慣れ不慣れだけの問題なのかもしれないが、神社よりも寺のほうが敷居が高いと思うのだ。いや、「敷居が高い」という言い回しの正しい字義は知っている。自分の側に不義理があって訪問しづらい状況のことを「敷居が高い」というのが本来の意味であって、相手がお高くとまりやがって入りづれえじゃねえかというのは「敷居が高い」とは言わないのだが、その本来の意味での敷居が高いのだ。 神社はそれなりの数を訪問してそれなりの知識や作法は習得したし、私が訪問するような神社はかなりの割合で無人なのであまりそこらへんも憚られないし、むしろその神社の周りにたむろしている地元民とのコミュニケーションが重要な情報源だったりするのだが、寺となると僧職とのエンカウントは避けがたいし、なにかこう、神職よりも僧職のほうが律法とか修身に厳しそうな感じがして、「冷やかしでくんな、この観光客風情が、こっちはガチなんだよ」みたいなオーラを感じてしまうのだ。いや、そのオーラとやらは結局のところこの私の内から湧き出る心情を映しているだけなんだろうけども。 というわけで山域へ入るときはいつも緊張するというのに、前山寺の入り口にはこんな黒門が待ち構えている。見ての通り、敷居はない。ゼロレベル、フラットである。 「黒門」という名前からして、何か無作法をすると首を刎ねられて、この門の上から生首を吊るされるのだろうかと、そんなことを想像しながら冠木門を通過。 ズバンと石畳の参道が続く。この石畳は、今の天皇陛下が皇太子の時代にここを訪れることになって、そのために敷いたものだそうだ。別におまえらのためじゃないんだぜ。 その参道を左右からお地蔵様が挟んでいる。FF3だとぼけーっと侵入するといきなりゲームオーバーになるとこだ。四元素の牙を集めておかないとね。 大木の陰に隠れながら隙をみて通り抜ける。 よし、侵入成功だ。 入るとすぐに説明看板の洗礼を受ける。 まだ寺の建物の影も見えないというのに、早速この参道が天然記念物なのだ。古刹は違う。
というわけで、焼かれる危険に身を晒しながら150メートルの参道をクリアすると、目の前に石段が登場する。あの作務衣の人がいなくなったら行動開始しよう。 横を見ると、間知石の石積みと塀が続いているのがわかる。城か。▲の穴が開いているようだけど、あれってあそこから火縄銃とかで外を撃つためのやつでしょ? この石段の脇に、また説明看板があるので確認しておこう。
知らない言葉がたくさんあって意味がわからない部分もあるが、まあいいだろう。 真言宗のなかに「新義」と「古義」があるということがわかるが、9世紀前半に空海が高野山で教えたのが「古義」、12世紀前半に覚鑁が根来寺で教えたのが「新義」ということらしい。学校では「覚鑁」は習わないから知らないよね。根来寺というと、戦国時代とか秀吉とか柳生とかでよく鉄砲売ったり撃ったりして滅ぼされている印象だけど、滅ぼされたせいで残党が諸派に分裂し、「○○派」がいくつか誕生した。「智山派」もそのひとつ。分裂したと言っても対立抗争をしているわけではなく、新義真言宗の総本山である根来寺の座主は、智山派と豊山派で交互に務めている。 さあ・・・行こうか・・・ 実は上の薬医門のところの写真ですでに見切れているんだけど、 門を入ると正面に早速三重塔がみえる。出し惜しみはなしだ。 というより、「門を通して塔が見える」という景を狙って敷地全体が設計されているわけで、 つまりこの景を見ずして何を見るって世界なのだ。 いちおう拝観料は200円なんだけど、 ここまで車で乗り付けて写真だけ撮って帰っていく奴らがうじゃうじゃいる、 と、昭和50年代の文献に苦言が書いてあった。 昔の人は容赦ないねえ。 こちらは余裕のあるとこをみせるため、ごちそうは最後にとっておこう。 フランス料理だってメインディッシュはコースの開始から1時間以上先だ。 