それに対し千曲川の左岸には、古くから「塩田平」と呼ばれる平野部がある。ここは古代・平安時代に朝廷と関わりがあった歴史ある地域である。その中央部にあるこの神社は、古代の信濃国造の住居跡なのではないかと推定されている。神社の1km東には、6世紀の古墳群がある。
![]() この写真を見てどこだと思うだろうか。川崎?横浜?
![]() 線路が単線なのがわかるだろうか。 ここは塩田平を走る上田電鉄別所線である。東急で引退した車輌を譲り受けて走らせているローカル鉄道なのだ。 ![]() この写真の右側に、クリーム色と紺色のツートンカラーの車輌が写り込んでいる。あれが上田電鉄でかつて使われていた車輌だ。 いまはローカルだが、昭和30年代後半(1963年)まではさらに分岐した支線が2本通じていて、塩田平を縱??に鉄路が張り巡らされていた。その中心駅が「下之郷」駅。ここで別所温泉を目指す「別所線」と、隣町を目指す「西丸子線」が分岐していた。 ![]() そこから数分で神社の入り口が現れる。 ![]() 気づいていると思うけれど、 このページの現地写真がキラキラした感じなのは そういう加工をしたからではない。 撮影に使用した携帯のカメラのレンズ部が傷ついていたらしく こうなってしまったのだ。 ![]() 境内の約半分は池である。 その池に島があり、「上宮」がおかれている。 この島の2間×2間(3.6m四方)、すなわち約8畳の土地が「御神体」。 神様は日本の国土生成の神霊であり、日本列島の総鎮守である。 これはその上宮の脇にある「磐座磐境」という岩。 ![]() 上宮の反対側には「下宮」として諏訪神社が置かれている。 これはその脇にあった「夫婦欅」。 ![]() ![]() よくわからないが巫女さんの撮影が行われていた。 ![]() 境内には歌舞伎舞台があり、これが長野県の「県宝」となっている。 ![]()
なかも見学できるようになっていて、武田信玄公と二十四将にまつわる史料が展示されていた。 なぜ武田二十四将なのかというと、 かつてこの神社に武田信玄の配下の武将が全員集合したことがあるからだ。
見学できる歌舞伎舞台のなかには、 このとき納められた戦勝祈願書だとか、 各武将の直筆の起請文だとかが見せびらかすように展示してある。 これが国の重要文化財「紙本墨書生島足島神社文書」である。 これは全て眺めるだけでも1日かけても楽しいような文書だけど、 結構混んでいて、残念ながらそこまでじっくりジロジロ見るような雰囲気じゃないのが残念だ。 こちらのサイトに、そのリストと全画像があるのでぜひどうぞ。 戦国時代には、神社への寄進に関する数多くの史料が残されている。 それらを総合すると、その頃はこの神社を単に「下郷」と呼んでいたらしいと考えられている。 そのほか、武田信玄の書状では「下郷明神」「下郷諏方法性大明神」などの記録もある。これが江戸時代になって、「生島足島神社」を名乗ることを許されている。 戦国時代以降、上田の領主となった真田氏は、この神社を保護し、社領として40貫文を与えている。時期は不詳だが、神社の面積は3,554坪、境内の内外に14の摂社を従えていたとある。
【長野県神社庁データ】
【関連神社】 *泥宮 - 生島足島神社の元宮ともされる小祠。 【参考資料】 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 【リンク】 *生島足島神社公式サイト *生島足島神社について | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
参拝日:2013年09月30日 |