
  三島神社  
    大山祇命  
  諏訪神社 建御名方神
  秋葉社   2社 素戔嗚尊
  多賀社 伊弉諾尊
  菅原社 菅原道真公
  琴平社 金山彦命
  吾妻社   2社 日本武尊
  阿夫利社 日本武尊
  御嶽社 国常立尊
※上の境内社表は、句読点(「移転」「移転。」「移転す。」)、字の有無(「字竹ノ尾足利保」)など情報源そのままにしてある。
 
  氏子 箱島一円  
  由緒  「当社は速秋津彦神、速秋津媛神を鎮際した御社で、その創建は往古、延暦四年、早良親王の不軌を謀り給えるにくみして、此の地に流され住したという小野金善が、此の地は至る所の渓沢より多くの清水の湧出するのは、全く霊なる水徳のおはします神の恩徳のおはしま神すの恩顧による事と重い、村の中央に廟をつくち、祠を修めて人々各々誠敬を尽くし、報本反始の礼奠をし、以て永久村民に福利をこうむらしめんとして二神を祭り奉り鎮祭した。」という。
 「然して多く湧出する中に刈宣の清水というは殊に霊水で朝夕くんだという」(由緒調査書)
 此の社は延暦四年(七八五)の建立というので、延喜式上野十二社の一である川島の甲波宿禰神社の創建が宝亀二年(七七一)光仁帝の時といはれるので、この後十四年で箱島に勧請したことになる。祭神の速秋津彦神は速秋津姫神とともに諸冊二神の御子で水戸を司り又水戸にあって、祓除を司る祓戸の神ともいう。
 降ってこの神社は白井城主、長尾氏の崇敬のあつかった社である。それは伝説雑記拾遺に「箱島村の古城を寄居という、白井より出帳して城主なし番城なり」とあって物見である堡るいの遺跡は社より二百米ばかり西北にあって寄居といい馬場的場のち名がある。
 長尾昌賢影像記に「元亀三年武田信玄、白井領に乱入のとき、柏原の館をやき伊香保の北に寄居を構え渋川に放火し」とあるが、この寄居は箱島の寄居であろう。
 又神宝として太刀一振を白井城主長尾四郎左衛門景春入道伊玄が献上し社殿を修築したという。寛文四年大明神免として田一反三畝二十五歩、畑一反七畝四歩の神領があったが明治となり上地となった。
 祭典は往古は万福寺住職が奉仕したが明治になり神官となった。
 尚当社は古昔は宿祢大明神といったが、明治元年神祗官布告によって甲波宿祢神社と改称した。この社は合併の形をとらず、明治十年の小祠整理のとき移転という方法によったので、祭神は二柱境内社が五十八社となっている。
 
  宝物 神鏡 径八寸
太刀
神輿 天正三年作という。
 
    箱島村寺社除地水帳によると
  
大明神免
表田 弐拾弐間
拾八間半
中田壱反三畝廿五歩
外八歩入 
万福寺 
つたのき坂 四間
拾六間
山畑弐畝四歩  同寺 
宮ノ前 拾六間
八間
中畑四畝八歩 半右衛門
同所 拾六間
五間半
中畑弐畝二十八歩 同人
同所 拾三間
拾壱間
中畑四畝二十三歩 太郎八(名主)
同所 拾三間
七間
中畑三畝壱歩 同人
小以 三反廿九歩    
 

  

6-3-6 1978(昭和53年)『吾妻郡社寺録』
 甲波宿弥神社
   
  所在地 東村大字箱島字宮貝戸一一三六番地
  祭神 速秋津比古命、速秋津比当ス  
  例祭日 三月十五日、九月二十九日
  氏子数 二一五  
  境内地 六三六坪三六  
  由緒・沿革  光仁帝宝亀二年(七七一)に延喜式上の十二社の一である川島の甲波宿弥神社が創建されたが、本社はそれより十四年の後延暦四年(七八五)早良親王の不軌を謀り給えるに組みして此の地に流されたという小野金善が、川島鎮座の甲波宿弥神社から勧請したという。
 中世に至って白井城主長尾氏の崇敬が厚く、長尾四郎左衛門景春入道伊玄は神宝として太刀一振を献上し、また社殿を修築したという。
 寛文四年(一六六四)大明神免として田一反三畝二十五歩、畑一反七畝四歩の神領があったが明治となり上地した。
 祭典は往古は万福寺住職が奉仕したが、明治になり神官となった。尚当社は古昔は正一位宿弥大明神といったが、明治元年神祇官布告によって甲波宿弥神社と改称した。
 