まずは境内からうろつこう。 実のところ、炎天下、徒歩で、1時間半をかけて、駅からここまで約3キロ、高低差約180メートルを寄り道しながら、しかも水分も栄養分も無補給で来ている。その前に別所温泉付近をたっぷり2時間散策しているので、正直ふらふらなのだ。 本堂。 茅葺きの屋根が、のっぺりしていながら、ずっしりとしたマッシヴな量塊感(自分でも半分何言ってるかわからない。)がすごい。 私の調査に拠ると(Google調べ)、この屋根はバブル全盛期の平成元年(1989年)に茅葺きに葺き替えたもの。 この写真は2009年に撮ったものだけど、その数年後にヨシで一部葺き替えが行われているそうだ。 ヨシとカヤを見分けられる自信はないが。 写真の右奥に銅像があるのに注目。 桔梗の紋は、新義真言宗の宗紋なんだそうだ。
いろいろ総合すると、この寺の歴史は次のような感じになる。
塩田北条氏は、執権の北条氏の弟の家系である。1333年に鎌倉幕府が新田義貞に滅ぼされるとき、塩田北条氏も一族あげて鎌倉幕府援護のために出撃しており、鎌倉で自刃している。『太平記』ではわざわざ塩田北条氏の滅亡について一節があてられており、一族郎党が死んだほか、塩田に残っていた家族も一人残らず自刃したと伝えられている。 その後まもない時期に三重塔が建立されたのは、塩田北条氏の滅亡ときっと関係があるのだろう。当てずっぽうだけど。 また、武田勝頼による朱印状で寺領が約10.5貫文とあるが(1000文=1貫文)、別所温泉にある有名寺の安楽寺や常楽寺が同じ頃1貫文だったことと比べると、この前山寺がいかに大勢力だったかが窺い知れるのではないだろうか。 ではいよいよメインディッシュを御覧いただきましょう。 これが国の重要文化財、“未完の完成品”前山寺三重塔です。
この建物の特徴は、かなり大雑把に言うと2つある。 (1)明らかに建築途中でやめていること。 (2)和風と中華風がまぜこぜになっていること。
ほかにもいくつかそういうところがあるが、外部から見てはっきりわかるのはこの点だけだ。ここが「未完成」のまま放置されていることから、この三重塔は未完成と言われている。 ところが、ここが未完成であると判った上で全景を眺めても、違和感がない。
この通り。むしろシュッとしていてスマートでかっこいい。 実用性を欠く余計な装飾の手摺は、むしろ無い方がいい。 これゆえにこの三重塔は「未完の完成品」と称賛されているのだ。 飾りでしかないベランダなど要らぬ、 下の句など蛇足、手すりなんて飾りです、偉い人にはそれがわからんのです、 これを南北朝時代からわかっていた人がいるのだ。 これがどうしてこうなっているのかは、わかっていない。 ただ、ここと同じように、 ただ部材があるだけでなくそこに次の部材が来るための加工までしてあるのに、 そこで作業がストップしたままになっている寺社が長野県にはほかにもあることから、 これは本当に「未完の完成品」なのではなく、 こういう様式として長野あたりで流行っていたのではないか、という説もある。 ところで、上の3枚の三重塔の写真のうち、 前山寺三重塔(左端)と、右端の法起寺三重塔を見比べていただこう。 1階と2階、3階の大きさを比べると、 法起寺の三重塔は3階が1階の半分ぐらいしかないのに対し、 前山寺はそんなに変わらない。正確に数字で表すと、3階の幅は1階の81%になっている。 この比率が、時代によって特徴的であり、 この三重塔が南北朝時代のものと推定される要素の一つだ。 ちなみに右端の法起寺三重塔は飛鳥時代。 真ん中の西明寺三重塔は鎌倉末期なので前山寺と時代が近いのである。 それから「和風と中華風の折衷」が特徴的なのが、この玄関ドアだ。
