別所神社は鎌倉時代初期の建久年間(1190-1199年)の創建と伝わり、江戸時代には熊野社として安楽寺や常楽寺と同程度の規模を有していたらしい。これが明治時代に数多くの小祠を合祀して別所神社となり、縁結びの神となったが、今現在は主体としての神社としては営まれておらず、氏子会によって建物が維持されている。
常楽寺を参詣し、温泉街に向かって坂を下る途中に、細い脇道があり、鳥居が設けられている。
これがその社殿。 ![]()
この説明文のなかでも「熊野大権現」とあるけれど、和歌山県の熊野本宮大社から勧請されたものだという。建築様式も全国の熊野神社の様式と共通しているんだとか。建築に携わった棟梁の末野氏は、塩野神社の造営でも名前が出てくる一家だ。 印象論だけど、なんかどうも、現役の神社というよりは、「遺跡」とまでは言わないが「神社跡」という雰囲気。いや、実際にはちゃんと人の手が入っている現役神社なんだけども。
![]() こちらは舞台(神楽殿)。でかい。正面の大梁が凄い。 田舎の山の中の神社とかにいくと、壁や雨戸の無い神楽殿なんていくらでもあるけれど、 これだけの大きさで壁も無いと、台風の時とかどうしているんだろうと気になってしまう。 ![]() 割と若い竹なんだろうと思うが、何年か経つと人が侵入できないぐらいの竹藪になりそうな感じ。 その森の中にケモノ道みたいな小路がある。 ![]() そこを辿ってゆくと大きな石碑があった。日露戦役凱旋紀念碑とある。 ![]() ![]() 文字は陸軍大将子爵寺内正毅によるもの。ご存知かとは思うが、のちに第一次世界大戦時期の総理大臣となる人物である。特に信州にご縁があるというわけでは無さそう(長州出身者)。どうも日本中に彼の書による碑があるようだ。 字うめえ、と思ったら、西南戦争のときに右手を負傷して不自由になり、左手で書いていたらしい。字うめえ ![]() こちらはうってかわって控えめな石。 これもちゃんと後世に残るのだから、私もそこらへんの大石になんかメッセージを刻んでこっそり山奥の神社にでも置いておけば300年後ぐらいまで残るのではないだろうか。300年後に伝えたいメッセージとか思いつかないけども。 ほかにもこんな感じで祠が並んでいる。 境内はなんだか地面が凸凹しているし、 木や根がすごくて、「整備された境内」という雰囲気ではない。 ![]() なにかこう、他所から山奥の空き地に仮で移設してきて仮で並べた感が。 文献によると、明治時代に熊野社に8つの神社を合祀して別所神社となっており、いまは神明社、金比羅社が境内にあるのだという。 ![]() 北海道の山奥にありそうな丸太の鳥居。 ![]() ![]() 石灯籠なんかもみえているけども、仮で並べただけ感がすごい ![]() ![]() ![]() 「皇大神社」と読める。 はっきりしないが、これらの3祠は「後世に持ってこられたもの」らしい。こいつらが集まって、一番最初の鳥居の社額にあったように、「縁結びの神」として祀られるようになったのだとか。 【長野県神社庁データ】
【関連寺社】 *常楽寺 *安楽寺 *北向観音 【参考資料】 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 【リンク】 *神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識(別所神社) *長野県の神社建築情報サイト・おみやさんcom(別所神社) *上田市文化財マップ(別所神社) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
参拝日:2009年06月24日 |