  宝物その他  明治初年別当院(社務所)火災のため古記録類は悉く焼失した。
 宝物は、神鏡(径八寸)太刀、神輿(大正三年作と伝えている)がある。
 神社表鳥居に享保十九年宿弥大明神とあり、社殿は当時のものであるが、拝殿の石立端柱の獅子十二頭、屋根下の鶴の彫刻、鴨居の龍、天井板の狩野流の絵画等貴重な文化財である。
 境内に東村三名木の一の大欅がある。
 
  神職・宮司 海野恭斉  
  役員・総代人 責任役員  鳥山文夫、大塚喜大治、小林徳平、青木正作、茂木貞雄  
 

  

6-4 箱島湧水発電所
 これは発電所。箱島湧水を利用して発電している。
 もともとは明治43年(1910年)に箱島湧水をダムに貯めて発電する発電所として開業。昭和31年(1956年)に廃止となったが、騒音対策を行って平成29年(2017年)に民間事業者による「箱島湧水発電所」として復活した。自然エネルギーによる発電により、地元の民家の400世帯分の電気をまかなっているそうだ。

  

6-5 リンク
サイト 題名 リンク 日付
群馬県神社庁 県内神社紹介 吾妻支部  
玄松子の記憶 甲波宿禰神社  
延喜式神社の調査   甲波宿祢神社  
神社探訪・狛犬見聞録   甲波宿禰神社 2010/05/22
上州まったり紀行   東吾妻町箱島・甲波宿禰神社 2012/12/02
ビーズうさぎのハナちゃんです!!   群馬県東吾妻町、箱島甲波宿禰神社の大欅です!! 2016/11/04
群馬県緑化推進委員会 群馬県の巨樹古木 甲波宿禰神社の大ケヤキ 東吾妻町 2020/03/11

  

6-6 参考文献
書名 著・編
『群馬県百科事典』 上毛新聞社 上毛新聞社 昭和54 1979
日本歴史地名大系〈10〉
『群馬県の地名』
尾崎喜左雄 平凡社 昭和62 1987
角川日本地名大辞典
第10巻『群馬県』
「角川日本地名大辞典」
編纂委員会
角川書店 昭和63 1988
郷土資料事典・県別シリーズ10
『群馬県─観光と旅』
人文社 人文社 平成03 1991
日本の文化地理4
『茨城・栃木・群馬』
講談社 講談社 平成03 1991
  『群馬新百科事典』 上毛新聞社 上毛新聞社 平成20 2008
『knowledgeぐんま 群馬知的探訪』 群馬県企画部広報課 群馬県 平成20 2008
『高崎千年物語』 若林徹 高崎市 平成23 2011
『上毛 吾妻郡神社小誌』 群馬縣神職會吾妻支部 群馬縣神職會吾妻支部 大正04 1915
『上野国の信仰と文化』 尾崎喜左雄 尾崎先生著書刊行会 昭和45 1970
『上野国神名帳の研究』 尾崎喜左雄 尾崎先生著書刊行会 昭和49 1974
『吾妻郡社寺誌』 西毛新聞社 西毛新聞社 昭和53 1978
『令和元年版 吾妻郡神社要項』 神社庁吾妻支部 神社庁吾妻支部 令和01 2019
『群馬県吾妻郡誌』 群馬県吾妻教育会 群馬県吾妻教育会 昭和04 1929
『原町誌』 原町誌編纂委員会 群馬県吾妻町 昭和35 1960
『あがつま太田村誌』 太田村誌編纂委員会 太田村誌編纂委員会 昭和40 1965
『あがつま あづま』 あづま村誌編纂委員会 あづま村誌編纂委員会 昭和40 1965
『あがつま坂上村誌』 坂上村誌編纂委員会 坂上村誌編纂委員会 昭和46 1971
『長野原町誌』上下巻 長野原町誌編纂委員会 長野原町 昭和51 1976
『中之条町誌』第1-4巻 中之条町誌編纂委員会 中之条町 昭和51

