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兵庫県

明石市

播磨国
やすみ天神社 -
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菅原道真公を祀る『明石天満宮』

菅公

菅原道真(天神様)が九州に左遷されていく道すがら立ち寄って休憩した、という故事による神社である。すなわち、「やすみてん・じんじゃ」なのではなく、「やすみ・てんじん・社」なのだ。

一般的には「休天神(やすみてんじん)」と言ったり、「明石天満宮 」と称することも。

大宰府に左遷される菅原道真が道端で休んだ石「腰掛石 」を祀った神社である。

所在

兵庫県明石市大蔵天神町

創建

903年(延喜3年)

祭神

菅原道真
菅原道真は平安時代の官人である。漢詩など文才に秀で、「学問の神様」として信仰されている。

平安時代の前期、藤原氏が権勢を振るうようになる。日本で最初の関白となり、藤原氏絶頂期を築いた一人が藤原基経(836-891)である。それ以前から藤原氏は摂政を務めるようになっていた。摂政という役職は天皇が幼少である時期に限られるが、関白は天皇が大人になったあとも政権を握る。天皇には実際上の権力は無いも同然となる。

実際に、藤原基経は天皇の人事さえも思うままにした。基経は、自身の甥で幼少の陽成天皇(9歳)の摂政だった。(陽成天皇の父が清和天皇であり、陽成天皇の弟・貞純親王の子が清和源氏の祖・源経基である。) しかし陽成天皇が成長し17歳になると、基経は陽成天皇を廃位させた。そして自分の思う通りになる光孝天皇を即位させ、その後ろ盾として事実上の最高権力者となった。その数年後、光孝天皇が危篤に陥ると、臣籍降下によって源姓となった源定省(光孝天皇の第七皇子)を皇太子に戻して即位させた。いちど臣籍降下した者を即位させたのは前例のないことだった。こうして即位した宇多天皇は、藤原基経に関白就任を打診するが、基経は「言い方が気に食わない」としてこれを蹴り、宇多天皇は身内を切って詫びを入れるハメになった(阿衡事件)。

基経が死ぬと、宇多天皇はようやく実権を手にした。宇多天皇は藤原氏の影響を廃するために、藤原氏(藤原北家)以外の出自の人物を盛んに取り立てた。その筆頭格が菅原道真である。

宇多天皇はこの体制を確立するため、菅原道真を厚遇するとともに、息子の醍醐天皇に譲位して自らは上皇となった。醍醐天皇は、宇多天皇が「源定省」の時期に生まれた子であり、家臣として生まれた者が即位した唯一の例である。

宇多天皇(上皇)・醍醐天皇の治世は「寛平の治」と呼ばれ、藤原氏・摂関によらない天皇親政によって多くの改革を実現したものとされている。

しかし、藤原基経の子である藤原時平は、宇多上皇が実権をもっていることに不満のある醍醐天皇にとりいることに成功した。時平と醍醐天皇は、共謀して菅原道真の追い落としに成功した(昌省の変)。昌泰4年(901年)のことである。こうして、菅原道真は急速な出世のあとに太宰府へ左遷され、その2年後に不遇のまま没する。

菅原道真が太宰府へ流される途中、明石の駅家で休息をとったと伝えられており、神社はその駅の跡地とされている。そのときに腰掛けた石というのが「腰掛石(菅公踞石)」として祀られているが、これは、旧山陽道に面した大蔵院という寺から移設されたもの。

実際の「駅家」の位置については諸説あり、ここから北に1km弱のあたりにも石碑があるそうだ。

菅原道真は讃岐守に任じられていたので、四国へ渡るために明石の駅家はちょくちょく利用しており、駅家の駅長とは知己があった。道真の左遷を嘆く駅長に対し、道真はこう詠んだとされている。

 驛長無驚時變改 一栄一落是春秋

 (駅長驚くなかれ 時の変じ改まるを 一栄一落 これ春秋)
 (駅長ドンマイ、時間が経って浮き沈みが起きるのは、季節がめぐるのと同じ普通のことだし)

この歌を詠んだのが道真だというのが、いわゆる史実であるかは定かではないが、境内にはこの歌を刻んだ歌碑もある。


国道2号線に面している。

目の前に歩道橋があり、歩道橋の上から境内全体を俯瞰できる。

内地の神社を見なれた目からすると、
やや殺風景な境内、神社という印象もあるのだが、
これでも北海道のほとんどの神社よりも手入れの行き届いた、
豪華な社殿と言ってよい。

住所をみると、稲爪神社があるのが「大蔵町」、休天神のあるのが「天神町」、八幡神社があるのが「八幡町」となっている。3つの神社は3、400メートルの距離にあるのだが、全部住所が違っていて、それぞれ神社に由来する街区名というのはさすが内地だ。

今は固有の宮司さんが居るわけではなく、道路を挟んで斜め向かいにある稲爪神社で管理しているようだ。

【兵庫県神社庁データ】
名称 休天神社 No

 

所在 明石市大蔵天神町2-7 TEL 078-911-3143(稲爪神社
FAX
例祭日
社格
祭神 菅原道真公
交通
社殿
境内     
氏子世帯 崇敬者数 
摂末社
備考 

西暦 元号 和暦 事項 備考
             
886 仁和  2     菅原道真、讃岐守に任じられ、讃岐へ下向。  
890 寛平 2     讃岐から帰京  
895 7     従三位・中納言に昇進  
897 9     正三位・権大納言に昇進。近江守を兼任。  
899 昌泰 2      右大臣に昇進  
901 4 1  7 従二位に昇進  
1 25 昌泰の変 菅原道真が失脚し太宰権帥として太宰府へ左遷  
延喜 7 15 延喜に改元  
904 3 2 25 菅原道真が太宰府で没する  
    明石驛家の駅長が道真のために祠を設ける(休天神社の創建)  
             
             
1673 延宝 4     明石城主松平信之が神社とする  
             
             
1971 昭和 46     本殿の屋根が半焼、翌年修理。  
             

【参考資料】
明石観光協会 休天神社春祭
 『角川日本地名大辞典28兵庫県』(1988)、角川書店

【リンク】
*JRおでかけネット
*神戸の空の下で。〜街角の歴史発見〜明石休天神社

参拝日:2015年02月01日
追加日:2015年02月26日
修正日:2017年07月07日

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