同時代の他の物件と比べると、右の2件はドアがペロンとした板であるのに対し、 前山寺三重塔のドアは縦横の格子の装飾がある。 これが唐風(桟唐戸)なのだ。 まあ「唐」といっても唐の国は907年に滅びているから、 南北朝初期すなわち1300年代前半というと元の時代になっちゃてるんだけども、 禅宗は宋の時代に起こったので宋風ということになる。 しかし普通あまり「宋風」という言い方はしない。 そこらへんの細かいことはともかく、要するに中華風ということだ。 そもそも仏教自体がインドからのものだし、寺に三重塔を作るというのも インド・中国を経て伝来したものだから、元来は中華風で当たり前なのだが、 それが数百年日本でブラッシュアップされるなかで和風の様式に進化していた。 真言宗なんてのはその最たるもので、相方の「天台宗」は中国で発祥した宗派なのに対し、 真言宗はメイドインジャパンなのである。 13世紀から14世紀の頃には、中国で禅宗が主流となり、 それが日本にもやってきた。 今では中国では仏教をやらないので「禅」といえばすっかりジャパニーズカルチャーだけども、 当時は「禅」は中華文化だったのだ。 寺に伝わる縁起では、この三重塔は鎌倉時代に作られたことになっているのだが、 こうした中華様式の混淆などの特徴から、 実際には室町時代初期(南北朝時代)の建造だろうとみられている。 そのほかの見どころは、 このブワッっと広がる屋根だ。 水はけに問題が生じるのではないかと心配になるぐらい反り返っている。 建物本体と比べると、屋根が倍ぐらい外側に飛び出しているのがわかるだろう。 (写真の角度とかもあるだろうが)上の国宝の法起寺の三重塔と較べても、 建物に対する屋根の幅の大きさや反り返りっぷりが甚だしいのがわかるのではないだろうか。 その屋根の下がゴテゴテしている。 このゴテゴテを組物というのだが、この重厚感がたまらんのだ。 現代の建築技術ならば、鉄骨の梁を一本ビシっと渡して屋根を載せるだけだが、 昔の木しかない時代にはそういう工法がない。 丸太をズバンと通せばいいじゃないかと思うかもしれないが、 それだと重すぎるし、一箇所に負担がかかりすぎる。 それで、こうやって細かい部材を積み重ねてちょっとずつ張り出していって、 建物の2倍ぐらいの広さの屋根を支えているのだ。 この組物をよーく凝視すると、どこがどこを支えているのかわかる。 色分けしてみた。 この屋根の場合、三段階でアーム(肘木)を伸ばして支えている。 これを「三手先」という。 三段目(黄色)がビローンと尻尾みたいに伸びている部分がある。 これを「尾垂木」という。 二段までだとこのビローンはない。三段目にビローンがつくことで、 大きく外に張り出すことができるのだ。 【長野県神社庁データ】
【関連寺社】 *中禅寺 *塩野神社 【参考資料】 『信州の鎌倉―塩田平古寺巡礼』(クリエイティブセンター、1979) 『信州のまほろば 塩田平とその周辺』(令文社、1972) 『信州の鎌倉塩田平の文化と歴史―塩田とその周辺の文化財を探る』(信毎書籍出版センター、1983) 『県史20 長野県の歴史』(山川出版社、1997、2010) 『長野県 地学のガイド』(コロナ社、1979、2001) 『長野県百科事典』(信濃毎日新聞社、1974、1981) 『長野県の歴史散歩』(山川出版社、2006、2011) 『長野の大地見どころ100選』(ほおずき書籍、2004) 『長野県の山』(山と渓谷社、2010、2015) 『長野県地名辞典』(角川書店、1990) 『見る知る信州の自然大百科』(郷土出版社、1997) 『信濃の橋百選』(信濃毎日新聞社、2011) 【リンク】 *公式サイト *長野県の塔(前山寺) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
参拝日:2009年06月24日 |