昭和58
1976
-
1983
『なかのじょう地域散歩』 中之条町教育委員会 中之条町教育委員会 平成31
令和02
2019
2020
「吾妻資料集録」復刊版 上巻   (一財)群馬地域文化振興会 昭和24
令和01
1949
2019
   『吾妻記』 著者不詳(一説では林理右衛門) 刊年不詳
   『吾妻軍記』 圓聖法印   刊年不詳
   『吾妻古戦録』 著者不詳(一説では林理右衛門) 刊年不詳
   『原町岩櫃城記録』 著者不詳(圓聖法印と推定) 天和03 1683
   『吾妻傳説』 著者不詳   刊年不詳
   『吾妻郡略記』 上原政右衛門代完   元禄〜享保 1695-1722
   『吾妻太郎記』 著者不詳   天正年間 1573-1592
「吾妻資料集録」復刊版 下巻   (一財)群馬地域文化振興会 昭和24
令和01
1949
2019
   『天明浅間山津波實記』 富澤久兵衛   天明03 1783
   『浅間山焼出し大變記』 義珍法印   天明03 1783
   『再編吾妻記』 圓聖   享保05 1720
   『修験岩櫃記』 圓聖   元禄〜享保 1688-1736
   『吾妻古城記』 著者不詳   天保07 1836
   「古文書」数点     天正年間 1573-1592
『上野国郷帳集成』 丑木幸男 群馬文化事業振興会 平成04 1992
   『寛文八年上野国郷帳』        
   『元禄十五年上野国郷帳』        
   『上野国御改革組合限地頭性名并村名郡附帳』    
   『天保五年上野国郷帳』        
   『旧高旧領取調帳 上野』        
『日本城郭全集 全10巻』 井上宗和 日本城郭協会 昭和42 1967
『吾妻郡城壘史』 山崎一, 山口武夫 西毛新聞社 昭和47 1972
日本城郭大系 4
『茨城・栃木・群馬』
阿久津久・峰岸純夫・山崎一ほか 新人物往来社 昭和54 1979
『関東の名城を歩く 北関東編』
茨城・栃木・群馬
峰岸純夫・斎藤慎一 吉川弘文館 平成23
平成29
2011
2017
『信濃をめぐる境目の山城と館 上野編』 宮坂武男 戎光祥出版 平成27 2015
県史10
『群馬県の歴史』
西垣晴次・山本隆志・丑木幸男 山川出版社 平成09
平成25
1997
2013
           
街道の日本史16
『両毛と上州諸街道』
峯岸純夫・田中康雄・能登健 吉川弘文館 平成14 2002
街道の日本史25
『北国街道 東北信濃と上越』
古川貞雄・花ヶ前盛明 吉川弘文館 平成15 2003
『交流の地域史 ―群馬の山・川・道―』 地方史研究協議会 雄山閣 平成17 2005
           
シリーズ「遺跡を学ぶ」
『東アジアに翔る上毛野の首長』
大塚初重・梅澤重昭 新泉社 平成29 2017
『東国文化副読本』 群馬県
群馬県歴史文化遺産発掘活用発信実行委員会
平成31 2019
「常設展示解説図録」 中之条町歴史と民俗の博物館「ミュゼ」 平成25 2013
『榛名の歴史』 幽々山人・赤蛙仙子 群馬県室田町 明治38 1905
みやま文庫7
『榛名と伊香保』
みやま文庫 みやま文庫 昭和38 1962
みやま文庫10
『群馬の古城阯』
みやま文庫 みやま文庫 昭和38 1962
みやま文庫23
『上毛古戦記』
山崎一 みやま文庫 昭和40 1965
みやま文庫36
『中仙道』
相葉伸 みやま文庫 昭和45 1970
みやま文庫41
『上州の諸街道』
相葉伸 みやま文庫 昭和46 1971
みやま文庫77
『群馬の墓めぐり 市部篇』
萩原進 みやま文庫 昭和55 1980
みやま文庫79
『群馬の墓めぐり 郡部篇』
萩原進 みやま文庫 昭和55 1980
真田町文化財調査報告書
『大笹街道』
真田町教育委員会 真田町教育委員会 昭和57 1982
ぐんま歴史新書2
『岩櫃城風雲録―戦国史話』
関怒濤 吾妻書館 昭和57 1982
『榛名町の伝説』 樋口秀次郎 榛名町広報委員会 昭和58 1983
『増補改訂版 浅間山風土記』 萩原進 煥乎堂 昭和59 1984
みやま文庫97
『真田氏と上州』
唐沢定市 みやま文庫 昭和60 1985
みやま文庫116
『群馬の山の文学』
小暮理太郎・深田久弥ほか みやま文庫 平成2 1990
みやま文庫117
『諸国道中商人鑑』
萩原進 みやま文庫 平成2 1990
みやま文庫118
『烏川の源流』
小林二三雄・飯島靜男 みやま文庫 平成3 1991
みやま文庫143
『上野武士団の中世史』
久保田順一 みやま文庫 平成8 1996
『赤城山の文学碑』 五十嵐誠和・柳井久雄 上毛新聞社 平成9 1997
みやま文庫152
『吾妻史帖』
唐沢定市 みやま文庫 平成10 1998
群馬伝説集成1
『吾妻の伝説』
脇屋真一 あかぎ 平成10 1998
『群馬の名水をたずねて』 月間上州路編集部 あさを社 平成14 2002
下仁田自然学校文庫1
『下仁田ネギ ―ネギの来歴を追って―』
里見哲夫 下仁田自然学校 平成15 2003
みやま文庫179
『群馬の峠』
須田茂 みやま文庫 平成17 2005
『中之条町の文化財』 中之条町教育委員会 中之条町教育委員会 平成15
令和03
2003
2021
第14回特別展
『はるな30年物語』
高崎市等広域市町村圏振興整備組合立
かみつけの里博物館
かみつけの里博物館 平成18 2008
『たけやま』 唐澤定市・奈良秀重 山里テーマパーク部会 平成19
平成28
2007
2016 
『ぐんまの伝統食』 上毛新聞社出版メディア局 上毛新聞社 平成20 2008
『中之条町の石造物』 中之条町教育委員会 中之条町教育委員会 平成20 2008
沢渡温泉史 唐澤定市 沢渡温泉組合 平成20 2008
『群馬の小さな温泉』 小暮淳 上毛新聞社 平成22 2010
戦国史
上州の150年戦争
  上毛新聞事業局出版部 平成24 2012
群馬県石造文化財総合調査報告書
上州の近世石造物(一)
「道祖神と道しるべ」
群馬県教育委員会 群馬県教育委員会 令和01 2019
群馬県石造文化財総合調査報告書
上州の近世石造物(二)
「庚申塔と月待・日待塔」
群馬県教育委員会 群馬県教育委員会 令和01 2019
『広報なかのじょう ふるさと再発見』 中之条町教育委員会 中之条町教育委員会 令和02 2020
『利根の里山』 後藤信雄 上毛新聞社 令和03 2021
『戦国人 ―上州の150傑―』 群馬県立歴史博物館 上毛新聞社 令和03 2021
『戦国上野衆事典』 久保田順一 戎光祥出版 令和03 2021
           
『群馬県の山と高山植物』 小林二三雄・堀正一 上毛新聞社 昭和54 1979
『群馬の山』1
尾瀬・武尊・渡良瀬川流域
群馬県山岳連盟 上毛新聞社 昭和62 1987
『群馬の山』3
上信・妙義荒船・西上州
群馬県山岳連盟 上毛新聞社 昭和64 1988
『群馬の山』2
奥利根・上越・県央
群馬県山岳連盟 上毛新聞社 平成01 1989
『群馬の山歩き130選』 安中山の会 上毛新聞社 平成03
平成26
1991
2014
フィールドガイド日本の火山@
『関東・甲信越の火山T』
佐々木実・奥野充・筒井正明・竹本弘幸・早田勉・早津賢二
高橋正樹・小林哲夫
築地書館 平成10 1998
歴史文化ライブラリー166
『浅間山大噴火』
渡辺尚志 吉川弘文館 平成15 2003
『なるほど赤城学』
赤城山の自然と歴史・文化
栗原久 上毛新聞社 平成19 2007
『ぐんま百名山 まるごとガイド』 横田昭二 上毛新聞社 平成19
平成28
2007
2016 
『なるほど榛名学』
榛名山をとことん知ろう
栗原久 上毛新聞社 平成21 2009
分県登山ガイド09
『群馬県の山』
太田ハイキングクラブ 山と渓谷社 平成28 2016
『群馬の川』 斎藤叶吉・山内秀夫 上毛新聞社 昭和54 1979
地学ハンドブックシリーズ17
『かぶら川の石図鑑』
下仁田自然学校
鏑川の石図鑑編集委員会
地学団体研究会 平成17 2005
北関東川紀行U
『鬼怒川・小貝川・渡良瀬川』
栗林芳實・東敏雄 随想舎 平成21 2009
北関東川紀行V
『利根川』
栗林芳實・東敏雄 随想舎 平成23 2011
『吾妻渓谷見て歩き』 浦野安孫 上毛新聞社 平成26 2014
『鎌倉・室町人名事典』 安田元久 新人物往来社 昭和60 1985
『室町幕府守護職家事典』上・下 今谷明, 藤枝文忠 新人物往来社 昭和63 1988
『南北朝武将列伝 南朝編』 亀田俊和、生駒孝臣 戎光祥出版 令和03 2021
『南北朝武将列伝 北朝編』 亀田俊和、生駒孝臣 戎光祥出版 令和03 2021
           
           

  

 
 

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